第15話 ブライアンゼ伯爵家②


 けれどくるだろう痛みはまだ届かず。

 恐る恐る目を開けると、父の手をしっかりと掴んだ誰か。広い背中に綺麗な白銀の髪が流れ、ああ、今日は祭服ではないんだなあ、なんて。振り返る黒曜石の瞳が痛ましげに揺れるのを見れば、こちらの胸が痛んでしまいそうだ。


「イーライ、神官様……?」

「レキシー様、お怪我を……」

 その言葉に思わず首を捻る。

 怪我? 怪我ならエルタが私を庇ってしている。

 腕の中のエルタを見ると、父に蹴られた時、私も掠ったようだ。腕にある擦り傷を隠しつつ私は改めて今の状況に辺りを見回した。


 ──しかし何故イーライ神官がここに?

 

 不思議に思っている間にマリーと執事がエルタを回収して、部屋の端に逃げていった。確かにエルタの具合をこれ以上悪くしたくはないけれど。

 腕の中にあった重みが無くなった事で、途端に心細さを覚えてしまう。


「おい、痛いぞ、お前は誰だ! レキシー! こいつを離させろ!!」

 ──あ、いけない。それどころじゃなかった。

「イ、イーライ神官様、どうか父を離して下さい」

 私も立ち上がろうとしたものの、意外にもショックだったようで、動けない。


 仕方がないので眼差しで訴えれば、イーライ神官は捻り上げていた父の手を離し、ぽいと放った。それを受けるように母が慌てて駆け寄る。


「レキシー様」

 そう言って跪くイーライ神官の目は優しくて、でも悲しそうで。こんな場に巻き込んでしまい、申し訳ない気持ちが込み上げた。


「イーラ──……」

「──まったく、お姉様ったらお客様の前で一体何をしているのかしら? はしたない。」

 急に横から飛んできた無遠慮な声に室内の空気が凍りつく。


 振り返ればハンカチを口元に当て、顔を顰めるビビアが扉の向こうに佇んでいる。……またノックもせず、と言いたいところではあるが、どうやらイーライ神官が飛び込んできた時のまま、扉が開けっ放しだったようなので口を噤んでおく。


「ねえ、イーライ様? お庭を見に行きません? それともお茶がいいかしら? 実は私、先程領地から戻ったばかりですの。出来ればゆっくり過ごしたいわ」

「……」

 そう言って手を差し出すビビアに誰もが奇異の目を向けた。父たちでさえも。

 

 先程父がイーライ神官に捻り上げられているところを、ビビアも目にしたのではないだろうか。そうでなくとも、両親どちらも蹲り、怒りと怯えで身を寄せ合う姿は尋常ではないというのに……


 けれど険しい眼差しでビビアの手を見つめていたイーライ神官は、それで我に返ったように父に向き合った。……多分、非常識を目の当たりにしたせいで、冷静になられたのだと思う。


「──突然の乱入、失礼致します。私はセセラナ教において神官職を勤めるイーライと申します。旧友であるレキシー様がお困りのようで、分別も弁えず飛び出してしまいました。誠に申し訳ありませんでした」


「……何、神官?」

 驚きに目を見開く父に、私は急いで口を開く。

「お父様、イーライ神官様はラッセラード男爵の弟君です。その、我が家の事について相談に乗って貰っていました」


「弟……」

 神職に臨む者は平民出身者が多い。

 いくら神官が神殿において高位の階位を表すとはいえ、それで血統主義の父の態度が軟化するとは思えない。

 実を言うならこの人たちにイーライ神官を紹介するのも嫌だったけれど……ここまできたら仕方がない。イーライ神官を守る事を優先しよう。

「……そうか」

 

 ……ん?

 頭でも打ったのだろうか。

 急に大人しくなった父に首を傾げていると、ビビアがぱんと手を叩いた。


「なあんだ、お姉様ったら。つまり私とイーライ様に結婚して欲しいって事なのね? フェンリー様に別の婚約者を用意して……そういう事だったのね?」

 にっこり微笑むビビアに、ぽかんと口を開けてしまう。

「それなら話は早いですわ、イーライ様、お互いの親睦を深める為にも、早速庭でお茶を致しましょう──」

「……駄目よ!」

 イーライ神官に手を伸ばすビビアに、気が付けば私は叫んでいた。


 イーライ神官を巻き込んで申し訳無いからとか、家族の醜態をこれ以上晒したく無いとか、そんな綺麗事ではない事情で身体が勝手に動いて。気付けば私はイーライ神官とビビアの間に割って入っていた。


「……なあに、お姉様」

「レキシー様……?」

 けれどイーライ神官の躊躇うような声に我に返る。

 ……私は咄嗟の事とは言え、私はイーライ神官にビビアに触れて欲しくないと思ってしまった。

 イーライ神官は私の家族について、多少なりとも知っている。ならそんな家族を慮って、ビビアの手を取るのでは無いだろうかと。そう思ってしまって、でもそれは……


 私はそれを嫌だと思った。それを見るくらいなら、自分が打たれてる方がずっとましだ。


 とは思うものの──

 この行動をどう説明づけよう。気持ちが先に立ってしまったせいか、上手い言い訳が浮かばない。

「えっと、あの……」

 

 本心を剥き出しにした自分の行動に視線を彷徨わせていると、驚きに目を見開いていたビビアは我慢していたものを吐き出すように、思い切り吹き出した。


「いやだお姉様ったら! イーライ様の事が好きなのね!」

「……っ!」

 全く以て図星な指摘に私の顔は一気に熱くなる。

 対してビビアは、それで冷静にでもなったように、ふっと息を吐くような笑みを零した。


「……恥ずかしい、みっともない。お姉様はおいくつですか? 出戻りで、子も成せなかったあなたに貴族女性としての価値なんて何も無いというのに──ねえ、イーライ様、ご存知でした? 申し訳ありません、お姉様は容姿といい縁談といい、どうやら生来恵まれない質でして。ですからこうして夢見がちになってしまったのです。お気を悪くされたらごめんなさい。妹として謝罪しますわ」


 にっこりと笑いカーテシーをとるビビアに怒りとも悲しみとも言えない感情が込み上げた。


 容姿を褒めて欲しいとは言わないけれど、進んで笑って欲しいとも思わない。

 確かに手の届かないものに憧れてはきたけれど……


 節目で枝分かれした道を選んできたのは自分で、そうして育んだ自分を笑う事も嘆く事も、許されるのは私だけの筈だ──


 それを、何もせず、ただ笑ってそこにいればいいのだと、優しさと思いやりに囲まれ育ったあなたに何が分かるのか。


 震える私を無視し、イーライ神官に近づこうとするビビアに、私は手を振り上げた。

「きゃっ!」

 けれどイーライ神官が私の手を止めビビアを庇う。

 はっと目を覚ました私は自分の咄嗟の行動を思い出し、再び身体を震わせた。

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