第25話

 会議開始から一時間後、私の願いはなんとか叶った。


 そう、無事に会議は終了したのだ。

 足りない部分は、課長が訂正や追加をしてくださった。円滑に進むように手を回してくれたおかげで、特に問題はなく終えることができた。これは成功と言ってもいいと思う。しかし、この成功は会議そのものの話である。私にとっては失敗だ。大失敗だ。私の未熟さが露呈した瞬間だったと強く反省している。


 足元を見ると、少しだけ私の足が震えていた。ひとつのミスでここまで事態が大きくなってしまうということを痛切に実感したのだ。怖いなんてものではない。どうしようと狼狽えたところで変わらない現実を、どうにかして変えなければならなかった。無事に終わった打ち合わせに安堵の深呼吸をする。


 今回はまだ良かった。私のミスを皆さんがカバーして下さったおかげで、ミスが損失に繋がることは無かったからだ。もし、これが取り返しのつかないことになっていたら……そう考えると鳥肌が立つ。


 不意に時計を見ると、針は十二時を指していた。いつも広澄さんとご飯を食べに出かける時間だ。今日もAランチが待っている。


 憂鬱になりながらも、私はデスクに戻っていく。正直、こんな情けない姿で広澄さんと顔を合わせることが出来ない。そんな思いはありながらも、私の足はゆっくりと広澄さんの元へと動く。毎日一緒にご飯を食べているのだから急にいなくなってしまったら心配をかけてしまうだろう。食べよう、と約束をしているわけではない。しかし、いつものルーティンがいきなり破られると少なからず気になるものだ。広澄さんと一緒にご飯を食べられる機会が、こんなにも足を重くさせるなんて思いもしなかった。


 部屋に入り、広澄さんがいるか遠目からこっそり確認してみる。


 彼女は自分のデスクに確かにいた。しかし、一人では無かった。


「広澄さん、お昼ご一緒させて頂けませんか?」


 ちょうど高身長のすらっとした男性が彼女を食事に誘っていた。思い返せば、こんなにも人気な彼女とずっと一緒に毎日昼食を食べていられたのはどうしてなんだろうか。もっとお誘いがあっても良かったはずだ。しかし、その疑問は金曜日のことを思い出して、すぐに打ち消された。


 恐らく、金曜の男による告白によって、私とのペア期間中に彼女を誘っても良いという流れに変わったのだと思う。きっとそこにいる男は、今か今かと機会を伺っていたのだろう。


 キュッと眉間にシワがよる。広澄さんはなんて答えるんだろう。

 顔を合わせたくないという心境の中に、彼女をとられたくないという反抗心が小さく揺れる。こんなの矛盾していると自分でも分かっている。しかし、こんなに簡単に彼女との時間をとられてしまっては、私の中に何も残らなくなってしまいそうな気がした。


「ええ、いいわよ」


 承諾の声がしっかりと耳に届く。

 あぁ、いいんだ。いいのか。断らないのか。


 断ってくれるんじゃないか、なんて思っていた期待は呆気なく外れてしまった。私は思わず俯いた。つやつやの光を失ったパンプスが目に入る。今はしっかりと地に足がついていた。


 あんなことがあった矢先、私からズケズケと突っ込んでいくことは出来ないし、彼らの前に立ちはだかることは出来ない。足を踏み出すその一歩が、縄をかけられたかのように動かない。


 この時、行かないで欲しいと言えたら良かった。私と食べませんかと誘うことが出来たら良かった。しかし、それはもうタラレバの話に過ぎない。


 この日を境に、私は広澄さんと昼食を食べることは無くなった。



「広澄さん、午後はこれで報告に出していいですか?」

「ええ、大丈夫そうね。お願いするわ」

「承知しました」


 ある日の昼前のことである。確認が終わり、横を向こうとした瞬間だった。


「葵さん、今日のお昼空いていますか?」


 思いがけないタイミングで低い声が私たちの間を引き裂く。パッとそこを見ると知らない男が一人。

 いつの間にそこにいたんだ。

 いきなりの登場にギョッと身体が動く。また知らない男が私たちの間に入ってきたと呆れるしかない。昨日も、その一昨日も見知らぬ男が入ってきては彼女に声をかけた。しかし、私と話し終わったすぐ後の瞬間は初めてだった。


 暇かよ。


 そんな悪態を心に秘めながらも、今日も私は見て見ぬふりをする。何も無かったかのようにその場を離れた。


 自席に戻ると同時に机の上に置いてある時計を見ると、ちょうど十二時だった。どうせ彼女は今日もまた知らない男とどこかへ行くんだ。だって今までもずっとそう。彼女は誘いを断らない。


