ムカカヨウ

あん彩句

ムカカヨウ


 羨ましい、というこの感情に、最上級を表現できるような意味を持つ言葉があるのだとしたら、私の心の中を占めているのはまさにそれなんだと思う。


 そんな建設的ななにかを生みそうもないモノに占拠されてしまって、涙すら出てこなくて、胸焼けみたいなモヤモヤを抱えたまま机に突っ伏した。



 こんな日に、なんで学校にいるんだろう。


 例えば、窓際の席で真っ青な空を眺められたら少しは気が逸れるのかもしれない。


 例えば、一番後ろの席でみんなの後頭部を眺めてたら、一人じゃないんだなってちょっとは安心したのかもしれない。


 例えば、例えば、全部をやり直したとして、私はこの——やめよう。建設的どころか自分を追い詰めるだけだから。


 はあ、とため息を吐くのは近くの人に悪い気がして飲み込んだ。こんな呪いのような息が触れたら不幸になりそうだもの。



「ナツ」


 左頬を机の上に付けたまま、私と窓の間にいる邪魔な夏目に声をかけた。黒板を見ていた夏目は、視線だけを動かして私の呼びかけに応える。


「今日だけ席、変わって」


「席?」


 夏目が目をぱちくりさせて、そのせいでまつ毛に引っかかった前髪が動いた。それを鬱陶しそうにシャーペンで払う——邪魔なら切ればいいのに。





「私に青空だけを見せてちょうだい」


「なんだそれ」


 夏目が眉を寄せる。


「俺を視野に入れたくないってことかよ」


 むくれた夏目にちょっと笑って、それから空気をいっぱい吸ったけど、やっぱり吐き出すのはやめておく。


 肺を満杯にして息を止めた私と目の位置を合わせるように首を傾げて、夏目が目を細めた。


「なんか嫌なことでもあった?」


「……」


 どうしよう、話してしまおうか。


 夏目なら、無表情で聞いてくれる。


 そして、聴き終わった後に、「ふーん」とか、「へえ」とか言って窓の外を眺め、「今日はいい天気だからな」なんて言ってくれるかもしれない。


 でも、私がそれを声にできない。


 ここで号泣でもしてしまったら、困るのは夏目だ。



 仲良しの女の子の同中だというその子は、初めて会った時から気が合った。綺麗な子で、なのにサバサバして、今ではよく連絡も取る。


 その子が付き合うことになった、と昨日、それは嬉しそうに話してくれた。



 彼が私の好きな人だったということを、その子は知らない。



 元々その子に彼を紹介したのは私だ。同じ学校だけど、でも話したことはなくて、仲良くなったのはバイトがきっかけだった。


 まさかのまさか、素で鳶に油揚げ、をやられてしまった。




 おかしなことに、夏目と長いこと見つめ合ってしまってから、私はようやく口を開いた。




「……特になにも」


 こんなに黙り込んだ後にそう言ったって、なんにも説得力はない。


 夏目はなんだか苦虫を潰したような顔をして、納得していないくせに、それでも「あっそ」とつまらなそうに呟いてシャーペンをくるくる回した。


 つっかえることなく回るシャーペンを眺めていたら、ちょっとだけため息が出て、そうしたら驚いたことに自嘲するような息が鼻から漏れた。


 堰を切ったように、恨みがましく自分自身を呪うような声が脳内を占拠する。


 そして、冷めた私がひとりごちる。



 ばかだなぁ、私。


 青い空が見えたところで、いったいなにが変わるっていうの。


 ふふっと、無意識に私は笑ったんだと思う。



 ピタリと、シャーペンが止まった。


 夏目はそれを机の上に放り投げ、ポケットをごそごそやったかと思ったら、引っ張り出してきた小さなタオルを私の顔の上に乗せた。


 私が驚く間もなく、視界が遮られてしまった。


 ほんのりと漂う花と果物が混ざり合うような甘い香り。


 その甘い香りに相反するような、冷たい舌打ちがしたのは気のせいだろうか。


 間髪入れずに夏目が吐き捨てるように呟いた。





 「あいつか」





 そうだった、夏目は知っている。


 いつだったか、私が先輩と話しているのを目撃され、後々「鼻の下がだらしなくなってたぞ」と言われたんだった。あの夏目の顔ときたら、私のことをちょっと軽蔑さえしてたかもしれない。


 それでも今の夏目は優しい。


 私の目は瞬きしたら大洪水になってしまったかもしれないほど涙が溜まっていて、視界は歪んで見えていた。


 小さなタオルが光を遮って、そして溢れる前に涙をスッと消してくれた。



 ため息はやっぱりやめよう。


 肺にいっぱい空気を吸って、ぎゅっと口を結ぶ。



「洗って返します」


「いいよ」


「鼻水ついたかも」


「……いいよ」


「いいの?」


 あはははと笑ってタオルを取ったら、不機嫌に頬杖をついた夏目と目が合った。夏目はタオルを貸してくれた優しさとは程遠い苛立った舌打ちをした。


「泣いてないのかよ」


「泣いてほしいの?」


「ああ、泣け泣け。そんで鼻水垂らしてしゃくりあげて、俺のタオルで拭いたら新しいのを買って返せ」


「さっきはいいって言ったのに」


「気が変わった」


「ずいぶん早く変わる『気』だなぁ」


「お前もそうだといいけどな」


 そんなこと言われると、ちょっと挫けるじゃないか。


 睨むと、夏目はふっと目を細めて微笑んだ。




 無言になると、急に先生の声が響く。


 だけど、耳障りにぼわんぼわん響く銅鑼のようでシャットアウトしたくなる。


 いったいなんの授業だったっけ?


