遠慮会釈な白瀬さん

第16話

 朝、目覚めると、目の前にいたはずの白瀬さんがいなかった。少しもりあがった布団は既に冷えきっている。


 腕に着けていた時計を見ると、短い針は真下をさしている。六時という比較的早い時間帯なのに、彼女はどこにいったんだろう。


 ゆっくりと起き上がり、一旦部屋から出る。しかし、白瀬さんはどこにもいなかった。ついでに外に目をやると台風はすっかり過ぎ去り、穏やかな朝の陽射しを浴びる。


 顔を洗うためにトイレの洗面所に行く。温かいお湯は出るはずもなく、冷たいまま顔に浴びせる。しかしそのおかげでパッチリと目が覚めた。


 その間も周りを気にしつつ白瀬さんのことを探すけれど、やはりどこにもいなかった。


 仕方なく私は自分のデスクに向かった。まだ仕事をするには早すぎるが、化粧をしたいし、白瀬さんの行方が気になった。スマホにも連絡はなく、いつもの待受画面が浮かぶだけだ。



 “白瀬悠”

 彼女は不思議な人だ。

 私のことが気になっているのか、そうでないのか、曖昧な態度でよく分からない。さっぱりとした性格なのに、どこかおっちょこちょいな所がある。


 彼女は会社の面接をスルーし入社した創設以来初めての新入社員だった。部長のお気に入りということもあるけれど、実際彼女の入社は、全て実力で勝ち取ったものだった。彼女の小論文は素晴らしかったし、入社模試に関しても、文句なしの成績だったのだ。彼女の文才と思考力、今後を見据える展望に私たちは呆気に取られたのをよく覚えている。


 彼女は覚えていないかもしれないが、私たちは一度会社の外のベンチで会ったことがある。その時の彼女は初々しいことこの上なかったのだが、あの時の彼女を見て思わず手を差し伸べずにはいられなかった。今も危なっかしいことが多々あるからか、彼女から目を離せない。


 それに、一時期は彼女からの視線をよく感じた。これは私にとってよくある事だった。恵まれた容姿だからか、視線を向けられることが日常茶飯事になっている。そのため、どこから見られていても、誰に見られていても、すぐに分かってしまい、視線には敏感になってしまった。


 視線だけではない。多くの人は私に好意を向ける。私のことを何も知らないくせに、どこがいいんだろうか、といつも思う。きっとこの顔だろうということはハナから分かっているけれど。


 どうせ、彼女もはじめはそんな事になるのだろう、そう見切りをつけていた。私が思わせぶりな態度をとると、決まって人は近づいてくる。一歩、もう一歩と私の中に入ってこようとする。その態度でだいたい分かるのだ、人の性格というものは。


 しかし、彼女は少し違った。他の人とはほんの少しだけ違う。私が近寄ると決まって半歩距離をとる。私が頭を撫でると決まって耳を赤くする。彼女の苗字を呼ぶと、少しだけ嬉しそうに笑う。彼女は気づいていないかもしれない。だけど、そこが可愛いのだ。こんな純粋さが私にはとても眩しかった。


 彼女は私と距離を取りたがる節がある。それなのに、彼女から急接近してくることもある。何がしたいのか、彼女の意図することは何なのか、少しだけ理解するのが難しかった。


 昨日の夜のことを思い出す。夕食の時、彼女は私に聞いた。どう思っているのか知りたい、と。きっとこれは恋愛的な意味だったんじゃないかと思う。私は彼女をそういう目で見たことは一度も無かった。彼女は少しだけ他の人とは違うから、間違いであって欲しかった。もし恋愛的な意味で私を好いているなら、私はそれに応えられそうにない。


 そう心配したけれど、結局は私が上司で良かったと彼女は言った。その一言でほっとする。好意を向けられたら、私は彼女と一緒にいることができなくなる。彼女の隣はとても心地よい。だから、これからも彼女とは仲良くしていきたい。これは本心だ。


