第17話
ある日、昼休憩をとっていると、美波ちゃんが近寄ってきた。また何か相談事だろうか。最近、私に話をもちかけてくることが増えた。それも白瀬さんに関することだ。
「今いいですか?」
「ええ、大丈夫よ」
「ちょっと聞いてください」
「今日はなにかしら」
「あ、えっと…また白瀬ちゃんのことなんですけど」
別にやましいことでもないのに、彼女は少し気まずそうにする。そんな態度が余計に変な想像を掻き立てる気がしている。
「彼女がどうかした?」
「今度、白瀬ちゃんの家に遊びに行くことになったんです!」
家に遊びに誘われるなんて、この二人はかなり仲良くなっていることが分かる。距離が縮まっているのは一目瞭然だった。
「へえ、良かったわね」
「はい!…それで、お家にお邪魔するっていうことは何か手土産がいると思うんです」
「あったらいいわよね」
「はい。それで、もしかしたら…葵さんは何か白瀬ちゃんの好きなものとか知ってるんじゃないかと思って、相談したいんです」
美波ちゃんは私のことを買いかぶりすぎてはいないだろうか。私は彼女のことをよく知らない。前よりかは仲良くなったものの、プライベートで仲良くするほどでもないのだ。美波ちゃんの方が詳しいと思う。
「私、全然悠ちゃんのこと知らないわよ」
そう伝えると、目を丸くして私の方を見てきた。
「いつからそう呼んでるんです?」
「え?」
「いや…悠ちゃんって、」
しまったと後悔する。皆の前では白瀬さんと呼んでいるけれど、白瀬さんに対しては悠ちゃんと呼ぶようになったことを忘れていた。ついうっかり呼んでしまうこともあるよな、と一旦心を落ち着かせる。
「…最近よ」
「やっぱり仲が良いじゃないですか!」
迫真の勢いだった。
「私が勝手に呼んでいるだけ」
「えぇー、本当ですかぁ?」
「本当よ」
「だって葵さんってば、誰かのこと下の名前で呼びたがらないのに」
「そんなことないわよ。美波ちゃんだって下の名前じゃない」
「それは私が無理やり頼んだんです!覚えてないんですか」
確かに私は人と距離をつめることを好まない。直接的にはよく触れたり撫でたりはするけれど、心の距離は保っておきたい方なのだ。
そう考えると、なぜ私は彼女のことを下の名前で呼びたくなってしまったんだろうか。
出会った頃もそうだった。私は彼女を見ると、いつも不思議な気持ちになる。好きだとかそういうのではないと思うのだが、何故か彼女を見ると気になって気になって仕方がなくなる。この情動はなんなのだろう。
「もう…それで、何か知らないんですか?白瀬ちゃんの好きな物とか。あ、私もこれを機に悠ちゃんって呼んじゃおうかな」
浮かれ気分で楽しそうだ。
「好きな物なんて分からないわ」
「もったいぶってません?」
「そんなことしないわよ。本当に分からないの」
半分信じていないような視線を送られるけれど、知らないと言い張るものだから、なんとか受け入れてくれたみたいだ。
好きな物、か。
美波ちゃんに聞かれて、私は彼女のことをなにも知らないんだと気付く。知っていることといえば、最寄りの駅くらいだろうか。部下のことはもう少し知っていても良いのかもしれない。
「チーズケーキとかどう思います?」
「良いと思うわ。嫌いな人は少ない気がするわよね」
「じゃあ葵さんは飲み物お願いしますね」
「え、わたし?」
「はい、葵さんももちろん行きますよね?」
勝手に私も行く方向になっていたみたいだ。
「行くとは言ってないわよ」
「えぇー、葵さんも行くって言っちゃいましたよ」
「なんでそんなことになってるのよ。私なんて行っても邪魔でしょう」
「何言ってるんですか!逆に二人きりの方が私は緊張しちゃいます…!来てくださいよ」
そうせがまれたけれど、実際美波ちゃんの恋を応援するのなら、私は本当に邪魔になってしまう気がしてならない。
美波ちゃんの恋、というのは私が勝手に思い込んでいるだけだけれど、きっと美波ちゃんは白瀬さんのことが好きだと思う。
とある日は、白瀬さんの笑顔が可愛かっただとか、そのあくる日は昨日電話ができただとか、乙女のような話の内容ばかりなのだ。これを好きだと思わずにはいられない。
「お願いします!来てくださいよ葵さん」
頭をさげてまで頼む姿勢に私は折れてしまった。別に行ったところで付き添いのような感覚でいいんだろう。
「いるだけよ、いるだけ」
