第199話 50日目⑪ノア
あたしたちが取り逃がしたスズキを捕まえた大きなプレシオサウルスは砂浜にいるあたしたちに近づいてきて、スズキをあたしたちの前に置き、自分は少し下がってあたしたちの反応を待つような仕草を見せた。
「え? 返してくれるの?」
あまりにも意外な対応に驚いていると、ガクちゃんがその名を口のする。
「ノア……なのか?」
その名を聞いた瞬間、大きなプレシオサウルスは前ヒレで水をパチャパチャと叩き始め、ご機嫌な時のゴマフと同じように喉を鳴らし始めた。
「クルルルルル……」
「え? 本当に徳助大叔父さんのノートに書いてあったノアなの? 20年も前のことなのに……プレシオサウルスってそんなに長く生きるんだ」
「まぁ、カメなんかでも100年以上生きる奴はいるから不思議ではないけどな。だがこいつがノアで、今も徳助氏のことを覚えているというなら、俺たちとも友好関係を築ける可能性はあるな。美岬、俺は今からあいつから意識を外して隙だらけになるから、ちょっと様子を注意して見ててくれ」
「あ、うん。でも何するの?」
「せっかく返してはもらったけど、歯形が付いている部分は衛生的に俺たちの食用にはできないからな。だったらいっそ傷ついた部分を切り落としてノアにやろうと思うんだ。食べ物を分け合う行為は野生動物にとっては友好の証だからな」
そう言いながらガクちゃんはあたしに石槍を渡してきて、そのままサバイバルナイフを抜いてスズキの前にしゃがむ。歯形は頭と首の付け根のあたりにあるので、ガクちゃんはスズキを胴の真ん中辺りから頭側と尾側に切り分けはじめた。
「……あたしたちの取り分が食べやすい尾の身ってズルくない?」
「いやいや、それは人間の価値観だ。野生動物にとっては獲物の内臓はご馳走だぞ。ノアからすれば内臓付きの方が上等の部位なはずだ。……逆に俺たちは食べやすい尾の身の方が嬉しいからWinWinだけどな」
そういうものかぁ。確かにゴマフも普通に丸呑みだし、そもそも身と内臓を別にするという選択肢が存在しなかったね。
ガクちゃんがスズキを切り分けているのを横目に見つつ、ノアの様子にも注意を払っていたけど、今の隙だらけのガクちゃんに襲いかかろうとするような素振りは見せず、喉を鳴らしながら待っている。……これはガクちゃんがこれから何をしようとしてるのかちゃんと理解している気がするね。
ちなみにゴマフはこの間ずっと、少し離れた焚き火のそばから動かずに静かにこちらの様子を窺っている。まだ危険度が分からない相手に対して不用意に近づいてこない分別があって助かった。
「よし。こんなもんだろ」
ガクちゃんが右手にサバイバルナイフを握ったまま、左手にスズキの頭側の半分を提げて波打ち際に近づいていく。あたしも内心ハラハラしながら付いていく。
「ノア、これはお前の取り分だ」
「クルル」
ガクちゃんがスズキの半分を近づいてきたノアに向けて投げる。数㍍先にバシャッと飛沫を上げて着水したそれにノアが首を伸ばして拾い上げ、バリバリと何度か噛んで骨を砕いてから呑み込んでいく。
「おお、あの骨を噛み砕くとはけっこう噛む力は強いな」
「あんな大きいのを一呑みにできるんだね」
「蛇なんかも大きい獲物を丸呑みできるから喉の拡張性はけっこうあるんだろうな」
明らかに不自然なほど喉が膨らんでいるが、ノアは苦しそうな様子を見せず、長い首を伸縮させることで上手く喉の膨らみを
やがて完全に呑み込んだノアはクルルルと喉を鳴らしながらガクちゃんとあたし、そして焚き火のそばにいるゴマフを順にじっと見つめ、ゴマフに対して小さく鳴く。
「クワッ」
「キュッ?」
ゴマフの分かっているのか分かっていないのか判別できない返事を聞き、あたしたちの顔を再びじっと見てからノアはくるりと身を翻し、浮上したまま沖へと泳ぎ去って行く。星明かりに照らされるその姿はあの有名なネッシーの写真そのものだった。
やがて、ノアは外洋に繋がるトンネルの手前で水に潜り、姿を消した。そこまで見送ってから、あたしたちは揃って大きなため息と共に脱力してその場に座り込んでしまった。
「「はあぁぁぁ」」
少しの沈黙の後で、疲れきった声でガクちゃんが言う。
「……なんとか乗り切ったなー」
