第9話

 月曜日、いつもより早めに出社をすると、やる気があるねと口々に褒められた。別に褒められよう、とか、やる気がある、とか、そういうつもりでは無かったけれど、心を一度まっさらにしたかった。


「これ、確認お願いします」


 広澄さんがまだ見えなかったので、大久保課長にお願いした。


「もう出来たのか?さすが、広澄の指導が行き渡ってるんだな」

「ありがとうございます…」

「そろそろ慣れてきたみたいだから、一人でプランを立てられるように周りの先輩に質問しながら、試しに計画立案をよろしく頼む」

「はい、頑張ります!」


 ようやく仕事のようなものがまわってきた、と心を弾ませながら自席に戻る。


「もう任されたの?白瀬ちゃんやるなぁ」

「俺なんか1ヶ月くらい雑用してたんすけど」


 美波さんと庄司さんにそう言ってもらえて、少し期待されているのかも、なんておこがましいながらに思う。


「あ、そういえば美波さん」

「ん?」

「金曜日、あれから大丈夫でした?」

「えぇ、白瀬ちゃんまでそんなこというの…」

「かなり酔ってましたから」

「もうね、途中から記憶ないのよ。反省反省。白瀬ちゃんにも変なことしてたらごめんなさいね」


 到底反省しているようには見えなくて、思わず笑ってしまった。


「ちょっと何笑ってるのよ」

「ふふっ、いえ、なんでもないですよ」


 あの様子なら、私との会話も忘れてしまっている気がする。“悠ちゃん”と呼ばれたことは嬉しかったけど、複雑な気持ちももちろんあったから。



 仕事に意識を戻し、頭を唸らせていると大久保課長に呼ばれた。


「お呼びでしょうか?」

「ああ、今大丈夫か?」

「はい、大丈夫です」

「ちょっと外に出ている広澄がトラブルに巻き込まれているらしく、次の取引先に間に合うか分からないんだよ」

「え、広澄さんは大丈夫なんですか?」

「それは問題ないだろう。先方から資料が足りないだとか熱量が足りないだとかそういうクレームに対応しているらしい」

「なるほど…」

「そこで、広澄が到着する前に白瀬が行って場を繋いで欲しい」


 え、そんな重要な役をなぜ私に…?


「わたし、ですか?」

「あぁ…若い社員が好きな社長さんでな…」


 それ、立派なセクハラなのでは。

 そんなところに送り付けられるのか。


「いつも広澄が対応してくれているから問題ないのだが、広澄が行けないとなると…かなり怒りを買うのではないかと懸念があってな。場を繋ぐにも、白瀬が適任だろうということになった」


 いや、だからなんで私っ!!


「頼む。既に時間は押しているから今から向かってくれ」



 そう言われ、急かされるようにして送り出された。急いでタクシーを捕まえて、現在タクシーの中にいる。


 いや、私がどうにかできるとか思えないんだけど。本当に大丈夫だろうか。


 広澄さんは、そもそもクレームの対応って…絶対大変だろう。彼女はあまり会社にいるイメージが無かったが、こういう仕事をたくさん任されていたのか、と会社の裏側を知った気がした。



 タクシーを降りると、私はまた急いで取引先の会社の中に走っていった。


「失礼します…っ、白瀬と申しますが、あの取引…」

「あぁ、白瀬様ですね、中で社長がお待ちですのでお入りください」


 すんなりと中に入ることが出来て、変に構える。いきなり怒鳴られたらどうしよう。それに、一体なにをして場を繋ぐのか、、


「…失礼します!」


 とりあえず元気しか出せない私は、勢いよく部屋に入っていった。


 中にはどっしりと貫禄のある中年の男性が座っていた。しかめっ面のその表情に、ゲッと怯んだけど、私のことを見ると社長さんは顔を緩ませた。


「葵くんが来れないと聞いていたが、君もなかなか良いじゃないか」


 …何が良いんでしょうか。


「遅刻してしまい、大変申し訳ありません。広澄さんも後ほどやって参りますので、暫くお待ち頂けないでしょうか」


 そう言うと顔を歪ませた。


「そちらは連絡も遅かった。こちらを軽視している結果だと思うが?だからそんな態度が取れるんだろう」


 うわあ、かなり怒ってらっしゃる。


「本当に申し訳ありませんでした…」

「今まで契約を更新し続けてきたが、今回をもって解消させていただく」

「……えっ!」


 解消!?それってかなりまずいのでは…


「ちょ、ちょっとお待ちください…!」

「もう君は帰りたまえ。葵くんにも伝えておいてくれ。二度と来るなと」

「今回の件に関してましては、こちらが大変不躾な対応でありました。しかし、我々には御社の御協力があってこそ、成り立っているものといっても過言ではありません。ですから、今一度、お考え直し頂けないでしょうか…?」

