第217話 52日目①ドーピング切れの朝

 目覚めたら隣に美岬がいなかった。寝床であるテントの中はすでに普段の起きる時間よりもずっと明るい。これは、どうやら俺が寝過ごした感じか。

 むくりと寝床から身を起こした直後、テントの出入り口が開き、すでに身だしなみを整え終えている美岬が入ってくる。


「ガクちゃーん、そろそろ起きた方が……あ、起きたね」


「……おう。おはよう。すまん寝過ごした。今は……え、マジか。もう8時近いじゃないか。起こしてくれればよかったのに」


「あはは。いやー、昨晩はだいぶ無理させちゃった自覚はあるからちゃんと休ませてあげたいなと思って。身体の調子はどう?」


 決まり悪そうに笑う美岬。昨晩は結局、食事や風呂や雑事を終わらせて寝る前にも美岬にねだられてもう一回してしまったからな。さすがに俺も精根尽き果てて寝落ちしてしまって泥のように眠って今に至る。


「んー……しっかり寝たから体力は回復してるけど、まだ微妙にだるさはあるな。この感じは、エナジードリンクの効果が切れた時の倦怠感に似てる」


「あたしはエナドリ系は飲んだことないけど、そんなに効くの?」


「俺も仕事の繁忙期ぐらいにしか飲んでなかったけど、もうひと踏ん張りしたい時にはけっこう効くぞ。特に効果が切れた時に露骨に感じる倦怠感が確かに効果があったんだなーって実感させてくれるな」


「……それ、今かなりしんどいってことなんじゃ?」


「いや、まあ確かに怠さはあるけど活動に支障が出るほどじゃないから問題ないよ。……さすがに絞り尽くされた感はあるから今はたんけどな。ガガイモ効果が切れたからなんだろうけど、みさちの方は身体に異常はないか?」


「んー、そうだねー。あたしにはガクちゃんみたいな自覚するほどの怠さとかはないかな。むしろ絶好調みたいな」


「……これが若さか」


「若さ……かなぁ? 普通に男と女の違い、与えるガクちゃんと受け取るあたしでは負担度がガクちゃんに偏ってるだけだと思うんだけど」


「……まあとにかくだ。ガガイモにはかなり強めの精力剤としての効果があるのは間違いないな。だが、鰻やスッポンやニンニクみたいに栄養が強すぎてスタミナが上がる系じゃなくて、無理やり奮い起たせるドーピングに近い感じだから効果が切れたら一気に疲れが出るんだろうな。俺の体感としてはこんなところだが、みさちの知的好奇心は満たされたか?」


 美岬が苦笑気味に頷く。


「十分だよ。ご協力感謝。……だけど、ちょっと想定してたより効果が強すぎてあまり身体によくなさそうだよね。あたしとしては普段から食べるのはやめた方がいいかなーって思ってるよ」


「それは俺も同感だ。倦怠期に夫婦生活のスパイスとしてたまに使うならありだが、今の俺たちにはまだいらんだろ。正直、毎回あれでは身体がもたない」


「だね。あたしもあれは……あれは、ちょっとないかな。思い出すだけで恥ずかしくて穴に埋まりたくなるよ。ということでガガイモを食用にするのはしばらく控えるという方向で。……あ、簡単にだけど朝ごはんもうできるからね」


 そう言い残してテントから出ていく美岬。ガガイモの件でだいぶやらかした自覚があるようで今朝はずいぶんとしおらしい。でも、朝食まで作ってくれているというのは正直嬉しい。

 多少の身体の怠さは、起きたら愛妻が朝食を作ってくれていたという嬉しいシチュエーションへのワクワクで吹き飛んだ。俺は急いで衣服を身につけて乱れた寝床を片付け、洗濯物を小脇に抱えてテントから出た。


 朝霧が木々の間を漂い、湿気を含んでしっとりとした朝独特の空気。木々の発する爽やかな香りにかまどの煙の匂いが混じる……キャンプ地の朝の匂いとしか表現のしようのない清涼感のある空気の中で大きく深呼吸をすれば、一気に目が覚めて身体が活動モードに切り替わるのを感じる。


 林の中の仮拠点。そのブルーシートの屋根の下、かまどでは火が赤々と燃え、掛けられている2つの鍋からは蒸気が立ち上っている。片方はスープでもう片方はハトムギ茶っぽいな。お玉でスープ鍋をかき混ぜていた美岬が振り返って柔らかく笑う。


