第13話

「ここよ」


 そういう広澄さんに連れられたのは、社内で若い男性が多いと噂の広報部だった。


「え、え…何をしに行くんですか」

「心配しないでもすぐ終わるから大丈夫よ、ここで待っていて」


 止める暇もなく、彼女はスタスタと入っていってしまった。外からでも、中の人たちが広澄さんに注目しているのが見える。そりゃあそうだ、あんなに濡れて色っぽい姿なんだから。黒い渦が心の中を荒らしていく。


 こんなところでボーッと立ってなんかいられるわけないじゃん。


 ちょうど今いる下の階に売店があったはずだ。私は急いで駆け出した。

 タオル、買いに行かなきゃ。


 急に駆け込んできた私を見て売店のおばちゃんは驚いた。


「あらあら、そんなに急いで。かなり濡れてるわね、大丈夫?」

「はい、ありがとうございます。タオルを買いたいんです」

「そうなのね、沢山持っていきなさい」


 私の分と広澄さんの分を買い、また上の階に戻る。大きなバスタオルを買ったから、それを袋から出して抱える。


 広報部の前に帰ってきても、そこに広澄さんはいない。チラッと中を見るとまだ人と話しているのが見えた。


 私は遠慮もせずにズカズカと中に踏み込む。その様子に気付いた広澄さんは思わぬ私の行動に目を丸くしている。


「え、白瀬さん?」


 私は抱えていたバスタオルを広澄さんにかけた。


「風邪引きますよ」


 しっかりと前のブラウスが隠れるようにタオルを巻き付ける。そんな私を見て彼女は、ありがとうと優しく微笑んだ。それだけで胸がいっぱいになった私はぺこりとお辞儀をした後、すぐに廊下へ出た。



「白瀬さん、お待たせ」


 あれから少しして彼女は戻ってきた。彼女の胸元はしっかりとタオルで覆われていてホッと胸を撫で下ろす。


 エレベーターに乗り込むと、彼女はこちらを見て言う。


「いきなり乗り込んでくるんだもの、びっくりしたわ」


 にやりと白い歯がこぼれている。


「…全然すぐじゃなかったじゃないですか」

「戻っていてくれて良かったのに」


 子供みたいに拗ねた私の口調を、彼女はサラッと受け流し、大人の余裕で嗜める。


 広澄さんは全然分かっていない。

 自分の状況も、どれだけ自分が注目されているのかも。そして、私がどんな思いでタオルを買い、あなたにかけたのかも。

 全然分かっていない。

 もちろん、分かってくれだなんて期待はしていないけれど。


「っていうか、白瀬さん自分のこともちゃんと拭きなさい」


 私の手元にあるレジ袋を奪い取り、タオルを引っ張り出す。そして、私の頭にかけた。


「白瀬さんもたいがいよ」


 頭に乗ったタオルで私はわしゃわしゃと髪の毛を拭く。

 ちょうどチーンとエレベーターのベルが鳴った。



 部屋に入ると、そこにはもう誰もいなかった。


「良かったわね、みんな帰ったみたい」

「そうですね」


 そういえば、私はタオルと一緒にワイシャツを一枚買っていたのを思い出した。ちょうど品切れで、一枚しかなかったのだ。

 広澄さんの方を見ると、バスタオルで濡れたシャツを拭いているところだった。


「広澄さん、これに着替えてください」

「これは?」

「新しいワイシャツです。結構濡れてますよね。そのままだと風邪を引くと思うので」

「…ありがとう。白瀬さんは?」

「私は大丈夫です」

「え、大丈夫じゃないわよ」

「大丈夫ですよ」

「いいえ、これは白瀬さんが着なさい」


 無理やり押し戻される。それでも私は力ずくで押し戻した。


「私より広澄さんの方が濡れています。これ着てください」

「拭いていたら乾くわよ。このくらい大丈夫だから」


 広澄さんは頑固だ。私よりあきらかにびしょびしょなのにどうしてそんなに拒むのか。


「いえ、これは絶対に広澄さんが着てください。私はタオルを沢山羽織るので結構です」


 そう言い放って私は席に戻った。


「ちょっと、」


 何か言いかけていたけれど、私の態度に渋々受け入れてくれたみたいだった。



 髪の毛が乾いてきた頃、私は今日の夜のことが気になった。電車は動きそうにないし、タクシーも上手く捕まえられる予感がしない。そうなると、ここで寝ることになるのだろうか。


