第203話 51日目③這い寄る海竜
朝食後、林の仮拠点から小川沿いの林道を通り、葦の群生地から砂浜に出た俺たちは、昨晩遭遇した大きなプレシオサウルスのノアが、おそらく一族と思われるプレシオサウルスの群れを率いてこの箱庭の内湾にすでに来ていることを知った。
ちょうど今が満潮のピークぐらいだから、深夜から早朝にかけての満ち潮の海流に乗って入って来たのだろう。
プレシオサウルスたちは干潮時でも干上がらないそれなりに水深のある辺りで群れ全体が一塊になってゆったりと浮上航行していたが、俺たちが砂浜に姿を見せるとノアが一声鳴き、全員が一斉に鎌首をこちらに向け、ノアを先頭にまっすぐにこちらに向かってきた。これはあれか、出待ちってことか。
「いやいやいやいや! ちょっと待って! ちょっと待って!」
美岬がパニック状態で一歩、二歩と
完全にビビっている美岬の前に立ち、ノアが近づいて来るのを待つ。普段なら俺たちが砂浜に現れたら大声で啼いて“出せ出せアピール”をするゴマフも今日は異常事態を察してか静かに柵の中からこちらの様子を窺っている。うん。普段は野性味ゼロのうちの子にも最低限の警戒心はあるようでちょっと安心した。
人間が手入れしている浜は砂がある程度除去されているが、全くの手付かずの浜の場合、波で打ち寄せた砂が堆積して天然の防波堤である砂丘が形成されていることが多い。
ここの場合は波が弱いので打ち寄せる砂は多くないが、それでも非常に永い年月をかけて少しずつ砂が堆積し、砂丘とまではいかないが、波打ち際から砂浜の上までは傾斜がかなりきつい坂になっている。およそ5㍍につき高さが1㍍変わるぐらいだ。
昨夜は波打ち際のあたりでノアと接触したが、林から出てきたばかりの今の俺たちは坂の上にいる。水位が最大まで上がっている満潮の今でも、波打ち際から10㍍ぐらい離れているこの場所は海面より2㍍ぐらい高台にある。
俺たちは普段からこの砂の坂を歩いて海と陸を行き来しているし、ゴマフはまだ小さくて身体も軽いから自力で坂の上まで登れるが、成体のプレシオサウルスが俺たちのいるところまで急斜面の坂を登ってくることは簡単ではないだろうし、無理に登ってきたところで水中とは違って自由に動くことはできず、致命的な隙を晒け出すことになるから、危険に敏感な野生動物なら、そのような無謀な行動はしないと思う。
「美岬、深呼吸して落ち着け。ここは波打ち際よりもずっと高台にあるし、前肢後肢共にパドル状のヒレになっているプレシオサウルスはワニみたいに陸上に駆け上がってくることはできないから、ここにいれば
「あ! そっか。そうだよね! はー、いきなり近づいてくるから焦ったぁ」
「そらこの状況では焦るわな。ただ……ノアはいったいどういうつもりなのかな」
明らかにこの群れのボスであるノアが何を目的として群れを引き連れてここに来たのかが今はまだ分からない。そもそも、その目的を俺たちが理解できるぐらいの意志疎通ができるのかもまだ分からない。いくら賢いといってもコミュニケーション手段が全然違うわけだし。……いやほんとにどうするんだ? この状況。
ただひとつ言えることは、俺としてはこの群れと敵対する気はないから、可能な限り穏便にコミュニケーション手段を確立させて意思の疎通ができるようにしたい。
ゴマフはいずれ群れに帰したいと思っていたから、その群れが向こうから来てくれたのは探す手間が省けてありがたいし、そもそも俺たち人間ではゴマフにプレシオサウルスとしての生き方を教えることはできないから、ゴマフが成長しきる前に他のプレシオサウルスたちと交流できるのは願ったり叶ったりだ。
群れがゴマフを迎えに来たというならそれはそれでいいし、今回はゴマフとの顔合わせのために来ただけでこれから定期的に通ってくれるというならそれもまたよしだ。
ゴマフがいなくなったら美岬は寂しがるだろうけど、それは最初から予定していたことだから仕方ない。
そんなことを考えているうちに群れは波打ち際から10㍍ぐらいのところで停止した。地形の傾斜は浜より緩やかになるが、波打ち際から海中まで続いているから、群れがいるあたりの水深は60~80㌢ぐらいだと思う。成体のプレシオサウルスが水中で自由に動ける限界だろう。これ以上陸に近づけば腹部が砂に接するようになって動きが鈍るだろうから、そこで停止するのは想定内だ。
だが、意外なことにそこからノアだけが群れから離れてなおも陸に近づいてきた。
腹が完全に底に着いて泳げなくなったらヒレの力でその巨体を引っ張りながら波打ち際を越えて砂浜に這い上がり、そこで立ち止まらず、俺たちに向かって砂の斜面を一生懸命に登って近づいてきた。
案の定、身体が重いからゴマフのようにヒレの力で胴体を浮かせることはできず、腹を引きずりながらだから予想通りかなり動きは遅く隙だらけだ。