「結構だ。我々を軽視してくる君たちには、こちら側の運命を託しておけん。…それとも、君が私たちの仲を繋ぎ止めてくれるのか?」


 にちゃりと笑う姿に寒気が走った。

そちらの態度こそ、私たちをなめているとしか思えない。


 正直なところ、そちら側の事情も、強いて言うならこちら側の状況さえ私には分からない。新人の私に分かれと言うには無理があると思う。ただ場を繋げという命令だけを心に留め、ノコノコやってきただけの新人に何かが出来るとも思わない。だけど、こんな態度の社長に誠実に対応しろというのは難しいと思う。


「どうだ、ひとまずここに来て座らないか」


 隣の席をぽんぽん叩きながら私を呼ぶ。

 …いや、風俗じゃないんだから。


「大変申し訳ありません…こちらから失礼させて頂きます」


 断固として隣に座ろうとしない私を見て、社長は不機嫌になる。


「葵くんならすぐ来てくれたが?」


 広澄さんって、そんなことまでしていたのか?確かに今までの彼女を見ていたら、やりかねないと思ってしまった。


「君がこちらに座れば、更新を考えてやらんこともない」


 契約の更新とか中止とかそういうのが会社の話ではなくなっている。誇りを持って働いている社員に失礼じゃないか。


「失礼ながら、そのようなことで契約をどうこうする、というのは社員に失礼かと」

「君はえらく噛み付いてくるのだな。葵くんなら、素直に従ったぞ」


 …広澄さんはなにをしているんだ。


「しかし…我々は、自らの商品に命を懸けて日々向き合っております。契約に関して、私のような一介の社員ごときの対応で契約するかどうかが決まる、なんて」

「契約とはそういうものだ」

「…え?」

「君は取引が初めてなのだろう」


 にたにたと間の悪い笑みを浮かべている。


「それなら、私が本当の取引というものを教えてやろう」


 この時の私はどうかしていたと思う。何が正しいのか判断が出来なかった。初めてだったということもある。広澄さんもしていた、という言葉を聞いて、これが普通なんだと思い込んでいたんだ。





「葵くんには、契約更新の書類を送り付けるように言っておいてくれ。私はこれから用事があるのでな」



 その後、私は会社に帰るまでの記憶がすっぽりと抜けている。どうやって帰ったかも曖昧だが、戻った途端に部署の皆さんに「よくやった」と褒められたことだけは確かに覚えている。



