不即不離の広澄さん

第22話

 広澄さんとペアを組んでから、はや五日が経とうとしている。今日は金曜日だ。ずっと一緒に仕事をしているからか、なんとなく広澄さんの考えることが分かってきた気がする。


 朝九時、出社したらすぐにメールを確認。それが終わったら、呼ばれずとも私の足は広澄さんの元へと動く。


「これ、共有しておきたいことをまとめておきました。あとでファイルも転送しておきます。あと、ここなんですけど、変更した方がいいですか?」


 私のざっくりとまとめられたプリントに目を通すと、それに対する修正と調整を行う。それから彼女も私に伝達事項を教えてくれる。これがあるから、ペアとして行動する時にとても役に立つし、今後の動きの参考になるのだ。


 そして十一時頃、私は彼女の様子を伺ってから、再び彼女の元へ行く。だいたいこの時間になると、上から送られてきた資料や仕事の連絡が積もってくるのだ。呼ばれなくても自分から聞きに行く方が効率が良いし、広澄さんの負担が減るからなるべくそうするようにしている。


「広澄さん」

「あぁ、これ確認して課長にお願い」


 名前を呼ぶだけで彼女は全てを察して、仕事を任せてくれる。前に比べると広澄さんは私のことを信頼して色々な仕事を任せてくれるようになったと思う。


 時計の短い針が真上を指した時、広澄さんは私の名前を呼ぶ。それは呼びつけるようなハッキリとした言い方ではない。もっと柔らかくて、スッと耳の中に入ってくる優しい言い方だ。


「白瀬さん」


 私はこの声を聞いたら、はいっと高らかに返事をした後、キリのいいところで仕事を切り上げる。

 デスク周りをパパッと片付けて、財布とスマホだけを手にし、広澄さんの方を見ると、だいたい彼女は私のことを見つめて待っている。

 足早に駆け寄ると、彼女は私に微笑む。くるりと方向転換すると、肩を並べて私たちは歩き出す。そして、そのまま私たちは一緒にお昼を食べるのだ。

 食べようと誘われるわけでもなく、こちらから誘うわけでもない。けれど、もうこれが私たちの当たり前になっている。


 広澄さんの当たり前の中に私が溶け込んでいる。そう考えるだけでむずむずと心が浮き足立つ。


「今日もあれ食べるんですか?」


 そう尋ねると、毎日同じことを返してくれる。


「そうよ、今日もAね」


 私たちがお昼に向かうのは、社員食堂である。そこでは、AランチとBランチが存在しており、日替わりでメニューが変わるのだ。Aランチの主菜はお肉。Bランチの主菜はお魚。つまり、広澄さんはお肉の方が好きらしい。


 私は毎日広澄さんと同じメニューのものを選択して食べている。そう、Aだ。そうすれば、広澄さんと同じ時間に同じ物を食べることができ、その味、空間、全てを共有出来る。こんなささいなことだけでもいい。それだけで、私はじゅうぶん幸せを感じていた。


 広澄さんは同じランチを頼む私を見て、合わせなくていいのよ、と言う。だけど私は断固としてAを選ぶ。彼女は自分と同じことがどれだけ尊いことなのかを自覚していないのだと思う。本人に知られると気恥ずかしいから、こんなこと知らなくていいけれど。


 仕事人の彼女は、ご飯を食べる前に必ずメールをチェックする。ほかほかのご飯が目の前で湯気をたてているのに、そっちのけで画面とにらめっこだ。部下である私は待っておくのがマナーなのかもしれない。けれど彼女のことを待っていると、彼女は先に食べていて、と必ず促してくる。それでも食べないと、食べなさい、と命令口調で言われてしまうのだ。それを分かっているから、私は失礼ながら先にお箸を持ち上げる。


 彼女がスマホをテーブルの上に置いた瞬間を見計らって、私は必要な調味料を彼女に差し出す。今日のAランチには卵焼きが付いていた。彼女はたいていそれに醤油をかける。甘い卵焼きだとしても、出汁入りだとしても、彼女は数滴醤油を垂らす。

 こんなこと、この会社の中で誰が知っているだろうか。きっと私以外は誰も知らない。


 しかしそんな優越感で満たされる日々が続くのも、たったの五日間だけだった。そんな日々はそう長く続かない。


 金曜日、昼食が終わったタイミングで若い男の人が声をかけてきた。その視線は私ではなく広澄さんの方を向いている。


「葵さん、少しお話いいですか?」


 その後に私のことをじっと見つめるから、邪魔だから察して離れてくれと訴えているのが分かる。

 普段は昼食が終わったら、私と彼女でたわいも無い話をしてゆったり過ごす。この時間が何よりも私は大好きだった。それなのに、この男は遠慮なくズカズカと土足で入り込んでくる。


