第18話
目の前の机にお茶が置かれている。コップはふたつ。これは私のために白瀬さんがいれてくれたものだ。
美波ちゃんが帰ってから、改めて床に座り、私と白瀬さんでテーブルを囲んでいる。
畏まって話すとなると余計に緊張してくる。慣れない景色が広がる部屋にいるという状況も相まって、ソワソワしてしまう。
時計は五時を指している。美波ちゃんはこんな時間に帰ったのか、と健気な小学生みたいな時間帯だと微笑ましくなってきた。
何も話さないというのもどうかと思って、私は彼女に質問を投げかける。
「ここにはいつから住んでるの?」
よくある質問にノミネートされそうな内容だと心の中でつっこむけれど、私はそれくらい彼女のことを知らなさすぎる。
「入社する一ヶ月前くらいですかね」
「そうなのね。それじゃあ、会社に就職する時期と合わせた感じなのかしら」
「んー、まぁそんなところですかね」
彼女にしては歯切れの悪い返事が返ってきた。
「でもそう考えたらここは会社から遠いんじゃない?私の家も少し距離があるもの」
そう問いかけると、少し悩んでから教えてくれる、と思いきや質問で返された。
「やっぱり少し遠いですよね。逆に広澄さんはどうしてそこに住んでるんです?」
「私は最初は会社の近くに住んでいたわよ。でも、買い物とか行く時に会社の方と会うのが恥ずかしくなっちゃって。去年引っ越したの」
「あー、そうだったんですね。でもそれがいいと思います。…そういえば、さっきお姉さんがいるって言ってましたよね。広澄さんが妹だなんて意外でした」
急に家族の話になる。意識をしていなければ、気にならないだろうけど、今の私には話を逸らされたと感じてしまった。なにか聞かれたくないことでもあるのだろうか。
よくよく考えてみると、まだ新入社員なんだからこの広さのアパートを借りるのは分かるとして、なぜ遠いこの場所を選んでいるのかが謎すぎる。
意識は半分どこかへ飛んでいるけれど、白瀬さんの話題には乗っかっていく。
「そうよ、よく言われるわ。悠ちゃんは兄弟いる?」
「私はいません。ひとりっ子です。だから羨ましいな」
「そう?」
「はい、姉妹って憧れですよ」
「そんな素敵なものじゃないわよ」
「お姉さんと仲は良いんですか?」
「んー、そんなに良くはないかも」
そう話すとそれ以上聞いてこなかった。こういう適度な距離感を保ってくれるのが私にはちょうど良い。
そう思っていると、興味深い内容を投げかけられる。
「美波さんってかなり私の事気にかけて下さいますよね」
彼女には自覚があったみたいだ。
「そうね、とても悠ちゃんのこと好きだと思うわ」
美波ちゃんのために背中を押せる準備を整えておきたいと思う。しかし、白瀬さんはその愛を深い意味で捉えていないことを知った。
「ありがたいです。皆さん優しいから…本当にこの会社に来て、今の部署に配属されて良かったと思ってます」
優しいというひと言で片付けてしまっては、美波ちゃんが報われない。美波ちゃんの恋を応援したいという強い気持ちはないけれど、白黒ハッキリさせたいと思う。曖昧なままで挟まれるのは好きじゃない。
「美波ちゃんは単に優しいから、悠ちゃんに優しくしていると思う?」
一度口から出かけたのを飲み込もうとしたけれど、抑えきれなかった言葉がでた。
白瀬さんは怪訝な顔で私を見た。私の言葉を理解しようとしているけど、その真意はよく分かっていない。そんな表情に見える。
「他に何か意味があるってことですか?」
白瀬さんは賢い。だから、その先の意味には何が含まれているのか分かっているはずだ。
でも、その答えを本人ではない私が言うのはお門違いである。第三者が勝手に口を出していい問題ではない。
「…少し余計なことを言ったかもしれないわ」
その言葉でこの話は終わるはずだった。
だけど、彼女はやめなかったのだ。
「美波さんは私のこと、別に恋愛的な目で見てはいませんよ」
落ち着いた口ぶりでそう言われる。そして、ゆっくりとお茶に手を伸ばし、それを口元に持っていく。
当人である白瀬さんがそのことを知っているとはどういうことだろうか。美波ちゃんから直接既に言われているということなのか。それとも、ただの白瀬さんによる憶測なのか。
「どうしてそう言いきれるの?」
私は知りたかった。
私には関係の無いことなのに、どうしてか首を突っ込んでしまう。そして、当たり前のように彼女の答えを待った。
「広澄さんって、意外とこういう話お好きなんですか?」
彼女は質問には答えなかった。
肝心なところでいつも答えない。何も私に教えないつもりなのだろうか。少しだけ腹が立ってくる。
適度な距離感が好きだとは思うし、大事だと思う。白瀬さんのそういう気遣いが私は好きだったけれど、今ではその気遣いが邪魔だ。
知りたいことを教えてくれないとは、こういう感覚に陥るのか、と初めて知った。見えない壁が目の前に立ちはだかっているように感じる。
「悠ちゃん」
「どうかされました?」
そんな彼女は、あっけらかんとしている。呑気なものだ。決して怒っているわけではないけれど、あまりいい気はしない。
「悠ちゃんって自分のこと話したがらないわよね」
そういうと微かに表情が変わった。
「そんなことないですよ、じゅうぶん話してます」
「いいえ、話していないわ。私ばかり話してる」
こんなこと言っても彼女を困らせるだけだ。分かってはいるけれど、止まらなかった。
いつもなら冷静でいられるのに。
いつもなら客観的に捉えられるのに。
きっと私の思い通りにならないのが気に入らないんだと思う。本当に自分勝手だ。私はこんなに醜い性格だったのかと自分を嫌いになりそうだった。
