内柔外剛な広澄さん
第11話
「お昼頃から台風が接近し、明日の朝にかけて大雨となりそうです」
朝のニュースで天気予報を流しながら、食パンを頬張る。今日の昼から天気が荒れるらしい。傘を持っていかないと、と思いながら急いで支度をする。
外に出ると、強い風に煽られる。台風が近づいているということを知らせるように、ビュービューと吹きつける。周りの会社員は前かがみになりながら、風と格闘している様子が見えた。帰りの電車はこの調子で行くと止まりそうだ。はやめに帰らないといけないな、と思いながら急いで駅のホームへと向かう。
電車の中はいつもよりぎゅうぎゅうだった。朝のうちに仕事をして帰りたがる人で溢れているのかもしれない。隣の人に足を踏まれ、人の波にのまれ、後ろの女性にお尻を押され、散々な通勤である。片側のドアが開いた途端に人の波がドアの方へ流れていく。誰かのカバンが身体にぶつかりながらも耐え忍んでいると、見覚えのある匂いが鼻をかすめる。バッと後ろを見ると、そこには広澄さんらしき人の後ろ姿が見えた。人の波と一緒に彼女の香りがこちらまで流れてきたみたいだ。
中の人が外へ流れ出たと思ったら、今度は外から中へと人が押し寄せてくる。その勢いで私は奥へ奥へと追いやられ、運がいいのか悪いのか、広澄さんにピッタリくっつく形になった。
「お、おはようございます…」
私の声に驚いたのか、肩をビクッと震わせてこちらを向いた。
「え、白瀬さんじゃない」
「はい、白瀬です」
「奇遇ね」
「電車の中でお会いするの初めてですよね」
「いつもこの時間なの?」
「今日は少しはやいですね」
「だからいつも会わなかったのね」
周りの人に遠慮して、小声で話す。
「今日人すごいですよね」
「そうね」
「帰りの電車が心配ですね」
たわいもない話をしていると、広澄さんの奥から強烈な視線を感じた。ちらっと見ると、五十代後半くらいのおじさんだった。その視線は私をとらえてるのではなく、目の前にいる広澄さんに向けられていた。
…このおやじ、広澄さんを凝視している。
おじさんは身体を彼女の方へ向けていて、危ないことをしでかしそうなオーラを放っていた。気にしすぎかもしれない。でも、気にしすぎなくらいがいいんだと思う。肝心の広澄さんは全く隣に気付いていない様子だ。電車の中は相変わらず隙間なく詰められており、おじさんもすぐそこに立っていた。
少しだけ鼻息が荒くなっているのは気のせいか?
残念なことに私たちは壁際に立っていなかった。ドアのある少し広めの空間のど真ん中に位置している。つまり、彼女を例のごとく壁際に強引に引っ張り、守るというような漫画みたいな事は出来ない。
どうしたものかと頭を抱えていると、その男はついに動き出した。彼女のことをじっと見つめたまま頭上の手すりを握っていた手をゆっくりと下におろしているではないか。そのままその手をどこに持っていくつもりだ?
彼女は渡せない。そんな強い気持ちに駆られた私は、右手で後ろから彼女の腰に手を当てた。突然のその行動に広澄さんは驚いている。
「どうかした?」
「ちょっとすみません」
彼女の問いかけには答えずに、ぐいっと自分の方へと引き寄せる。彼女のどこにも触らせない。ましてや、お尻という聖域は絶対に死守してやる。心の中でそう呟いて、彼女との距離を近づける。しかし、それでも真横に立っていることには変わりなかった。つまり、ガバガバなのだ。守っているとも言えない状況なのである。ただ私が腰に手を当てているという変態チックな絵面になっているだけ。そんなこと、許されるわけがないので、私は電車がガコンと揺れた瞬間をついて、一歩下がりスペースを作る。スペースと言っても充分なものではない。それでも、隣のおじさんに触らせるよりかはマシだった。そのスペース目がけて彼女をさらに引き寄せる。
「…っちょっと」
いきなりの行動に慌てているのが手に取るように分かる。その拍子に彼女はバランスを崩してしまって、さらに私の方に寄りかかってきた。
…かなり密着している。私の右腕で彼女を抱え込むようにしているため、ピタァッとくっついている状況だ。
内心焦っている。そりゃあ焦る。勢いでしてしまったからだ。隣のおじさんに睨まれているのが視界に入る。ほら、やっぱり危ないところだったんだ、そう心の中で唱えて自分の行動を正当化しようとする。広澄さんは黙ったままだ。
ピッタリとくっついたまま、沈黙が流れる。離れようにも狭すぎるため身動きがとれない。そもそも守るためにこうしたのだから、簡単に離れられては困る。
お願いだから、心臓の音は聞こえないでいて欲しい。目の前のフローラルの香りでさらに心拍数が上がる。
彼女はなんて思っているんだろう。それだけが気になって気になって、そればかりに気を取られてしまった。電車が揺れた時に耐えられず、人に押されてガコンと前につんのめる形になる。そうすると、顔が前に放り出されて、彼女の真横に投げ飛ばされる。さらに、前にいる彼女に体重をかけてしまい、完全に抱きつく形になった。
これはだめだ。ただ私が彼女に抱きつきたい人になってしまっている気がする。冷静に考えたら、隣の痴漢魔(おじさん)に触られてもいないのに急に引き寄せられたのだから、状況を知らない彼女からしたら変態な部下でしかない。心做しか、私の鼻息もあらい。
おいおい、私の方が痴漢魔みたいじゃないか!
広澄さんにバレないように冷静を装って、元の位置に戻る。彼女は何も言わないから、セーフだ、と勝手に自分の中で解決する。そう思っていると、広澄さんがこちらを見た。その口元には悪戯な笑みが零れている。
「ど…どうしたんですか」
少しキョドってしまった私を見て、彼女は声を出さずに唇を動かした。
「へんたい」
そう聞こえた気がする。
「ちがっ…」
思ったよりも大きな声が出て、咄嗟に口を塞ぐ。ちがうんですよ…と小声で漏らしても、彼女はこちらを向いてくれない。
全身が熱い。ただでさえ人との距離が近くて暑いのに、余計に私の蒸気でのぼせそうになる。絶対顔あかいよなぁ。
それから、会社の最寄りに着いて一緒に降りる。恐る恐る表情を伺うと、彼女はケロッとしていた。まるで何も無かったみたいに。
「どうしたの?」
そんな私を見て彼女は問いかける。分かっていないように見えて、分かっているんだろうな、なんて心の中だけで悪態をつく。
「別になんでも…」
彼女と出社すると、多くの人から視線を浴びる。熱い視線は驚くほどに分かりやすいんだと実感した。毎日毎日大変そうである。大変ですね、なんて野暮なことは聞かない。どうせ周りから散々言われているだろうから。
窓の外でゴーゴーと風が唸る。
台風はだんだんと近づいてきているようだ。
そして、それは彼女と急接近するような出来事さえも連れてきていることを、私はまだ知らない。
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