第24話
「俺の知り合いに良い奴いるから、紹介してやろうか?」
凍てついた空気を溶かそうと涼平が唐突に提案してきた。
「突然なに」
「いや…アイツを忘れるために他の奴をと」
アイツというのは、広澄さんのことだろう。アイツ呼ばわりだなんて、涼平の中の彼女には良いイメージが無いことが分かる。
「いらない」
「まあ、そんな事言うなよ。アイツよりかはよっぽどマシだぜ」
少し馬鹿にするような言い方にイラついた。
「あの人のこと悪く言わないで」
「おい、俺はお前のためを思って」
「そういうのはいいから」
他にも言い方はあるだろうと自分でも思う。私のことを心配して言ってくれているのに、可愛げのない対応だ。こんな私だから、やっぱり彼女の隣にいるには相応しくないんだと一人で勝手に落ち込んでいく。
「でもさ、考えてみろよ」
冷たく反応する私をよそに、涼平は話を続けた。
「もし土曜日、俺と約束があったとしてみろ。その上司に同じ日に誘われたとしたら、はるはなんて答える?…普通に断るだろ。な?そういうことだよ」
自慢げに鼻を鳴らしている姿を見ながら、今の話をもう一度自分の中に落とし込んでみる。
つまり、先に約束があったから私の誘いを仕方なく断った、と言いたいのだと思う。
「いや…じゃああの男はなによ。休日にわざわざ会ってるんだよ…そんなの」
「待て!待て待て待て。そんなの、分かんねえじゃん。勝手に決めつけんのやめろよ」
涼平は、そばにいたあの男が、彼女の好きな人だとか気になる人だとか良い感じの人だとは思わないのか。
あの光景を見ても?
じゃあなんだ。お兄さんとでも言うのか。そんな都合のいいことあるわけない。それに、私はもう聞いている。彼女には姉しかいない。兄だなんてそんなことは絶対に有り得ないのだ。
しかし、涼平はまだ私を宥めようとする。
「とにかく、先約があっただけだろ。それにアイツは誠実に対応したまでのこと。考えすぎだ。落ち着け」
「ねえ、涼平は一体広澄さんを貶すのか擁護するのかどっちなの」
強くつめよると、涼平は口ごもった。
「いや……落ち込んでるはるのこと励ましたい気持ちもあるし、やめといて欲しいって気持ちに挟まれてんだよ、こっちは」
そう言われてハッとする。涼平は私のせいで中途半端で面倒な立場に立たされているんだ。私に責める資格などない。
「…ごめん」
いきなり変わった態度に目がぱちぱちと動いた。
「いや、別にいいけどよ」
重い空気が、静けさを呼ぶ。しーんと静まり返ったそこに、愉しさを見いだせるほどの余裕は無い。
それから、涼平は私を家まで送ってくれた。彼氏が心配するだろうから、そこまでしなくていいと言ったのに、聞く耳を持たなかったのだ。
「じゃあな」
「わざわざありがとう」
「いいんだ。…なんかごめんな。元気づけようと思ったら逆に余計なもの見せちゃって」
まるで涼平が悪いかのように謝るから、私は強く否定した。
「謝らないで。何も悪いことしてないよ。…連れ出してくれてありがとね」
パチンと部屋に明かりがつき、私はカバンをベッドに乱雑に投げた。力が入らなくなった私は、へなへなと座り込む。
涼平がいるから、少し気が張っていたんだと思う。ずっと押し殺していた反動が今になってグッと胸を締め付ける。
仕方ない。仕方ないんだよなぁ。
結局、勝手に好きになったのは私で、彼女の何気ない行動ひとつでこんなに振り回されている。
いつぞやの美波さんの言葉が頭の中に響いた。
「狙うなら、軽い気持ちで行かないと、心が折れちゃうわよ」
確かこんなことを言っていたはずだ。
軽い気持ち、か。当時は好きになんてなるわけがないって思っていたのに。今では、彼女にアプローチする人の気持ちが分かるようにまでなってしまった。
魅力的だもん。分かるよ。
でも、こんなに思いを馳せてもどうにもならない。そんな現実に頭を抱えるしか無かった。ここで悶々と考えていたとしても、何も変わらない。かと言って、私から動き出したところで、何かが変わるとは思えない。逆に、彼女との距離が遠くなってしまうような気がする。
彼女のそばにいられるには、どうしたらいい?