「あとはこのスープだけだから。お風呂の残り湯は灰を混ぜてアルカリ液にしてあるから、その洗濯物だけ漬け置いて先に朝ごはんにしよ?」


「おっけ。じゃあこの汚れ物の漬け置きだけしてくる」


 その足で風呂小屋に向かい、すでに美岬の洗濯物が漬け置いてある木灰入りの風呂の残り湯に俺が持ってきた追加の洗濯物を沈め、隣の湯沸かし釜のぬるま湯で顔を洗ってさっぱりする。



 仮拠点に戻れば、キャンプテーブルの上には焼き魚と縄文クッキー、海鮮とモヤシの炒め物といったメニューがすでに並んでいる。思っていたよりちゃんと作ってあるな。この様子だとずいぶん前から動いていたようだ。


「すごいな。なかなか気合いの入った食事じゃないか。旨そうだ」


「えへへ。冷蔵庫にあったスズキの切り身を少し使っちゃったけどよかったかな?」


「もちろん。そもそも元はと言えば塩焼きが食べたくて釣ったんだし。……色々ありすぎて完全に後回しになってたけど」


「あはは。色々ありすぎたよねぇ……」


 美岬と二人で思わず遠い目になる。


 そう。元はと言えば、塩焼きが食べたくて串焼きに手頃な30㌢ぐらいのセイゴを釣ろうと夜釣りに行ったのが始まりだった。セイゴはスズキの仔魚だが、その日はセイゴは釣れず、代わりというか上位互換の巨大なスズキが釣れてしまった。

 しかし浜まで引き上げて針を外した一瞬の隙をついて逃げられてしまい、その逃げたスズキを捕獲して届けてくれたのが単身で偵察に来ていたプレシオサウルスの群れの長のノアだった。その時にノアと半分ずつ分けあったスズキの半身の一部がこれというわけだ。

 翌日、ノアが群れを率いてこの箱庭に移住してきたのでノアの群れノアズアーク全員に魚を振る舞って名付けをして、ゴマフを群れに返した。

 その後、美岬によるガガイモの人体実験の被験者となり、家作りを夕方までしたものの、その後、美岬共々ガガイモの媚薬効果によって発情して散々さかってしまったその翌朝が今だ。


「思い返してみれば、たった1日と少しの出来事とは思えないほどの密度だよな」


「だね。特に最近は家作りの準備のために素材集めをメインでしてたから同じようなルーチンワークで生活自体は落ち着いてたし。……家作りを始めたあたりから時間の流れが一気に加速した感あるよね」


「それなー。イベントが重なってるよな。ノアたちも来たし、しばらくは賑やかで忙しい毎日になるだろうな」


「ふふ。まあこういうのも嫌いじゃないけどね」


「そうだな。やることが多いのはそれはそれで楽しいからな」


「あ、ガクちゃん、スープこれでいいかな? 味見してくれる? お出汁はガクちゃんが昨晩から水に浸けてた煮干しのやつをそのまま使ったけど」


「おう。どれどれ」


 美岬がお玉で掬ったスープを味見してみる。煮干しの出汁をベースにカメノテと海藻と塩麹の旨味がバランスよく混ざっていて旨い。


「……うん。これは旨い。みさちも料理上手くなったな。味付けの塩麹の塩梅あんばいが絶妙だ。スープの具は……カメノテとワカメとミツカドネギか。具材同士の相性もいいし、複合出汁の相乗効果で味わい深くなってて文句なしだ」


「わーい! 先生、あざーす! 誉められちった」


「旨味の概念をちゃんと理解できてるのがよく分かるスープだ。出汁は料理の土台だからここをちゃんと押さえておけばそうそうメシマズにはならないからな。これでみさちも料理下手というか料理初心者は脱却だな」


「えへへ。ガクちゃんの英才教育の賜物だね。普段からプロの味付けを間近で見させてもらって、味見もさせてもらってるからね。お手本がすぐそばにあるって大事だね」


「確かに見て学ぶのは大事だけど、それは生徒側に観察力と向上心があって初めて成り立つものだからな。みさちが真剣に学んだ結果だよ。さあ、せっかくの料理が冷める前にいだたこう。もうすっかり腹ペコだ」


「そうだね。食べよ食べよ」


 完成したスープを器によそい、テーブルに運び、向かい合って座って手を合わせる。


「「いただきます」」










【作者コメント】

 作者も身体がしんどい時はエナドリのお世話になっております。今回もちょっと体調崩してたので大変お世話になりました。本当に限界越えてる時はなにやっても無駄なので睡眠一択ですが、多少の無理ならエナドリのドーピングで乗り切れます。ただ、そうやって無理した場合、効果が切れた時の疲労感はすごいことになるので最終手段ですが。

 エナドリも色々試してみた結果、作者は富永食品のサバイバーに落ち着きました。最初は見た目と名前に牽かれてのジャケ買いでしたが、安い割に味も良く、即効性高めなのでお気に入りです。

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