第15話

 電話を終えた広澄さんが戻ってきた。


「お待たせ。話の途中でごめんなさいね」

「いえ、大丈夫ですよ」

「それで、なんの話だったかしら」


 澄んだ瞳で見つめられる。ついさっき、覚悟を決めたものの、その目を見ると気持ちがぐらっと揺らぐ。


「えっと…」

「私に聞きたいことでもあった?」


 改めて話すとなると、かなりの勇気がいる。緊迫した空気が私の周りをまとわりつく。


 それでも、私は彼女のことを知りたい。

 今しか機会はないと誰かが頭の中で囁いた。ぎゅっと拳を固めながら、私は一歩ずつ彼女の中に踏み込んでいく。


「あの、広澄さんは、どう…思っているのかなって」

「え?」

「いや、その…」

「何をかしら?」


 今の言い方じゃ分からないだろうと私でも分かっている。でも、本当にその先を言ってしまってもいいのか、ぐるぐると迷いが心の中を駆け巡る。


「その、」


 彼女は私の言葉を待っている。間が空いてしまえば、勘づかれてしまうだろう。


 私は、半ばどうにでもなれ、という気持ちで口を開いた。


「広澄さんは…私のこと、どう思っているのかな、って」

「悠ちゃんのことを?」


 悠ちゃんと呼ぶその言い方にまだ慣れない。


 広澄さんは少し考えてからこう言った。


「とても好きよ」


 その言葉で心臓が跳ねた。止まるんじゃないかと思うくらいに。


 でも、その後に続く言葉が現実だと知らしめる。


「部下として、ね」


 好き、と私の望む言葉が返ってきたものの、その言葉に深い意味は無いのだ。部下として、と付け加えるあたり、彼女の本心がそこで垣間見えた。


「そう、ですか」


 好きと言われて安心する一方で、部下の一人でしかないと告げるその事実に胸が痛い。


「私も好きです、広澄さんのこと」


 思わず口から滑り出たそれを、誤魔化すように慌てて付け足す。


「広澄さんが上司で本当に良かったです」


 その言葉で彼女はようやく微笑んだ。それを見た私は、好きという言葉は気軽に発してはいけないんだと頭に叩き込む。


「珍しいわね、そんなことを聞くなんて」

「そうですか?…前から気になっていたので」

「ええ、でも本当に悠ちゃんといると居心地が良いのよ」


 目を嬉しそうに細める姿を見て胸が温かくなった。


 そのことは初めて知った。初めて聞いた。彼女自身初めて言ったんではないかと思う。


「それは嬉しいです」

「ふふっ。だからね、これからも仲良くして欲しいの」


 彼女は私を見ていなかった。手元をぼんやりと見つめるその姿は、他に何か考え事をしているように見える。でも、聞けなかった。何を一体考えているのか。なぜか、この時の広澄さんに問いかけることは出来なかった。


「…もちろんですよ」

「嬉しいわ」


 やっと顔をあげた彼女と視線が合う。その顔は笑顔だった。



 それからは、この話題に触れることなく、ただただ時間が過ぎていった。たわいも無い話をしたり、化粧を落としたり、その他色々をし終える。


 時計を見ると0時を指していた。


「そろそろ寝ましょうか」


 彼女はすっぴんだった。それでも彼女の顔は普段とそんなに変わらない。少し幼い印象を受けるくらいだった。


「広澄さんの肌、すごく綺麗ですよね」


 仮眠室に向かう途中、私はそう伝えた。


「ふふっ。ありがとう、嬉しい。けど、悠ちゃんもすごく綺麗よ。やっぱり若さには勝てないわ」


 私はかなり肌の保湿やスキンケアには気を遣っている。でも実際、私と広澄さんは歳が四つも離れているのに変わりないように見える。彼女は若さが、というけれど、実質同じだと思う。若さを打ち消すほどに彼女は美しいのだ。


 そんな話をしていると仮眠室に着いた。


「こんなところにあったんですね」

「ええ、普段使わないから知らない人が多いわ」


 促されて中に入ると、仮眠室は意外と小さな部屋だった。そこにはシングルベッドがひとつ置いてある。


ん、ひとつ…?


「広澄さんがここに寝られますか?私は別の部屋に…」

「何を言ってるの、女性の仮眠室はここしかないわよ」


 えっ。ということは、このシングルベッドでふたりで寝るということでしょうか?


 突然の状況に思考が停止する。


「狭いかしら?でも、ここしかないのよ」


 私とくっついて寝るのは当たり前だと言わんばかりの発言である。


「…それなら、仕方ないですね」


 仕方ない、のか?