 つまり、彼女とは上司と部下の関係が一番ちょうどいいのだと思う。



 化粧を終え、メールの確認をしていると、足音が聞こえてきた。入ってきたのは、ビニール袋をぶらさげた白瀬さんだった。


「あ、」

「おはようございます」


 彼女はすでに身支度を終えているようだった。


「どこに行っていたの?起きたらいないから少し心配したわ」

「何も言わずにすみません、朝ごはんを買ってきました」


 手に持っていた袋を軽く上に持ち上げて見せびらかすようにして言った。


「サンドイッチでいいですか?」


 そう言いながら、彼女は私にそれを渡す。


「ありがとう、助かるわ」

「いえ、これは昨日の夜ご飯のお返しです」


 ついでに私の好きなカフェラテを机に置かれる。


「これ、私の好きなやつ…」

「いつも広澄さんが飲んでいたので買ってみました」


 彼女は本当に私のことをよく見ている。このカフェラテが好きだなんて誰にも言ったことがないから、本当に私が飲んでいるところを見ていたのだろう。


「嬉しいわ、本当にありがとう」

「それは良かったです」


 彼女は照れたようにはにかんだ。



 朝ごはんを終えると、続々と他の方々が出社してきた。


「あれ、今日は広澄さんお早いですね」

「ええ、少しね」


 入ってくる人皆にそう言われる。


「白瀬さんもはやいね」

「はい、今日は少し」

「昨日台風大丈夫だった?」

「電車が止まったので帰れなかったんです」

「えっ、そうなの?!」

「そうなんです」

「ええ〜、それなら俺も遅めに帰れば良かったかな」

「何言ってるんですか、早く帰って良かったですよ。それに、広澄さんが付いていてくださったので」


 人が少ないからか、話の内容が筒抜けだった。私が付いていたというよりも、彼女が私に付いていたという方が正しいのに。私が守られてしまった気がして変な気分になった。


「おはようございまーす」

「おはよう」

「お、葵さんはやいですね!」


 明るい美波ちゃんは最近私によく白瀬さんの話を持ちかけてくる。


「あれ、白瀬ちゃんもいる。今日はやいかな〜って思ってたのに」

「台風の分の巻き返しですか?」

「え、分かっちゃうの?さすがだねえ」


 白瀬さんの頭をわしゃわしゃと撫でているのが見える。


「あ、だめですだめです」

「ん?」

「昨日家に帰ってないので」

「ええ?会社に泊まったってこと?」

「はい、帰れなくなってしまったので…」

「ええ!?大丈夫だった?怖くなかった?」

「もう、そんなキャラじゃないですよ!」


 白瀬さんは皆に可愛がられる存在だ。特に美波ちゃんとは仲が良い。美波ちゃんと話す時、私には見せない顔で笑うから、その姿を見ると少しだけ美波ちゃんが羨ましくなった。


「今日ははやく帰りな?どうせ白瀬ちゃんのことだから仕事やってたんだろうし」

「ありがとうございます…そうします」

「…あっ!!」

「っ、なんですか」

「いや、そういえば昨日処理したあと総務部に渡す資料あるの忘れてた!」

「それなら、昨日やっておきましたよ」

「えっ、ほんと!?うわあ、本当にありがと…!!助かった!!」


 白瀬さんは仕事が出来る。新人とは思えない仕事ぶりを何度も見せられてきた。本人は出来ていないことを気にしているみたいだったけれど、今の時期にしては上出来だ。きっと将来有望な社員のひとりになるだろうということが予測できる。


「広澄さん、これ確認お願いします」


 声をかけられてハッとする。

 仕事中だ、集中しないと。


 私は、彼女のことを考える時間が増えたことに少しずつ気付いていた。でも、それは部下のひとりとして、と自分の中で念を押す。


 彼女とは、何も起こらない。

 何も、起こさない。


 私は平凡な未来を掴み取りたいんだ。


 彼女を選ぶ未来はきっと来ない。

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