第21話

 かたかたとキーボードの音が頭の中に響く。私の両手は止まることなく動き続けている。それなのに、パソコンの画面に映し出される内容は全く頭に入ってこない。よくもまあ考えずにつらつらと文章を綴ることが出来たもんだと自分でも驚く。


 私は朝から憂鬱だった。頼んでもいないお見合いの予定が入ってしまってから、そればかりが私を支配する。地団駄を踏んだって、逃げられやしないんだから、勤務中は仕事に集中すべきなのは分かっている。分かってはいるけれど、どうにか断れないかと考えあぐねているのだ。

 どうせ、お見合いをしたところで結婚なんてしないくせに、そんな無駄な時間に大切な休みの日を返上するのが嫌でたまらない。

 こんなことになるのなら、日曜日に実家に行くべきでは無かった。そうはいっても、母のことだから何かしらの手を使って私を呼び出すことは目に見えているが。


「…はぁ」


 深いため息が出る。


 そんな私の様子を見てか、大久保課長が声をかけてきた。


「広澄、悩み事か?珍しいな、ため息なんて」

「…すみません」

「いや、いいんだ。人は一つや二つくらい悩みがあるもんだから」


 励ましてくださっているのはとても有難いが、それ以上にそわそわと揺れ動く課長が気になる。そもそも、大久保課長が私を気にかけて下さるなんて、とても珍しいことだ。なにかあったのだろうか。


「課長、どうかされました?」

「え?」

「いや、何か用事でもあるのかな、と」

「いやぁ…ははっ、広澄には敵わないなぁ」


 私の予感は的中していたみたい。私の態度も含めて、話したいことがあったらしい。


「実はな、今月からペア強化月間が始まるんだ」

「なんですかそれ」

「俺も詳しくは知らないさ。初めての試みだからな」

「そうなんですか」

「まぁ、ざっくりいうと、部署内でペアを決めて、一ヶ月間ペアで行動、ペアで業務に取り組むわけだ」

「そんなものを導入するんですね」

「あぁ、ミスをしてもペアで補い合い、支え合い、さらに高みを目指そうという会社側の新しい施策だ」


 ペア強化月間、か。

 確かに、一人で抱え込むよりかは、誰かに相談したり、助け合いができた方が作業は捗るだろう。悪くないと思う。


「それで、私に何かお話でも?」

「あぁ、だいたいペアはこちらで決めたんだが、これで良いか広澄にも見てもらいたくてだな」


 渡された一枚の紙に目を通す。そこには、さすが課長と言わざるを得ないほど完璧な組み合わせが並んでいた。

 そして、一番最後の行に、私の名前はあった。


〝広澄×白瀬〟


どうやら、私のペアは白瀬さんらしい。

恵まれているのか、神様の悪戯なのか、この頃白瀬さんと関わることが多い気がする。


「広澄は、新人の白瀬をよろしく頼むな」


 この言い方だと、大久保課長は何らかの意図があって、私と彼女をペアにしたわけではないだろう。新人を教えるのには、係長である私が適任だと考えたのだと思うと辻褄が合う。


「はい、こちらで良いと思いますよ」

「よし、ありがとう。じゃあ早速報告だ」


 意気込んだ大久保課長は声を大にして皆を集めた。


「ちょっとこっちに集まれー」


 その一言で、仕事をしていた社員はすぐに手を止め、課長の方へとぞろぞろと集まる。こういうメリハリのある雰囲気が作り出されるのは、日頃からの課長への厚い信頼感と皆の意識の高さゆえだと思う。


「えー、今日から、ペア強化月間というものが始まることになった。ペアの組み合わせは後ほどファイルで転送するから、各自で確認するように。そこに詳細についても記載してあるから、そこも確認をよろしく頼む。まぁ簡単に言うと、ペアで協力して仕事に励め、ということだな」


 反応を見るからに、皆はあまりしっくり来ていないようだ。もちろん、私もよく分かっていないが。


「ペアで協力して何になるのか、についてだが、本来はミスの軽減や心身のサポートという目的がある。が、しかしそれだけではやる気が起こらんだろう」

「えっ、なにかあるんですか!」

「うむ。部署内で最も成績の良かったペアには報酬をこちらで用意させてもらった」

「おおー!」


 その言葉で皆からやる気が湧き出たみたいだ。


「この成績は、売上によるものだけではない。俺自身が、計画案の評価や態度、ペアとの助け合いなど全てを加味して考えさせてもらう予定だ。皆、頑張って一位を目指してくれ」

