第3話

 昼休憩が終わると、私は大久保さんから仕事を割り当てられた。仕事と言っても、既に完成している資料と未完成の頃の資料を提示してもらい、それを見比べてどのように仕上げていくのかを学ぶようなもので、本来の仕事とは少し違うものである。

 しかし、今後の指針を示してくれるととても有難いし、先輩方が仕上げたものを見る機会なんてそうそうないだろうから、しっかり吸収しないと。そう意気込んで作業を開始する。

 いざ取り組んでみると、想像以上に奥深くて、色々なことを考えたり学びながら整理することができた。

 作業に没頭していると、私は周りが見えなくなることがある。ずっと前から直したいとは思っていたが、今回もそのせいあってか、誰かの声がするまで周りの様子に気が付かなかった。


「お疲れ様です、ただいま戻りました」


 そのひと声で、空気が色めきたつ。


「広澄さんお疲れ様ですっ!」

「どうでした?」

「無事、サイン頂けました」

「おお〜!」

「さすがです」

「広澄さんだから心配なんていらなかったけど、本当に良かったですね」

「いやー、広澄よくやった」


 目の前で繰り広げられる歓喜の舞についていけない。ひとりの女性が契約をとってきた、という場面だろうけれど、肝心の女性は皆の陰に隠れて見ることが出来ない。


「白瀬ちゃん、あれがうちの係長の葵さんよ」


 美波さんがそう教えてくれるけど、残念ながらこちらからは見えないのだ。


「あぁ、お昼の時の。あの方、凄く皆さんから信頼されてるんですね」

「そうよ、今まで契約とれなかったことないんだから。本当に凄いわよね。憧れちゃう」


 女性でこんなにも信頼されている人は珍しい気がする。女性で働く人は増えてきているものの、未だに差別意識が拭えないのが現状だ。そんな中でもしっかりと自分を貫いて成果を出しているんだから、本当に素晴らしい人なんだと思う。


「あ、挨拶…」

「そうじゃん、いってらっしゃい」


 小さく手を振り、笑顔で送り出してくれた。歓喜の舞は落ち着いたようで、係長の葵さんという方は自分の席に着こうとしている所だった。


「あ、あのっ」


 その言葉に女性は振り向く。


「……あ、」

「あら、あの時の」


 そう、目の前にいたのは以前私に親切なことに絆創膏を貼ってくれた人だった。


「以前は大変お世話になりましたっ!おかげで無事に完治しております!」


 予想外の出会いに動揺してしまい、わけも分からない事を早口で捲し立ててしまった。しかも勢いよくお辞儀をするものだから、目の前の机に頭をゴツンとぶつける。


「ったぁ…」

「ふふっ、相変わらずなのね」

「う、、すみません…」

「ほら、顔上げて」


 額をさすりながら顔をあげると、すぐ目の前に彼女の顔が現れた。


「っ!?」

「ほら、赤くなってるじゃない」


 彼女の手が私の額にのびる。ぶつけた所を優しく撫でる仕草があまりにも妖艶で、縛られたように動けなくなった。さらにふわりと香るフローラルの匂いで頭がくらくらする。


「ふふっ、耳真っ赤よ」


 耳元で優しく囁かれる。さらりと耳の縁を撫でられ、ゾクゾクと背筋に電流が通り抜けた。


 …やることなすことが、上級者すぎる。

圧倒的な余裕と美の暴力でタコ殴りにされた気分だ。


「広澄葵です。よろしくね、白瀬悠さん」


 いたずらな笑みを浮かべる彼女は、想像しているよりも遥かに人を翻弄するのが好きだった。


 席に戻ると、庄司さんに声をかけられる。


「顔赤いですけど大丈夫っすか?」


 ニヤニヤした顔でそう尋ねられる。


「もう、あんなに軽い人だなんて知らなかったですよ」

「いやー、でも絵になってましたよ」

「なってません」

「あれ、新入社員みんなやられてますから、儀式みたいなもんすよ」

「みんなにやってるんですか!?」

「いや、まあ…だから、みんな異動をしたくなるの分かるっすよね」

「わかんないですよ!」


 どきどきしたのが馬鹿らしくなってくる。ただ弄ばれているだけなのに、それでも先程の出来事が頭の中を何度も何度も駆け巡る。

何であんなにパーソナルスペースが狭いのよ…


 あぁ、なんて心臓に悪い上司なんだ。


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