そんなノアの様子を、群れの全員が鳴き声一つ立てずにじっと見守っている。
ノアほどの巨体でこの坂を這い上がるのはやはり大変なのだろう。鼻息荒く、時々休みながらも一生懸命に登ってくるノアからは敵対的な感じは一切せず、昨晩のシーバスを俺たちに返して反応を待っていたあの時と同じく、友好関係を築きたいという明確な意図が感じ取れた。
「どう思う? 俺の目にはノアが群れを代表して俺たちに何か伝えようとしているように見えるんだが」
「うん。わざわざ自分に不利な陸地に上がって、一生懸命に坂を登ってるこの姿を見たら疑うのも馬鹿らしい気がしてきたね。少なくともノアはあたしたちを信頼してくれてるように思えるよ」
「……そうだな。ノアが俺たちを信頼してくれているなら、信頼に応えなきゃな。美岬はこれを持ってここにいてくれ。俺がノアと接触してみる」
持っていた槍を美岬に預けようとすると美岬が顔色を変える。
「そんな! ガクちゃん! あたしも一緒に!」
首を横に負って美岬の手に槍を握らせ、その額にそっとキスする。
「いや、これはこれからあの群れと俺たちが上手くやっていけるかを見極めるための試金石、いわば群れの長同士の腹を割った交渉だ。ノアは波打ち際で待っていてもよかったのに単独で不利な陸にまで上がるまで譲歩してくれたんだから、俺も1人でノアに対応しないと、もしかすると向こうの群れに舐められるようになるかもしれない。だから、美岬はあの群れと同じように見届けるための証人としてここにいてほしい」
「…………うー、わかった」
俺の言いたいことは理解できたが感情的に納得できていない表情でしぶしぶ頷いた美岬の頭に手を置いて軽く撫でる。
「いい子だ。では、行ってくる」
振り替えってノアを見れば、すでに坂の半ばに達している。俺は両手を広げて害意が無いことをアピールしながらゆっくりの動きを意識しつつ坂を下ってノアに近づいていった。俺が近づいて来るのを見てノアもその場で動きを止める。
明るい朝の光の中でノアに近づき、改めてその姿を見ればやはり大きく迫力があり、その力強い野性的な美しさに畏怖の念さえ覚える。近づいて初めて気づいたが、体表には無数に戦いの傷痕が残っており、これまでのノアの生涯が波乱万丈であったことを裏付けていた。
細身のウミガメの胴体にニシキヘビの首をくっつけたようなシルエット。太古の日本の海に棲息していた首長竜フタバスズキリュウは北米のエラスモサウルスと同系統で胴体よりもずっと長い首が特徴だが、ノアとその一族の首はそこまで長くなく、胴体の長さとほぼ同じぐらいだ。
首が短めだから攻撃できる範囲はエラスモサウルス系に比べれば狭いだろうが、その分水中での抵抗は少なく小回りは利きそうだから機動力を活かして戦うタイプだろうと思う。
背中の色は青みがかった緑色でこれはゴマフの母親と同じだが、見回してみれば他のプレシオサウルスたちは黒っぽいものや赤みがかったものなど意外とカラーバリエーションが豊富であることに気付く。血縁関係で変わるのか、環境によって変わるのかは分からないが、もし血縁関係で変わるなら、ゴマフの母親はノアの子供だった可能性もあるな。
顔立ちはウミガメに似ているが、くちばしではなくイルカのような小さく尖った歯が並んでいるのでどちらかといえばイグアナに近い。俺をじっと見つめる目は大きく黒目がちなのでこんなに大きいのに愛嬌がある。
頭の長さは30㌢ぐらいなので身体の大きさからするとだいぶ小さいが、この賢さからすると脳はかなり大きいだろう。ノアと同じぐらいのサイズのワニなら頭だけで2㍍近くあるが脳はちょこっとしか入っておらずほぼ本能だけで生きているが、ノアは明らかに自分で考えて決定して行動している。海の霊長類と考えても差し支えないだろう。だからこそ信頼関係を築けると思う。
俺はついにノアとの距離3㍍以内に入った。ノアがその気になれば俺に噛みつき攻撃ができる間合いの内だ。だが、ノアは攻撃してこないと俺は確信している。それでもすさまじく緊張して心臓は割れそうなほどに早鐘を打っているが。
ゆっくり一歩ずつノアに近づき、2㍍を切ったところで、ノアが思いにもよらない想定外の行動に出た。
「…………っ!?」
【作者コメント】
今回はここまで。楽しんでいただけましたら応援よろしくです。
これまであとがきで作者のプライベートな近況なども書いたりしてましたが、作品の内容と直接関係ないものについては今後はカクヨムなら近況ノート、なろうなら活動報告に記載させていただきます。作品更新のタイミングでそちらも更新したいと思っておりますのでよかったらそちらもどうぞ。
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