「白瀬さん、ちょっといいかしら」


 そして今、あれからトラブルを上手く処理して戻ってきた広澄さんに呼ばれている。


「何でしょうか…」

「今日のこと、課長から聞いたわ。ありがとう」


 私は広澄さんの目を見ることができなかった。


「…いえ、とんでもないです」

「本当はすぐに駆けつけたかったんだけどね」

「その気持ちだけで嬉しいです。…それより広澄さんこそ、トラブルの解決お疲れ様でした」

「優しいのね。ありがとう」


 いつものように微笑んでくれる。普段ならその顔を見て喜んでいたと思う。広澄さんにまた認められた、と心の中で踊っている頃だろう。


 でも、今はそんな気分になれなかった。

 無理やり笑顔を顔に浮かべて、席に戻ろうとする。何かを察したのか、広澄さんは急に立ち上がり、私の腕をとって強引に引っ張った。


「ちょっとついてきなさい」

「えっ、広澄さん!?」


 連れられて入ったのは、以前私のことを呼び出したあの応接室だった。彼女はここを愛用しているらしい。


 今回は椅子に座るように促され、近くにあった椅子に座る。机を挟んで、ではなくて、広澄さんの膝と私の膝がコツンと向き合うような距離だった。


「契約、中止にされなかったのは、本当に白瀬さんのおかげだと思うの」

「…ありがとうございます」

「嬉しくない?」


 嬉しいと言うよりも怖い。会社の闇を覗き見てしまったんだから。


「嬉しいです」


 感情が乗っていないのは、誰が聞いても分かってしまうだろう。それでも、取り繕う余裕が無かった。


「…嬉しそうに見えないわ。どうしてそんなに浮かない顔をしているのか、教えてくれない?」


 最後の声が、優しく包むような問いかけで、うるっと涙が出そうになってしまった。


「なんでも、ないんです…」


 口を割らない私を見て、広澄さんは私の頭を撫でた。


「もしかして、なんだけど…あの社長さんに何かされた?」


 何も答えられなかった。

 逆に否定をしない姿を見せたら、何かされたんだと分かってしまうのに。


 そんな私を見て、広澄さんはあやす様にゆっくりと言葉を紡ぐ。


「教えて欲しいの。もし、白瀬さんに何かあったのなら、私は上司としてあなたを守らなければならないわ」


 そう言われて、心強いと思った。

 しかし、広澄さんもあのような接待をして いたかもしれない、と思うと上手く口から出てこない。喉につっかえて、言っていいものかと何度も自分に問いかける。


 それでも、大丈夫だと言わんばかりの彼女の強い眼差しにハッとした。


「広澄さんも、あんなことが…あったんですか?」

「あんなこと?」


 聞き返すその顔は険しかった。そして、その次に聞こえた言葉で、私は先ほどのことが鮮明に呼び起こされた。


「もしかして、触られた?」


 思わず俯いてしまう。こんな顔、広澄さんには見せられない。


 返事はしなかったけれど、私の反応を見て広澄さんは理解したのだと思う。


「怖かったわよね」


 そう言いながら、いつの間にか私は広澄さんに抱きしめられていた。


「言っておくけど、私は誰にもそういうことはさせないわ」

「え、だって…」

「きっと、騙されたのよ。私がしていると言えば、従うだろうって」


 そんな……

 それに、私は疑うことなく、広澄さんはしていたんだ、なんて決めつけてしまったことが恥ずかしくなってきた。同時に申し訳なさが募る。


「どこ、触られたの?」


 私の背中をさすりながらそんなことを聞いてくる。


「ここ?」


 背中に回していた手を徐々に横にずらし、脇腹、太腿、へと滑らせる。


 私は小さく頷くと、広澄さんの背中に手を回した。キュッと彼女の服を掴む。あの社長に触られているときは、嫌悪感しか湧き上がらなかったけれど、今は違う。優しく確かめるような手つきに胸の疼きを感じていた。広澄さんに触られたところがやけに熱い。


 今、何を思って彼女は私に触っているのだろう。


 ただの確認のため?

 ただ私が可哀想に思えるから?

 落ち着かせようとしてくれているの?

それとも、これは弄ぶうちのひとつに入っているんですか?


 そう考え出したら止まらなくて、私はギュッと手のひらに力を込めたあと、広澄さんから離れた。


「…ありがとうございます。ご心配おかけしました」

「本当に大丈夫?」


 私の顔をのぞき込むようにして、彼女の顔が近づく。ドクンと心臓が縮んだ。


「も、もう大丈夫です。かなり落ち着きました」

「…そう」


 私の言葉に納得していないようだったけれど、特に言及することはしなかった。


「今度何かあったら、絶対に私に報告すること、良いわね?」

「はい、そうさせて頂きます」

「今回はこちらで処理しておくわ」

「ありがとうございます。…失礼します」



 扉を閉める直前、少しだけ悲しそうな表情をしていたのを、私は見逃さなかった。


 そして今、思う。

 この前の飲み会の帰り道、彼女が私を家まで送らせなかった理由が、わかった気がする。


 きっと、情けない自分の姿を見られたくなかったからだ。今回の件に関して、私が悪いわけじゃないのは分かっている。だけど、心のどこかで、そういう雰囲気にさせた私が、最後の最後まで断りきれなかった私が、全て悪いんじゃないかと感じてしまうのだ。


 広澄さんもあの時、こんな気持ちだったんじゃないかと思う。


 彼女の気持ちを少し知ることができたのに、私の心は晴れないままだった。

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