「課長!報酬ってなんでしょうか」

「それは一位になってからのお楽しみだ」


 解散の後、各自でファイルを確認し、ペアが明らかになった。その結果の照合により部署内が騒がしくなっている中、私の席に白瀬さんがやってきた。


「広澄さん、ペアですよね。よろしくお願いします」


 白瀬さんの顔に喜びが滲み出ているように見えて、心の底にひそかな幸福感が押し寄せる。


「うん、よろしくね」


 そう答えると、彼女は瞳にきらきらと嬉しさを輝かせた。そしてそのあと、少し躊躇った素振りを見せてから、彼女は口を開いた。


「あの、それでひとつお願いしたいことがあるんです」


 お願い、だなんて初めてのことで、何を言われるか想像がまるでつかない。


「なにかしら?」


 左右に揺れる瞳孔が、バチッと私を捉えて彼女は言った。


「え、と…今日の仕事終わり、空いてませんか?」


 それは、突然のお誘いだった。


「ええ、空いてるけど」


 そう答えると、パァッと彼女の顔が明るくなった。まだ行くとは言っていないけれど、こんな顔をされたら行く選択肢しか残されていないも同然だ。


「今日、飲みに行きませんか?」


 これは、二人でということだろう。ペアになったから、絆を深めようというところだろうか。

 特に断る理由もないため、私はすぐに了承した。彼女と二人でというのは、土曜日以来である。特別珍しいことでもない。しかし、彼女の方から誘ってくれたという事実が、なぜだか私の心をうわつかせた。




「生ビールふたつお願いします」


 少し騒々しい居酒屋で私たちは向かい合って座っていた。私たちに静かな空間は似合わないだろう、ということでこの店を選んでくれたみたい。ぎこちなさが拭えない私たちに、シックな空間は不釣り合いだ。


「悠ちゃんが誘ってくれるなんて思っていなかったよ」


 そう切り出すと、彼女は照れくさそうに言う。


「実は前から誘いたかったんです。広澄さん人気だから誘いにくいじゃないですか。でもこの前、家に来てくださってから、ちょっと誘いやすくなったというか…」


 そんなことを言ってくれるなんて、随分と距離が縮んだものだ。


「嬉しいわ」


 彼女の目を見てそう伝えると、目を逸らされる。こういうところはあまり変わっていないみたいだ。


「今日、あまり元気が無いみたいでしたけど、大丈夫でしたか?」


 少し遠慮気味に尋ねられる。

 白瀬さんにはお見通しだったらしい。さすが、私のことをよく見ているなぁと驚きに近い喜びが込み上げる。


「ばれてた?」


 少しおどけて答えてみても、彼女は心配そうな顔を崩さなかった。


「何かありましたか?無理にとは言いませんけど…なんでも聞きますよ」


 その言葉が、憂鬱な気持ちをほぐすように身体に染み込んでくる。歳下の部下に心配されるなんて、情けないなと思いつつも、その優しさが今の私には嬉しかった。


「ありがとう…心配してくれて。でも大丈夫よ。母と少し揉めただけだから」


 そう伝えると、彼女は少しほっとしたような表情を見せた。

 一体どんな想像をしていたのだろう。彼女のことだから、私が不審者に追っかけられていなかったか、なんて変な心配をしていそうだ。それはそれで白瀬さんらしいけれど。


「優しいのね、わざわざこんなところに連れてきてくれて」


 きっと、この飲み会は絆を深める会とかそういうのではない。ただ私が落ち込んでいたから、外へ連れ出してくれたんだと思う。そう考えると、彼女の気遣いはとことん私を救っていると気付かされる。


「とんでもないです。広澄さんには笑顔でいて欲しいので」


 真っ直ぐに伝えられたその言葉は澄みきっていた。そう伝えてくれた彼女の顔はほんのり赤く染まっているように見える。少し酔いがまわっているのだろうか。


 屈託のない笑顔を向けられて、胸が熱くならないわけがない。私は思わず彼女の頬に手を添えていた。少し狭い居酒屋だからか、手を伸ばせばすぐ彼女に触れた。こんなにも私のことを思っていてくれる部下がいてくれるなんて、と心が喜びで脈打つ。


「そういう真っ直ぐなところ、好きよ」


 頬をするりと撫でると、彼女は今度はよく熟れた真っ赤な林檎のようになった。私の発言は思いがけないものだったのか、俯いてごにょごにょ何か言っている。


「…すぐそうやって」


 誰彼構わず好きと零してしまう上司だと思われているんだろうな。でもそう思われても仕方ないと思う。普段の周りへの接し方は誰が見ても軽い女のそれだ。その態度を白瀬さんにだけ特別に変えることは出来ないし、弁解もしない。


 しかし、いつかこの気持ちに嘘はないことを知ってくれたらいいな、なんてやっぱり利己的な考えが頭をチラつく。


 ようやく顔を上げた白瀬さんの顔を見ながら、私は目の前の枝豆を口に運んだ。

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