第6話

 自分の鼓動がドクドクと身体に響いてくる。


 誰がこんな状況を想像できただろう。

 あの広澄さんとふたりでトイレの中に入っている。居酒屋のトイレだから、個室はひとつしかない。洗面台があるから少し広い造りになっているけど、ここにふたりで入っているのは普通におかしい。そして私自身、彼女との距離感に耐えられなくなってきていることをじんわりと感じていた。


 やけにうるさいのだ、心臓が。


 彼女をひとめ見れば、たちまち踊るように心が動く。彼女とひとこと話をすれば、口から心臓が飛び出る勢いで脈打つ。彼女が誰かと話す度に気になるし、彼女が誰かを触る度に心がもやっとする。彼女は私だけを見ればいい、なんて思ってしまったことすらあるのだ。まずいことはわかっている。このまま突き進んでも明るい未来など待ってはいない。分かっている、分かっているんだ。


「私、もう行きますね」


 一旦落ち着く時間が欲しかった。だからこう言ったのに、広澄さんは動く気配を見せなかった。今回は逃がさないつもりらしい。


「もう少し…話さない?」


 いつも彼女は私の反応を見て言葉を紡ぐ。今は行けると判断したみたいだ。私には違いが分からない。きっと、彼女の中には自分で決めた明確なルールがあるのだろう。


 何も言えずにいると、彼女は追い打ちをかけるようにして言う。


「だめ…かな?」


 こんな誘いを断れるわけがない。きっと誰だって無理だ。でも、すんなりと承諾するわけにもいかなかった。だって、簡単な女だと思われたくないから。

 もうこれは意地だ。プライドだ。彼女に優位に立たれてばかりでは何も出来ない、進まない。だから、口から出たのは今できる最大限の強がりの言葉。


「どうしてそんなに私と話したがるんですか?」


 少しだけぶっきらぼうに放ったそれを、彼女は優しく包み込むようにして微笑んだ。


「だってすごく気になるんだもの、白瀬さんのこと」


 あくまでも“気になる”存在だ。恋とか愛とかそういうのではない。でも、今の私には…気になる存在になっているという事実だけで、嬉しかった。


「ここに来る前、話せなかったじゃない?」


 彼女は私が逃げ出したときの話を掘り返そうとしているんだと察する。


「いきなり走って行っちゃうから、寂しかったのよ」

「それは…広澄さんが、変なことを言うからですよ」

「変なこと言ったかしら?」

「いや、変なこと…したじゃないですか」

「したかしら?」


 自覚が無いのが一番厄介だ。


「どんな変なこと、してた?」

「え?」

「私にしてみて」


 頬を撫でて下の名前で呼んで欲しい、と言え、という命令だろうか。いや…ちょっと待って欲しい。そんなことできるはずがない。


「広澄さんって変人ですよね」

「…どういうこと?」

「だって、私が変なことされたって言ったのに、それを自分で体験してみるだなんて、 変ですよ」

「そう?私は単に、自分がどんな変なことをしたのか気になっただけなんだけど」


 本当は分かっているくせに。


「もう、そろそろ戻りましょうよ。皆さんが待ってますから」

「まだ話し足りないわ」

「じゅうぶん話しましたよ」

「まだ足りないの」


 少しだけ強い口調になって、駄々をこね始めた。それ、ただかわいいだけ…


「じゃあこのあと、別の場所で話してくれたら、許してあげる」

「…いや、だめですよ。広澄さんが急に抜けたら他の皆さんが寂しそうにしますから」

「そう?今日の主役がいなくなったら、お開きになると思うわ」

「意図的にお開きにしようとしてますね」

「だってつまらないじゃない」


 楽しんでいたように見えた彼女も、実はそうでもなかったみたい。


「楽しそうに見えましたけどね」

「私のことよく見てるのね?」

「あ…いや、」

「ふふっ、冗談よ」


 彼女の冗談はいつも図星だからか、心臓に悪い。


「白瀬さんがそばに来てくれたら、もっと楽しくなったかも」

「またそうやって…」

「あら、今のは冗談じゃないわよ」

「…分かりましたから。こんなに長い間席を外していると怪しまれるので、もう戻りますよ」

「ここまで来たらもう一緒よ」


 何を言っても返ってくる。帰すつもりなんてないんだろう。


「いや、怪しまれますよ」

「どうして?」

「だって、こんな所に二人で入っていたら…」

「いかがわしいことを中でしてるんじゃないかって?」


 いかがわしいこと…

 彼女が言葉にすると、それはなんだかえっちく聞こえてしまう。こんな密室でいかがわしいこと、だなんて想像するだけで変な気分になってしまった。

 運が悪かったのか、私の潜在的な本能なのか、ちょうど視線の先には、彼女の唇が存在を主張していた。


 酔っ払っているせいだと思いたい。どうしてこんなことを考えているのか、私自身よく分かっていない。頭の中で思わず広澄さんと唇を合わせている場面を想像してしまったのだ。


 絶対柔らかいだろうな…その唇。


「…想像しちゃった?」

「っ、!」


 私の視線でばれてしまったらしい。

 なにやってんだ。野蛮な野郎みたいに唇を見つめてどうするんだよ…!


 やばい。このままだとまた彼女のペースに飲み込まれてしまうと思い、ふいっと顔を横に背けた。目を合わせたらダメだ。今度こそ波にのまれないようにしないと。


 しかし、人間というものは思うようにいかない生き物だ。考えたくもないのに、先程のぷっくりと膨らんだ魅力的な唇が頭をちらつく。落ち着け、落ち着け…何も考えるな。


 必死に自分に語りかけて落ち着かせようとしたのに、次のひとことで一気にそれが吹き飛ぶ。


「じゃあ、答え合わせしてみる?」


 あぁ…もう。本当に何を言っているんだ、この人は。


「ちょっと、何を言って…」


 言葉をいい切る前に、そっと顎に手を添えられて、くいっと顔が正面を向く。


「白瀬さんとだったら、キス…してもいいかな」


 彼女は酔っている。そうだ、だからこんなに変なことを言うんだ。


 広澄さんと、キス?付き合ってもないのに?

 いやいやいや、どう考えてもおかしい。彼女はおかしいことしか言わない。


 …でも、少しだけなら。ほんの少しだけなら。この流れに身を任せてしまってもいいんじゃない、と欲望が顔を出す。

 正直なところ、そこにいる美人な広澄さんと…キス、してみたくないこともない。キスをしてしまったら、彼女はどんな顔をするんだろう、どんな風に私を見るんだろう…という邪悪な好奇心が押し寄せる。


 もし、ここで顔を近づけてしまったら。

 本当にキスをしようとしたら。

 彼女は本当に私とキスをするんだろうか…


 そんな好奇心が理性をやや上回ってしまった。ゆっくり、ゆっくりと彼女の方に近づいていく。動いているのか分からないくらいのスピードで。


 少しずつ近づいていく距離を変に意識してしまって、ごくりとまた喉がなる。

 そしてその瞬間、


「ごめんなさい、あまりにも反応が可愛いからいじめすぎちゃったわね」


 彼女の方から初めてひいた。


 …そう、これが彼女の答えだ。

 一生誰とも交わらない。

 誰のものにもならない。


 私がそんな彼女の例外であるはずが無かった。

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