そう答えると、ぱぁっと顔を輝かせた。
「ありがとうございます!助かります」
土曜日になり、私は約束の時間に約束の場所に立っていた。手には万人受けが良いと噂されるカフェラテがある。結局、白瀬さんの好きな飲み物など分からないから、皆が好きだというカフェラテを選んだ。
約束の時間を少し過ぎてから、美波ちゃんは小走りでやってきた。
「はぁっ、はぁっ、すみません!遅れました」
走ってはいたけれど、提げている紙袋を丁寧に運んできた。これは恐らくチーズケーキだろう。
「まだ白瀬さんは来てないわ。大丈夫よ」
私と美波ちゃんは、白瀬さんと待ち合わせをする時間よりも少しだけ早く合流しようと約束をしていたから、案の定白瀬さんの姿は見えない。
ほんの少しだけ美波ちゃんと立ち話をして待っていると、白瀬さんが遠くの方で見えた。
見慣れない私服姿に思わず目を奪われる。脚のラインが見えるジーンズと少し大きめのTシャツだ。ラフな格好ではあるけれど、その服装は白瀬さんにピッタリだった。いつもスーツしか着ていないから、私服姿とのギャップで、見とれてしまう。
「お待たせしました。二人とも時間通りなんですね」
そう微笑みかけてくる彼女はいつもと雰囲気が違って見えて、心がふわふわする。隣の美波ちゃんを見ると、満面の笑みを見せていた。
「白瀬ちゃん、今日もすごく可愛いね」
少し声が高くなっている気はするが、自然な流れで褒めていて、私も見習うべき姿だなと感心する。美波ちゃんは褒め上手だ。
「ふふっ、ありがとうございます。美波さんも相変わらず素敵です」
二人で微笑みあっていて、まるで私がいないかのような空気が流れている。なんだか少し妬いてしまうな。今日は付き添いだから、余計な口は挟む予定などないけれど、少しは私に構ってくれても良いと思う。
そんなふうに思っていると、白瀬さんはこちらを見た。そして、目が合う。
「広澄さんも、わざわざ来てくださってありがとうございます。会えて嬉しいです」
そう述べる彼女が、いつもより大人っぽく見えた。分かりやすい表情でもしていたのだろうか。
しかし、そんなつもりは全くないのだ。私の心情と彼女の言動がリンクしたのはきっとまぐれだ。でも、だからこそ彼女のささいな気遣いがスッと身体に入ってくる。私のこともしっかり見えているみたいで嬉しい。
少し歩くと彼女のアパートについた。
「少し狭いんですけど、どうぞ」
そう言いながら、玄関を開けてくれた。お邪魔しますと小声で呟きながら私たちは家に入る。
アパートの外見から、だいたいの広さは想像がつく。基本的な造りはその想像通りだった。しかし、予想と違ったのは部屋の中の様子である。そこには一人が暮らすのに必要最低限の家具が置いてあるだけだった。余計な荷物が全くない。いわゆるミニマリストというやつだろうか。
「荷物は適当に置いてくださいね」
「あ、これチーズケーキです!白瀬ちゃん、一緒に食べよう」
「えっ、いいんですか!ありがとうございます」
すかさず私も飲み物を渡す。
「これ、私からも」
「広澄さんまで……ありがとうございます」
律儀にぺこぺことお辞儀をするあたり、育ちが良いのがよく分かる。
「準備するので、座って待っていてください」
白瀬さんは私たちが買ってきたものたちをお皿に取り分けてくれるようだ。
「白瀬ちゃんの部屋、すごくスッキリしてるね」
私が先程から思っていたことを、美波ちゃんが尋ねてくれた。
「殺風景ですよね。引っ越してから荷物を置かなくなっちゃって」
「そうなんだー。でもシンプルで私は好きだよ」
「ええ、白瀬さんらしいわ」
でも、ここは少し狭いような気がする。一応、私たちの会社の給料はそこらへんの会社よりも遥かに良いはずだ。もう少し大きめのマンションを借りても余裕が出来るくらいに。それなのにここに住んでいることが意外だった。彼女は節約家なのだろうか。
「葵さん、前は悠ちゃんって呼んでませんでした?」
隣から囁き声で、そう指摘された。
「どっちも使うわよ。気分でね」
「へえ、そうなんですね。二人きりの時だけ呼んでるのかと思っちゃいました」
あながち間違いではない。美波ちゃんの思考回路は私にズバッと突き刺さる。今の言い方も、まるで私と白瀬さんとの間に何かがあるのではないかと探る言い方のように思えた。
そう思っていると、美波ちゃんは今思い出したかのように声を出す。