 私自身、シングルベッドで誰かと寝たことはあるけれど、その時はくっついて寝たから気にならなかった記憶がある。

 それが今回は気安くひっつけるような間柄でもなく、私が一方的に気になっている上司と一緒にだなんて、何かの漫画だろうかと現実を疑う。


「広澄さん奥で寝ますか?」

「ええ、そうするわ。じゃあ先に入るわね」


 しかしそんな現実はとめどなく進み続ける。結局広澄さんとひとつのベッドで寝ることになり、彼女を奥に行かせた。壁際だから落ちる心配も無いだろう。


 広澄さんのあと、ゆっくりと静かにベッドを軋ませないようにと足を入れた。そしてそのまま背を向ける。こんな状況で広澄さんの方を見れる人はいるんだろうか。きっといないだろう。


 私は身体をできるだけ縮こませながら目を閉じる。後ろにじわりとあたたかな温もりを感じて、布団をシェアするのも悪くないような気がしてくる。でも、くっついていないから、かなり狭苦しく感じてしまう。でも、変に距離を詰めて寝れなくなってしまうより、よっぽど今の方が良い。


 そんなことを思いながらゆっくりと意識を手放していく。



「悠ちゃん、寝た?」


 夢の中へ落ちていく途中、広澄さんが私に尋ねた。危ない、あと数秒遅ければ寝てしまっていただろう。


「寝てませんよ…」


 そう伝えると、ごそごそと後ろがうごめくのを感じた。


「なんでそっち向きなの…」


 ボソリと呟く声が聞こえた。

 なんで、だなんてそんなこと、広澄さんは分かっているはずだ。


「いつも寝る時はこっち向きなんです」


 意識がぶらぶらと宙を舞いながらも必死に答える。拾わなくても良いだろう呟きに反応した私をどう思っただろう。


 どうせ、彼女の言葉に深い意味は無いのだから、考えない方が良い。今の独り言に何か意味を見出すなんて阿呆らしいことはしない。考えないためにも、自分からハッキリさせておく方が良いと思ったのだ。


 しかし、次の瞬間、私の背中に何かが当たる。なんだなんだと手放しかけた意識を手繰り寄せると、徐々に今の状況が理解出来た。


 当たっている?彼女のアレが…?


 まさか、そんなことあるはずがない。そう思ったけれど、脇腹の付近に彼女の温もりを感じてしまってやっぱりそうだと認識する。温もりだけでなく、彼女の手が私のお腹に回されたのを自覚すると一気に眠気が吹っ飛んだ。


 後ろから抱き締められてるんだ。

 広澄さんに。


 ゆっくりとしたリズムで活動していた心臓が、ドクドクと音を鳴らして速くなっていく。


「…どうかされました?」


 そう問いかけても返事はない。

 彼女は寂しがりやなのだろうか、なんて解釈をしそうになったけど、思いとどまる。

 きっとこの行為に意味はない。信頼する部下に少し寄りかかった程度のことだろう。


「こうして寝てもいい…?」


 少し甘ったるい声が耳の中に響く。

 聞いたことの無い彼女の声に胸が疼く。ぎゅいんと心臓が握りつぶされるような感覚がして眉間に皺が寄る。


 ベッドの上ではこんなふうに甘えるんだろうか。恋人にはこんなふうに話すんだろうか。


「ねえ、聞いてる?」


 いつもより少し高めの声だ。私の背中におでこを当てているからか、くぐもったような気もするけれど、それが余計に私を興奮させる。


「聞いてますよ」

「なら…返事してよ」


 グッとお腹を締め付けられる。彼女がそばにいることが、より鮮明に感じられた。


「……別にいいですよ」


 そういう私の言葉に返事はなかった。

 広澄さんだって返事をしないじゃないかと思ったけれど、それは心の中におさめる。


 私は、彼女が寄りかかることの出来る存在であればいい。ただの部下でも良い。こんなふうに彼女が私を必要としてくれるなら、そんな関係でいるのも悪くは無いんじゃないか。


 そんなことを思い始めていた。


 好きになっても実らないことは目に見えている。それならば信頼のできる部下として割り切る方が幸せになれそうな気がした。


 背中に温もりを感じながら、私は目を閉じる。ずるいだなんて、そんな言葉は使いたくないけれど、彼女にだけは使わせて欲しい。


広澄さんは、とことんずるい人である、と。


きっと私の好意に気づいているくせに、こうやって後ろから私を抱き締めて離さないなんて、本当にずるい。ずるいなぁ。



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