第10話

 あれから、一ヶ月が経った。


 社長さんとの件は、あの後すぐに広澄さんが対応をしたらしい。そして、彼女の判断により、あの会社との契約は破棄になったそうだ。体を張って手に入れた契約だったのに、とは微塵も思わない。どうして勝手に広澄さんが破棄するのだ、とも思わなかった。


 彼女の勇気ある判断によって、それは実行されたのだ。そうそう出来ることではないと思う。せっかく契約を結んだものを、自ら断ち切るだなんて、普通のことではない。


「ああいう社長を野放しにしていたら、同じことを繰り返すのよ」


と口を酸っぱくして言っていた。


 こういう思い切った判断力と行動力が彼女にはあった。だから、今の地位にまで若いながら辿り着けたのだと思う。


 そして一ヶ月経った今、私と広澄さんとの関係は何も変わっていなかった。いつも通り的確なアドバイスと労いの言葉をかけて下さる。頭を撫でられることもあれば、肩を触られることもある。しかし、それはあくまでもひとりの社員としてだった。他の方と扱いは同じである。あれ以来、ふたりきりになる機会もなく、抱きしめられることも、頬を撫でられ茶化されることも何も無い。


 ホッとする反面、少し寂しさを感じている自分がいるのも嘘ではない。


 しかし、実際のところ広澄さんのことより、仕事のことで頭がいっぱいだった。新しい仕事を任され、初めてながらに精一杯こなしている。新人だから出来ないのは当たり前だ。それでも、私は自分が出来ないのが情けなくて、家に帰っても勉強をしたし、かなり遅くまで残って目の前の課題と闘う日々が続いていた。


「じゃあお先に失礼しまーす」

「白瀬ちゃん、恨を詰めすぎないようにね」

「はい、ありがとうございます!」

「白瀬ー、今日は早く帰れよー」

「あともう少しでキリがいいので、それが終わったら帰ります!」


 幾人もの人たちを見送ったあと、また没頭して取り組んだ。急にスマホの光がパッと輝いて通知が来たのを確認する。同時に時計が目に入った。そこには21時の文字。辺りを見回すと、もう周りに人はいなかった。廊下も少し電気が落ちて薄暗くなっている。外も既に真っ暗だ。


「……はぁ」


 もう少しでキリがいいところが来ると思っていたけれど、一向に終わらなかった。私は一度リフレッシュを兼ねて、少し遠いところに設置してある自動販売機に向かう。たしか、あそこは種類が豊富だったはずだ。それを飲んで、少ししたらまた作業を再開しよう。遅くなるのもまずいから、22時くらいには帰りたいところだ。



 自動販売機が煌々と輝いていて、きゅっと目を細める。歩いてくるまでの道のりが暗かったから、目がいきなりの光に慣れなかったみたいだ。私は炭酸水を選択する。ガコンと落ちる音が部屋中に響き渡った。そして静かな空間にプシューと炭酸の音が広がる。


「くはぁっ!沁みる…」


 誰もいないからと大声で声を漏らす。

 ふいに窓の外を見ると、そこには綺麗な夜景が並んでいた。この会社、良いところに立ってるよなぁ、なんてくだらないことを考えながら少しの間ぼけーっとしていた。


 かなり息抜きになったところで、半分ほど減ったペットボトルを手に持ち、部屋に戻る。あと三十分ほどしか残っていないな、と思いながら歩いていると、私の席ではないところで明かりがついているのが見えた。


「……え、」

「あ…白瀬さん」

「どうして広澄さんが…?」

「それはこっちのセリフよ。私は忘れ物を取りに来たの」


 手元にはUSBがちらっと見えた。こんな時間にわざわざ取りに戻るということは、スマホのような欠かせないものかと思ったけれど、USBだなんて…もしかして広澄さんもかなりの仕事人なのかもしれない。


「それ、USBですよね」

「えぇ、そうよ」

「仕事のですか?」

「そうね」

「明日また会社あるのに……」

「それは白瀬さんにも言いたいわ」

「…え?」

「また明日すぐ仕事でしょう?こんなに遅くまで残らなくてもいいのに」


 心配するように言われる。


「…全然上手くいかなくて。遅れ気味なんです」


 そう零すと、呆れたような口調で諭される。


「白瀬さん、まだ入社して一ヶ月でしょう。周りと同じスピードで出来たら怖いわよ…今は身体を壊さないように、少しずつ馴染んでいけばいいの。分かった?」


 最もだった。頭の中では分かっていたことだ。それでも、上手く出来ない自分が悔しくて、もどかしいのだ。


 早く認められたい。

 皆さんの役に立ちたい。


 そんな強い思いが、私の背中を押しすぎていたみたいだ。


「…気をつけます」

「そんなにしょぼくれないで」


 広澄さんを見ると、何かを懐かしむような表情でこちらを見ていた。


「私も昔は白瀬さんみたいだったわ」

「…そうなんですか?」

「がむしゃらに走り続けていたの。はやくはやく認められたかったから」


 その言葉はスっと私の中に入っていく。私と同じだからだろうか。


「残業の毎日、家に帰っても仕事の事ばかり。それが認められる第一歩なんだと勘違いしてたの。でもね、ある時私は体調を崩してしまったわ」


 その体調不良はタイミングが悪かったみたいで、大事なプレゼンの日だったそうだ。本来なら、契約を取り付けていたはずなのに、彼女のせいでおじゃんになってしまった。


「だからね、頑張りすぎるのってだめなのよね。私はその時気付いたわ。…ふふっ、でもこうしてこれを取りに戻るあたり、あまり変わってないわね」


 彼女も初めからこんなに仕事ができる訳では無いのだ。今までの努力の積み重ねの結果、彼女は立派に輝いている。


「だから私、契約で取れなかったことはない、だなんて耳に挟んだのだけど…そんな事ないわよ。今の一回、取れなかったことがあるわ」


 懐かしそうに笑う。

 それを聞いて、なんでも出来る彼女のイメージが少し変わった。顔も良い、仕事もできる、何でもこなしてしまう超人なのだと思い違いをしていたみたいだ。絶対に届かないなんてことはない。沢山の失敗と葛藤と経験と乗り越えて、今の彼女が存在する。

彼女も普通の人間だったのだ。


「白瀬さん、今日は帰りましょう?その仕事はまた明日やればいいわ。間に合わなかったらサポートするから。そのために私たちがいるんでしょう」


 その言葉で、不思議と心が軽くなる。

 今まで一人で背負い込んでいた重圧を、いとも簡単に彼女は振り払ってくれた。その上、それは無責任な言葉だけの追い払いではないのだ。彼女の言葉、熱意、態度、力強い瞳の全てが、私の代わりに半分以上背負うから、という意が込められていたように感じた。そんなかっこよすぎる彼女を肌で感じて、じんわりと胸が熱くなる。


 あぁ、やっぱり彼女はかっこいい。

 かっこよすぎる。


 顔だけじゃない。かわいいだけじゃない。

 女性としての強さを、羨ましいくらいに内に秘めている。


 いつか、そんな彼女の隣に肩を並べられるような存在になりたい。


 小さい火種が、優しい風に吹かれ、静かにゆっくりと燃え上がっていく。

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