 頼むから、私の日常を壊さないでくれ。


 しかしそんな心の叫びは口には出せない。私はこの日、静かに彼女から離れた。彼女の顔すら見れなかった。今となっては少し後悔する。彼女は一体どんな顔をしていたんだろう。


 あの様子からすると、きっと告白をされるんだと思う。今までも何回か告白されたという噂は聞いたことがあった。でもそれはたかが噂だ。広澄さんの様子はそういう噂が流れる前と後では何も変わらなかった。まるで告白なんてされていないかのような振る舞いなのである。だから、その噂が嘘か真実かを見極めるのは至難の業なのだ。


 しかし、実際その現場を目の当たりにしてしまうと、やっぱり現実味を帯びて私に降りかかる。あの噂は本当だったと認識せざるを得ないし、特に驚く姿を見せなかったあたり、彼女にとってそんなことは何気ないことなんだと気付かされる。


 あぁ、頭の中がぐるぐるする。どうしようも無いほどの焦燥感が身体の中を貫く。こんな思い、誰にもぶつけられない。だから、よりいっそう重苦しく私の中に沈んでいく。


 私に何が出来る訳でもない。考えたって、悩んだって何も変わらない。部下という立ち位置は、近いようで遠すぎる。それを痛感する一瞬だった。


 この日は昼休憩のぎりぎりになって、彼女は戻ってきた。私と広澄さんとの貴重な時間を奪われて、いい気はしない。頭のなかのぐるぐるが胸の中にも伝播してきたみたい。


 彼女は誰からも人気がある、なんてこと分かりきっていたのに。こんな気持ちになっているなんて、まるで私が彼女の特別になっているなんて思い込んでいたみたいじゃないか。


 たかが昼休憩の時間を奪われただけでこの有様である。余裕がない。心が狭い。考えが醜い。あぁ、こんなので広澄さんに釣り合うわけがない。部下のままでいいと思ってたのに、どこかその先を望んでいる私がいる。現状で満足していればいいものを、人間は欲深い生き物だ。



 ぐるぐるが治らない私は、失った時間を取り戻そうと、定時前に広澄さんに声をかけた。


「あの、少しいいですか?」


私からの珍しい行動に彼女は顔を上げた。


「どうかした?」


 間があけば不自然になる。流れるように誘わなければならない。それだけを意識して私はなんともないような心持ちで提案する。


「このあと、空いてますか?またよければ一緒にご飯を食べたいんですけど…」


 彼女は少しだけ困ったような顔をした。その表情を見て何を言われるかなんて、だいたい予想がつく。


「ごめんなさい。今日は予定があるの」


 彼女は誘いに乗らなかった。そしてすぐにパソコンに目を移し仕事に戻ってしまった。


 予定があるなら仕方がない。私より先に予定が入っていただけのことだ。彼女に非はない。そう理解しているはずなのに、私以外の人とどこかへ行ってしまうのがたまらなく嫌だった。こんな醜い感情、私は知らない。


 いつもより少し歪んだ私は、このまま引き下がれなかった。仕方ないで終われば良かったんだと今では思う。その先を、と願う私を引き止めてくれよ、私の中の私よ。


「そ、それなら…土曜日とかはどうですか」


 昼間に見たあの男の顔が頭の中に浮かんだ。アイツとは違う。私は、もっと彼女のことを知っている。だって直属の部下なんだから。今となってはペアなんだから。私の方が上に決まっている。


 普段なら考えないような醜い感情が私を覆うから、胸の中に苦しい震えが起こる。重い、重すぎる。


 そして彼女は言う。


「今日は随分と積極的ね。でも、申し訳ないわ。土曜日も予定があるの」


 さすがに日曜日も、なんて誘うほどのHPは残っていなかった。


「…はは、ですよね。無理を言ってすみません」


 乾いた笑いが空気中をふらふらと漂う。私はぺこりとお辞儀をして席に戻った。


 座った瞬間に、先程のことが無数に思い浮かび、零れていく。


 どうしてあんなことを言ってしまったんだ。もっと慎重になるべきだった。情けなくなって身が震える。


 仕事なんて身に入らないよ。だめだなぁ、プライベートと仕事を分けられてすらいない。こんな私を彼女は求めていないだろう。


 黒ずんだ重い液体のようなよどみが心の中を埋め尽くす。男に対する醜い嫉妬も、彼女に抱く呆れるほどの独占欲も、初めて抱えたそれらに心がついていかない。


 たった数日のことだったけれど、彼女の隣にいすぎたせいで、感覚がバグっていたみたい。

 部下は部下だ。それ以上でもそれ以下でもない。余計な期待が私を苦しめた。期待なんてするべきじゃない、ってあれだけ気をつけていたのに。


 今日は早く帰ろう。彼女よりも早く。今は、今だけは彼女を視界に入れてはいけない。今日を乗り越えれば、また月曜日から一人の部下として彼女のそばにいられる。


 無理やり自分を奮い立たせ、私はマウスを力強く握った。

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