私はその答えを既に出していた。そして、その答えに沿って今までも生きてきた。
そう、それは「何も言わない」ということだ。告白も、この思いも、何も伝えない方が良い。
思い出してみて欲しい。
私が広澄さんに告白しかけた時、彼女はどんな表情をしていたのか。その先を聞きたくない、と訴える眼差しだった。冷淡さを帯びたあの瞳を、私はずっと忘れられない。
だからあの時、私は彼女の部下として生きることを選んだんじゃないか。
それでも、無性に彼女に会いたくなってしまう。それでも、彼女のことが頭から離れない。
現実と理想がかけ離れすぎている。どうしようもないこの現実が何度も何度も私を苦しめる。
掻き乱された心が、うねっては揺さぶられて、荒々しい波で飲み込まれていく。
月曜日、私はいつも通り出社した。土曜日の夜のような荒れた心は今はなく、少し落ち着いている。
しかし、この静かな波がいつ飛沫をあげ始めるか分からない。広澄さんの顔を見ると、平静を保てる自信はまだ無かった。
「広澄さん、今日の分の確認お願いします」
かと言って、少しでもいつもと違う素振りを見せると、彼女に気づかれる。そうなると、嵐の訪れだ。それだけは避けたい。
いつも通り、ただそれだけを努めた。
今日の予定としては、午前中に三原商事さんとの打ち合わせ会議が入っている。その準備の途中、メールを確認していると、そこで使われる資料が届いていないことに気づく。
急いで担当の部署にメールを送った後、広澄さんに報告する。
「すみません、急ぎなんですけど、この後予定されている三原商事さんとの会議の資料がまだ届いていません」
「え、本当?」
「はい、あと一時間程で始まってしまいますよね」
「まずいわね…」
そこで、タイミングよくブルンッと震えた通知でメールの受信を知らされる。
「あ、今返信が……」
そこには、金曜日に事前に連絡を受けていなかったこと、それにより把握が出来ていなかったために資料は作成されていないことが記載されていた。
この三原商事さんの担当は私だ。連絡や報告をするのは全て私が担っていた。つまり、これは私のミスだ。
金曜日、広澄さんとの件で仕事を早く切り上げてしまったことで、連絡をするのを忘れていたんだと一気に点と点が繋がれた。
青ざめた私の顔を見て察したのか、広澄さんは私のスマホを取りあげ、メールを読んだ。
「連絡していなかったのね。狼狽えていても仕方ないわ、今はその打ち合わせをどうするか、考えましょう」
責めている口調ではないが、いつもより強めのトーンでそう言われる。いつもの柔らかな面影は一切なく、張りつめた空気で周囲が満たされる。当たり前だ、私のミスで打ち合わせが上手くいかなくなりそうなんだから。
「申し訳ないです」
バッと勢いよく頭を下げて謝罪する。不甲斐なさで迷惑を掛けてしまっているこの状況に息が詰まりそうになる。しかし、自分を責め続けていたとしてもこの件は解決しない。焦りそうな心を無理矢理落ち着かせてから、私は彼女の顔を見た。
「必要な情報と内容については今すぐ担当の方に直接会って頂いてきます。できる範囲で資料を終えてきますので、それまでに打ち合わせの順番の変更と連絡をお願いしてもよろしいですか」
思った以上にハキハキと声が出た。彼女も物怖じしていない姿に驚いているのかもしれない。驚きで目を見張っていたが、すぐに返事をして言った。
「分かったわ。時間の都合上、厳しそうだったら、私もサポートするからすぐに連絡すること。あとはこちらでやっておくわ。行きなさい」
そう言われて私は駆け出した。
時間がない。急いで資料を作り、それを印刷までして完成させなければならない。
頭の片隅には、広澄さんに失望されてしまった、だとか、嫌われてしまったんじゃないか、なんてマイナスな感情が浮かび上がるけれど、今はそんなことで落ち込んでいる場合ではないのだ。必死に打ち消して、私は担当者の元へ向かった。
「申し訳ありません!連絡が届いていなかったみたいでご迷惑をおかけしています。あと一時間で始まってしまうので、早急に資料の作成を…」
「謝って済むんだったらいいよな。まったく、こっち側のことも考えてくれよ。とりあえず、事前に下書きは書いてたから、それを元に整えてくれ」
会ってすぐにポイッとUSBを投げられた。
「俺は他に仕事があるからそれは任せた。打ち合わせが上手くいかなかったとしても、こっちに非はないから。…ったく、お前広澄さんと今組んでる奴だろ?あの人も使えねえ奴と組まされて可哀想だな」
暴言を吐き捨ててから、担当者は自分の仕事に取りかかった。この打ち合わせもお前の担当なんだから責任をもってくれ…と言いそうになったけれど、実際は全て私が悪いのだ。言いかけたそれを慌てて飲み込む。
そう言われても仕方がない。罵られても仕方がない。それなりのことをしてしまったんだ。私の行動で、広澄さんの名前にも傷がついている。今の言葉を投げられてから気づく。私のせいで、彼女に面倒をかけている。迷惑をかけている。これからもずっと隣に、なんてそんなことは願っても口にはもう出来ない。
ギュッと手のひらに包まれているUSBを握りしめ、私は自分のデスクに急いで戻った。パソコンに繋ぎ、その資料を開く。
私の頭の中に、ある程度の打ち合わせ内容は叩き込まれているから、少しでも構成が作られていると有難い、と思いながらデータが開かれるのを待った。
そして、パッと表示されたデータを見ると、そこにはあらかた整えられていたデータがあった。その完成度に心底驚く。あの人、口は悪いけれど、仕事はできる人なんだと実感する。
私は修正点を反映させ、内容に齟齬ないかを確認したのち、広澄さんの元へ持っていく。思ったより修正をするのと整えるのに時間がかかってしまったみたいで、時計をみると打ち合わせの時間は迫っていた。
「広澄さん、これ資料できました。確認お願いします」
広澄さんは真顔で渡した資料に目を通すと、うんと頷いてから、印刷を許可した。一応了承はされたけれど、きっと及第点って所なんだと思う。褒めることも労うことも、叱ることも何もしなかった。無反応なその姿に胸がえぐられる思いがする。いつもと違う反応に、やっぱり失望されたんじゃないかと苦しくなる。時間が限られている中、一応使える資料には仕上げたものの、素晴らしい出来とはお世辞でも言えない。
それでも立ち止まっている暇なんてないからと、私は早急に印刷をし、ホッチキスで留め終えてから、打ち合わせの場へとそれらを持って行った。先方は既に着席しており、課長と談笑しているところだった。
「大変お待たせ致して申し訳ありません。こちら、今回の資料になります」
全員に資料を届け終え、私もその打ち合わせに参加した。
どうか、無事に会議が終えられますように。
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