「じゃあ、私の何を知りたいんです?」
私を試しているかのような口ぶりだ。
でも、改めて聞かれるとよく分からなくなってくる。
私は、白瀬さんの何を知りたいんだろう。
きっと考えれば色んなことが浮かんでくる。例えば、ここに住んでいる本当の理由はなんなのか、だとか…美波ちゃんのことをどう思っているのか、とか…美波ちゃんが白瀬さんのことを好きじゃないと言い切るのはどういうことなのか、だとか。
だけど、どれも白瀬さんが意図的に話さなかったことだ。言いたくないことなんだと思う。それなのに、無理矢理聞いてしまうのも、どうかと考えてしまうのだ。
知りたいくせに聞けない。白瀬さんから言ってくれれば一番良いのに、なんて都合のいいことを望む。
「聞きたいこと、あるんじゃないですか?」
私がぼんやりとお茶を見つめていたから、急に私の顔の前に現れた白瀬さんにびっくりして、心臓が変な打ち方をする。私を覗き込むようにして近づいてきたのだ。
透き通ったブラウンの綺麗な瞳、パッチリとした二重、きめ細やかなさらりとした肌、そして見事な傾斜をつくる鼻筋。
私は今まで彼女の顔をしっかりと見たことが無かったと気づく。顔を近づけたことは何度もあるけれど、無意識的なそれに意味なんてなくて。ただ動揺する彼女を見ていただけだったのだ。
知らなかった彼女の整った顔立ちを意識し始めたら、どうしたらいいのか分からなくなり戸惑う。
白瀬さんは、様子のおかしい私に気づいているだろう。彼女の顔が心配の色で満たされている。
本当はこんな雰囲気にするつもりなんてなかった。
私は両手を持ち上げて彼女の頬を優しく包む。その行動に彼女は少し身体を強ばらせた。しかし、その後はすぐに私の両腕の手首に手を当ててゆっくりと頬から引き剥がす。
美波ちゃんとの対応の違いに胸が傷んだ。彼女は照れる様子もなく、優しく微笑む。
「どうしたんですか。今日は少し変ですよ」
変にさせたのは誰だ。
今すぐにでも帰りたかったけれど、夕飯をご馳走になるためにここまで残っているのだから、意地でも帰ることが出来なかった。まだ夕食の時間にしては早いから、これからどうしたらいいか分からなくなっていた。
そんな時、私を救うかのように電話がなる。その音は白瀬さんのスマホからだった。
机の上に置いてあったから、光った時に名前が見えた。
“涼平”
知らない名前だ。恐らく男の人だろう。
私がスマホを見つめているのに気付いた白瀬さんは言う。
「ああ、気にしないでください」
そう伝えてから、すぐに赤い印の方へと画面をスワイプした。
「いいの?出なくて」
「はい、大丈夫です。多分どうでもいい話だと思うので」
「そっか」
どうでもいい話を気軽に電話でしてくる男の知り合いがいるんだと知る。確かに、白瀬さんは男女関係なく仲良くなれそうなタイプだと思う。歓迎会の時に、恋人はいないと話しているのを盗み聞きしていたから、今のは彼氏ではないと思う。いや、ここ一ヶ月の間で出来たかもしれない。そんなことを一瞬で考え巡らせたけれど、先回りして彼女は言った。
「あ、彼氏とかでは無いですよ」
じゃあ、どういう関係なんだ?
ただの知り合い?仲の良い友達?
それとも、気になっているひと?
もし、私が彼氏?って聞く機会をくれていたのなら、彼女は自ら関係性を伝えてくれたように思うけれど、先に言われてしまっては深追いできない。白瀬さんの人間関係に探りを入れる上司にはなりたくないのだ。こういうのは私の考えすぎだろうか。
白瀬さんは今の話題を断ち切り、夕食の話を出してきた。
「今日、カレーなんですけど大丈夫ですか?」
「ええ、カレーは大好きよ」
「良かった。豪華なものじゃなくてすみません」
謝られてしまったけれど、ご馳走になる身だから、カレーでもなんでも嬉しいし、逆にカレーは家庭的でとても素敵なメニューだと思う。
まだ六時にはなっていないけれど、私は耐えられなくなって、夕食を早めないかと提案した。快く受け入れてくれた彼女は、温めたカレーとサラダを用意して、机に出した。
出てきたドレッシングは私の好きなごまドレッシングだ。さらに、抜かりなく、減ったお茶を注ぎ足している。とことん気遣いのできる人だ。
「いただきます」
声を揃えて挨拶をする。スプーンでルーとご飯を同時にすくい上げて口に運んでいく。スパイシーな香りと丁度良い辛さのルーが口の中に広がる。
人が作った料理は美味しい。
「とても美味しいわ」
その言葉で安堵したのか、彼女も食べ始めた。
「本当だ、今日はいつもより美味しい」
自分で作っても美味しいと感じるらしい。これは皮肉ではなく、ただ単にこのカレーが美味しいんだろうと思った矢先、彼女は嬉しそうに言った。
「広澄さんと食べているからですかね」
彼女は何気なく言ったんだろうけれど、私の心には刺さった。こんな風に想いを伝えてくれる人と付き合えたらどんなに楽しいだろう。
私は恥ずかしさのあまり、その言葉に上手く反応できなかった。純粋な彼女の心は私には眩しすぎる。
今日、彼女が教えてくれなかったことは、いつか聞き出せたら良い。白瀬さんの方から話してくれるように、関係性を作って行けたらそれで良い。
焦らなくても、まだこれから何度でも何回でも関わる機会はあるのだから。
今は幸せなこの時間をじゅうぶんに味わっていればいいんだ。そう心の中で区切りをつけて、私はまたカレーを頬ばった。
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