「広澄さん、今日はこのまま会社に泊まりますか?」

「そうなるわね。この会社に仮眠室があるからそこに行きましょう」

「仮眠室なんてあったんですね」

「そうなのよ、あまり使わないけどね」


 ベッドで寝れると聞いて安心する。


 それにしても、やることが見つからない。

 暇だ。せっかく会社にいるのだから、何か仕事でもするか。そう考えた私はタオルを身体に巻き付けたままパソコンの電源に手を伸ばす。手先に電源ボタンが触れる。


 しかしその瞬間、いきなりバチッと周りが見えなくなった。不意打ちだった。


「…え?」


 辺りを見回しても何も見えない。数秒経って、今の状況を理解する。


 これは停電だ。


 昼過ぎなのに、台風の影響で天気が悪く、夜のように真っ暗だ。何も見えない。


 広澄さんが心配になり、私は声をかける。


「広澄さん…大丈夫ですか?」


 その問いかけにハッキリとした返事が返ってこない。


「広澄さーん…」


 大丈夫、だよね?

 心配していると、微かに声が聞こえた。


「…大丈夫よ」


 声が小さい。弱々しい雰囲気を察した私は周りが見えないながらも立ち上がり、広澄さんのいるであろうところに向かう。だんだん目が慣れてきたからか、思ったよりもスムーズに移動することが出来た。


「広澄さん、大丈夫ですか?」


 人影に手を伸ばすと、広澄さんの肩に手が触れた。ピクッと肩が動いたのが見える。


「もしかして、暗い所苦手ですか?」

「そんなことないわよ…」


 これ、絶対苦手ですよね。

 私は思わず彼女の手をとった。


「私がここにいるので大丈夫ですよ」


 ぎゅっと手を握りしめる。彼女の手はやはり少しだけ震えている気がした。


 口では強がるけれど、本当は彼女の心は脆くて儚いのだとこの時悟った。

 私の前でくらいは、本心を見せてくれてもいいのに。私はなんだって受け入れられる。

 けれど、きっとこれは叶わない望みなのだろう。だから、私は私なりにその事実に気づかないフリをする。それがきっと私に出来る最善の策だろう。


 突っ立ったまま彼女を落ち着かせていると、急に私のことを引っ張って言った。


「ここに来て」


 そういう彼女は自身の太腿をぽんぽんと叩く。ここ、というのは彼女の膝の上のことだろうか。


「え、そこ…ですか?」

「はやくして」


 促されるままに私は彼女の膝の上に座る。流石に向かい合うのはできないからと、後ろ向きを選ぶ。


 すると、彼女は私のお腹に手を回した。ぎゅうっと締め付けるそれがかわいくて、思わず頬が緩くなる。普段は隙を見せない広澄さんが、私を頼り、私に抱きついている。


 なにこれ、かわいすぎやしないか。


 先程から心臓がうるさい。こんなに騒ぎ立てていると彼女に伝わってしまいそうだ。


 少しは、広澄さんの中に私は入り込めているのだろうか。

 広澄さんは私のことを見ていてくれているのだろうか。


 そんなことが頭を一瞬チラつくけれど、お腹に回された腕に力を入れられ、意識がそこに吸い取られる。


このまま、停電が直らなければ良い。

そうしたらずっとこのままでいられる。彼女を独り占めだ。

 私のことだけを抱きしめていればいいのに。私のことだけを考えていればいいのに。


 そんな強欲がふつふつと浮き上がる。


 しかし、そんな願いが叶うはずがなかった。神様は強欲な私を許してくれなかったみたいだ。


 パチッと明るい光が私たちを照らす。


 幸せな時間はすぐに去っていく。これが現実だった。


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