 そういえば、朝からぼーっとして、教科書すらまともに出していなかった。あとでノートを借りなくちゃいけない。


 夏目はダメだ。さっきからシャーペンを回すだけで、まともにノートはとっていないから。



「ねえ」


「……」


「無視?」


「……俺?」


「他に誰かいると思う?」


「俺はねえって名前じゃないし」


「さっきから話してるのに、今更そんな屁理屈を言っちゃう? 本気で?」


「いいから早く鼻水垂らしてそれで拭けよ。悪いけど、席は変わらないからな」


「悪いと思うなら、変われよ」


 机に左頬を乗せたままの私に、頬杖をついた夏目は冷めた目を向ける。



 この席になってから、かれこれ1ヶ月は経つだろうか。夏目とは去年も同じクラスで、やたらと席が近くになるような気がする。


 新学期の初めは名前の順で斜め前だったし、なんだかんだで一番よく話す男子だ。だけど、ポケットに小さなタオルを入れているような人だとは今日初めて知った。


 そんな意外な一面を見せた人に見下ろされ、その視線から逃れようともせずなすがままに無言を貫いた。





 知っていると思い込んでいて、実は知らないことは予想よりも多い。


 私は先輩の日課表は完璧に暗記していたけど、先輩の好きな教科とか、これまでの恋愛遍歴とか、誰と仲が良いとかそういうことはあまりよくわかっていなかったかもしれない。



 そういえば、私のことは名字を呼び捨てるくせに、あの子のことは下の名前でちゃんを付けた。


 そういう細かいことを気にしないから、こんなことになる。


 仲が良い、楽しくおしゃべりできる、なんて、未来を期待する理由になんかならないんだ。


 そう思い知ったところで、それがなんになるんだろう。


 それはもう、とっくにわかっている。


 なんにもならない。




 ようやくむっくりと起き上がると、手を伸ばして隣の机から蛍光マーカーを盗んだ。そして、右手に持つと念を込める。


「私もそれ、習得する」


 視線を夏目の右手にやってそう言うと、夏目はフンとバカにしたように笑った。


「小学生か」


「だってできないもん」


「回せたところでいいことは別にないけど」


「……わかってるけど、さあ」



 なにか別のことを考えようって思っただけじゃないの。


 知らぬ間に尖っていた口が自分の視界に入って口元をおさえた。


 あはは、と夏目が笑う。


「お前、今日ヒマ?」




 そう聞かれた私の顔には、きっと、なんで急にどうしたと、疑問符がいっぱい浮かんでいたんだろう。


 夏目は鬱陶しそうな前髪の向こうから目を細めて私を見ていて、ちょっと下唇を噛んで白い歯が見えた、と思ったらまた口を開いた。



「そろそろ、『ただの隣の席のやつ』から昇格したいと思って」



 それを聞いて、内臓がキュッと絞られるような奇妙な感覚の後、耳が燃えるように熱くなった。


 頬も高揚して赤くなったはず。


 だけど、ふと思い出したことがあって急激にその熱は冷めた。


 まるで瞬間冷凍のように、さっと私の感情を凍らせる。




 夏目は知っているんだろうか。


 私の一番の仲良しの子が、「邪魔だ」と夏目に面倒臭そうに言ってもらうために、頻繁に夏目の席に座っていることを。


 用もないのに私を訪れ、夏目をなんとか会話に引き入れてその声を聞こうとしていることを。


 ……夏目は、知っているんだろうか。




 私にただじっと見つめられることに耐えられなくなった夏目は、シャーペンを持った右手で顔を隠し、小さな声で「なんか言え」と唸った。


 奥歯が軋んで、耳が痛くなりそうだった。先生の声がまた銅鑼になってぼわんぼわんぼわんぼわん響く。


 心配に震える目が私をじっと見据える。




 なんと答えるのが正解なのか、今の私にはわからなかった。


 きっとなにもかもが麻痺しておかしくなっている。


 どう答えても誰かを傷つけるのかもしれない。


 素直に言うならば、夏目の言葉の方が真っ青な空よりも私の気を逸らしてくれていた。



 それでも私は鳶になれない。


 なにも知らないわけじゃない。私はあの子の気持ちを知っている。



 それなのに。



「ナツ」


 声をかけると、困った顔をした夏目が私を見返した。


「そんな顔するなよ。でもさっきのは取り消さないけどな」



 目を伏せたと思ったらさっきまでの表情を一変し、強い意志を持った瞳が私へと向いた。


 弱った私には強すぎる瞳だった。



 夏目の気持ちは嬉しい。ここで呆けたことを言うのはあまりにも間抜けすぎるとわかってる。


 でも、私はそんなに簡単に大好きな友人を裏切れない。


 なにしろ、そうなってしまった時に味わうあの子の気持ちを今、味わっているのは私だ。



 「それで、今日はヒマなのかよ?」



 私を見つめるその瞳に吸い込まれないように気をつけながら、自分の気持ちが不安定に揺らめいていることすら強引に心の奥へとねじ込んだ。



 そして、心地いいものを壊すだろう返答を口にする。



 自分を守る、それを——。






[ ムカカヨウ 完 ]



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