「あぁ…今日は…」


 彼女の声が横でかすかに聞こえてきたが、それを遮るようにして、目の前から美波さんの声が飛んでくる。


「悠ちゃん!今日一緒にご飯食べない?」


 突然のお誘いに驚く。しかも大きなその声と勢いに圧倒されてしまった。


「…え?…あ、、、はい」


 それを待っていたかのように、準備万端だった美波さんは急いだ様子で私のことを呼ぶ。


「超人気なお店を十二時で予約してあるから、ちょっと急ぐよ!」


 ドタドタと慌てる様子が面白くて、声が漏れた。


「ちょっと笑ってないで早く行くよ」


 本人は至って真剣なのだ。


「急に誘って急に走り出すんですね」

「え?なんか言った?」


 既に五メートル先を行く彼女には聞こえなかったみたい。今まで一人で昼食を食べていたのを見兼ねて声をかけてくださったのだろうか。きっとそうなんだと思う。美波さんはよく周りをみているから。



 駆け足でたどり着いたお店は行列を作っていた。美波さんは予約してあるからすぐに入れるはず、と息を切らしながら教えてくれた。


 十分ほどの遅刻だったけれど、お店の方はすんなりと中へ入れてくれた。入った途端に美味しそうな香りが鼻をかすめる。


 天井からは不思議な絵が描かれた紙がぶら下がっており、所々にある豆電球がオシャレさを醸し出している。これはいわゆるOLが集うおしゃれカフェというようなものなのだろう。


 メニューを見ながらパスタや飲み物を決めている時、美波さんに尋ねられる。


「最近、上手くいってないみたいね」

「え?」


 そう告げる美波さんの目はずっとメニューを追っている。何のことを話しているのか分からなかったが、少し考えてから分かった。彼女のことだろう。けれど、私は彼女のことだけでなく、仕事も上手くいっていなかった。あの日から自信を失ってしまったのだ。


「そう思います?」


 私も美波さんと同じようにメニューに目を落とす。


「ええ、見ていてやきもきするわ…私がね」


 今まで話すタイミングを探っていたのだろう。そして美波さんは、今日を選んだわけだ。


「私はこれにします」


そう指さした先には王道のペペロンチーノがある。シンプルなものが私は好きなのだ。私の言葉に美波さんはうんうんと頷いて、頼もっか、とベルを押した。定員さんに注文した後、また話は戻る。


「最近元気ないよね、大丈夫?」


 目の前に置かれた水を飲みながらそんなことを言われる。元気がない、というよりも、何においても上手くいかない自分に悔しさを覚えて落ち込んでいると言った方が正しい。こんなにも私はできない人間だったのか、と向き合っているところなのだ。


「大丈夫ですよ」


 できるだけ明るく答えるように努める。美波さんの前では意味が無いのかもしれないけれど、やはり心配はかけたくない。しかし、美波さんは見透かしたようにゆっくりと口を開く。


「そうは見えないんだよ」


 私のことをしっかりと見つめて言う。


 私だって、上手くこなしたいと思っているんだ。誰にも迷惑をかけないように、誰かの力を借りずに自分の足で立っていたいと思う。やる気だってある。ちゃんと仕事に取り組もうという意欲だってある。


 けれど、今の私には一人で歩ける自信が無い。パートナーであるはずの広澄さんとはどこか距離を感じる。いつもはフォローしてくれるはずなのに、今ではなんの言葉もかけられない。それで良い、とか、お願いね、といった言葉だけが浮かんでは私に刺さる。


 これは、私に期待していないということなのかもしれない。あの失態で愛想をつかした広澄さんは、私にはもう関心がないのかもしれない。必要最低限のやり取りしかとらない。そんな状況で耐え忍んでいる私に、いつものような元気が湧き出るはずがないのだ。


 決して広澄さんを責めているわけでない。こういう状況を生み出した私に非があるということは重々承知している。だからこそ、誰のせいでもなく、私の傷がただただ広がっていくばかりなのだ。


「心配をおかけして、申し訳ないです」


 絞り出した私の言葉に、美波さんはため息をつく。


「そういうことを聞きに来たんじゃないんだよ。悠ちゃんの本心を聞きたくてね。だから、気楽に話してよ。私に出来ることがあればなんでもしたいの」


 本当に優しい人だと思う。私を気にかけてくれて、さらには私のためにと考えてくださっている。こんなに有難いことはないのに、それなのに、今の私にはその言葉が重かった。ずしんと重みのある塊を抱えているみたいに水面から顔が出ない。ぼやけたそれがゆらゆらとうごめいているように、視線の先には何も見えない。


 申し訳が立たないなと思いながらも、私は何も言えなかった。話すことは何も浮かばなかった。


 そんな私の姿を見て、美波さんは察して言う。


「何かあったらいつでも教えて。今日は美味しいもの、たくさん食べよう」


 にっこりと微笑むその眩しさに、私は眉を垂らす。


 せっかく連れ出してくれたのに、思いに応えられない自分に嫌気がさす。

 きっとこのままでは、広澄さんとの距離は開いたままだ。縮めたいとは思う。しかし、彼女がそんなことを望んでいないのなら、ただの部下に成り下がってしまいたい。


 いっそ、彼女の中から消えてしまいたい。


 それくらい、今の私はとことん堕ちきっているのだ。



 

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