「そうだ!白瀬ちゃん、私も悠ちゃんって呼んでもいいか聞こうと思ってたんだ」
そんな美波ちゃんに対して、白瀬さんは可笑しそうに笑って言った。
「以前も呼んでくださってましたよね、一日だけ」
「え?そんなことあった?」
私は覚えている。これは歓迎会の時の話だ。つまらないおじさん方との話を聞き飽きている時、少し遠くの方で酔っ払った美波ちゃんと白瀬さんが距離を近くして会話していたのを覚えている。
「ありましたよ。私の名前くらい、好きに呼んでください」
寛大な心で美波ちゃんを包み込んだところで、チーズケーキとカフェラテが運ばれてくる。この組み合わせは絶対美味しいだろう。
「嬉しい!じゃあ私も悠ちゃんって呼ぶ!」
目の前のチーズケーキより、美波ちゃんは白瀬さんに夢中のようだった。
それから、白瀬さんに促され、私たちはチーズケーキとカフェラテを美味しく頂いた。食べ始めてから少し話が変わり、会社のことや家族の話、それぞれの休日の話をして談笑の時間を過ごした。
そこで分かったことは、白瀬さんは話を聞くのが上手だということである。思わず自分のことを話してしまうくらいに話しやすい雰囲気を醸し出してくれる。
結果、白瀬さんは自分のことをほとんど話していない。話していたのは主に私と美波ちゃんだった。しかし、そんな状況に気づいたのも、美波ちゃんが帰宅する直前のことである。
「じゃあ、私は明日少しはやいのでこの辺で失礼するね」
「え、もう帰られるんですか?」
「そうなの。明日の早朝からテーマパークに行ってくるわ」
「へえ、いいですね。誰と行かれるんですか?」
「いとこよ。子供を連れてくるらしいの」
「それは楽しみですね。でも少し残念です、一緒に夜ご飯を食べれるかと思っていたので…」
「えっ……食べたかった!あ、じゃあわかった。葵さんを置いていくから、葵さんと食べて!また後で葵さんからお話聞くから」
急な展開で口を挟む暇がなかった。
「ちょっと、」
「葵さん、悠ちゃんのことお願いしますね」
「私も一緒に帰るわ」
今日は美波ちゃんの付き添いで来たのだ。私だけが残る必要はどこにもない。
「え、明日用事あります?」
そう聞かれて咄嗟に上手く嘘をつけたら良かった。
「いや…ないけど」
「じゃあ大丈夫ですよね。悠ちゃんが可哀想なので…お願いしちゃってもいいですか?」
結局は白瀬さんのためにと考えているのが分かって呆れる。私が彼女と二人きりになってしまって何かが起こるとは思わないのだろうか。
「じゃあ悠ちゃん、今日はありがとう!今度は私の家に遊びに来てね」
「こちらこそ、わざわざありがとうございました。楽しかったです」
美波ちゃんは、私もだよと言ったのち、彼女の頭をくしゃっと撫でた。じゃあね、と告げた美波ちゃんの耳は少しだけ赤かったのは気の所為ではないだろう。
最後のはなんだ。イチャイチャを見せつけられた気分だ。白瀬さんも、撫でられた場所を気にしながら前髪を直している。
私に撫でられてもそんな反応はしないのに、とまた少し妬いてしまう。
そして、私はひとり取り残された。机の上に置かれている三つのお皿とフォークが私の心を虚しくさせる。誰かが帰ったあとの虚無感は多くの人が体験したことがあると思う。私はあれが少し苦手だ。
そんな私を察してか、白瀬さんは私に言った。
「残って頂いて申し訳ないです。
…でも嬉しいな。また広澄さんとこうやってお話できるなんて」
思いがけない発言に驚く。私と話すのが嬉しいと思っていてくれたなんて、と。素直にその言葉が私には嬉しかった。
多くの人は上辺だけを取り繕うとするものだ。それは私からすれば見抜けてしまう。でも、今の彼女の言葉には一切の曇りがなかった。心の底から漏れ出た言葉なんだと、胸がじんわりと温かくなった。そのおかげで、心につっかえた虚しさなんてあっという間に消え去っていく。逆に、落ち着いてしまうのだから彼女の秘める力は恐ろしい。
実は台風の一件があってから、私たちの関係がぎこちなくなってしまうのではないかと心配していたのだ。けれど、そんなのは杞憂だったみたい。
彼女といると綿に包まれるみたいに心がふわふわする。それがとても心地良くて、心が幸せで満たされる。こんな人は初めてだった。
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