「……だねー。とりあえず、ファーストコンタクトは成功ってことでいいんじゃない?」
「そうだな。少なくともゴマフを誘拐した敵とまでは思われてないだろ」
「でも疲れたね。正直怖かったよ」
夜にあんな大きな海竜と至近距離で遭遇するとか怖すぎる。ずっと足がガクガク震えていた。
「確かに。全長で少なくとも6㍍はありそうだったし、すごい迫力だったな。結果的には平和的に接触できたけど、一つ間違えば問答無用で襲われてもおかしくない状況だったからな。……俺も怖かった」
すごく冷静に対応してるように見えてたけど、やっぱりガクちゃんも怖かったんだね。でもノアが最初に近づいてきた時もガクちゃんはあたしの手を引いて逃げてくれたし、その後もあたしを背後に庇ってくれていた。とっさの時にこそ人の本性が出るっていうけど、ガクちゃんは全然ブレなくて安心する。
「キュイ! キュイキュイ!」
いつの間にかそばに来ていたゴマフがあたしの背中に抱きついて肩越しに首を伸ばして顔に頬擦りしてくる。
「ゴマフもちゃんといい子にしててえらかったねぇ」
喉を掻いてやるとクルルルとご機嫌で喉を鳴らしてなおも甘えてくる。そうしているとガクちゃんがズボンについた砂をぱんぱん払いながら立ち上がる。
「…………さて、いつまでもこうしてるわけにもいかんな。釣った魚の処理をして、風呂にも入らなきゃな。みさち、俺が魚の処理をしている間に風呂を沸かしておいてもらえるか? なんなら先に入ってもいいぞ」
「おまかせられ。でもお風呂は一緒に入りたいかな。……SAN値の回復には旦那さまと一緒にお風呂に入るのが一番だと思うので」
「……おぅ、こんなに正しい意味でSAN値という言葉を使ってる人間を初めて見た」
「今使わずしていつ使うの? 本物の
「それなー。おっけ。じゃあ釣り道具を片付けて、さっさと魚の処理を終わらせるとするか」
「あたしもゴマフを囲いに戻してお風呂の準備をするね」
それから焚き火を消火して、釣り道具を砂浜の拠点に収納し、ゴマフを囲いに戻してから、真っ暗な林道にポツンポツンと灯る小さな炎を目印に仮拠点に帰った。
その後、ガクちゃんが釣ってきた魚の処理をしている間にあたしはお風呂を沸かし、ガクちゃんの作業が終わってから二人で一緒にゆっくりと風呂に浸かって一日の疲れを癒した。
でも、ノアとの遭遇は思った以上にあたしたちのSAN値を削っていたようで、身体の疲れは取れてもメンタル的には疲労が蓄積していて、二人ともイチャイチャするよりさっさと寝たいというのが正直なところだったから、その日は軽めのスキンシップだけで早々に眠りについたのだった。
◻️◻️◻️ノア視点◻️◻️◻️
昼間に若き戦士が見に行った洞窟の先、本能的な恐怖ゆえに今まで近づいたことがない場所、かつて自分にノアという名を付けてくれた友が
一緒に付いてこようとした若き戦士は群れの守りとして残し、日が沈んで潮目が変わろうとする頃合いを見計らって洞窟に進入した。若き戦士は先ほど満ち始めの潮流に逆らって戻ってくるのに苦労したようなので、満ち潮が終わる頃まで待っていたのだ。今から行けば、戻る頃には潮目が変わっているから引き潮の潮流に乗って楽に戻ってくることができる。
洞窟の中を泳ぎながら、かつての友に思いを馳せる。
友は定期的に遥か沖合いから恐ろしく足の速い
その後、満腹になった大きな生き物が眠りにつくと、友はいつも、おそらく大きな生き物の仔であろう
しかし、ある時いつものように洞窟の奥に向かった友はいくら待っても戻ってくることはなく、洞窟の外に残されていた大きな生き物もいつの間にか眠ったまま死んでいたようで息を吹き返すこともなく、しばらくそこを漂っていたがいつしか何処かへ流されていなくなっていた。
やはりこの洞窟の奥には恐ろしい敵がいて、友も喰われてしまったのだとその時は思っていた。しかし、若き戦士によれば、この先に一族の仔と共にかつての友に似た生き物が暮らしているという。ならば友はあの時、この先に営巣地を見出し、そこで繁殖したのかもしれない。
そこにいるのがかつての友自身なのか、その子孫である別の者なのか、友と同じく自分たちに友好的に接してくれるのか、それを確かめるのが群れの長である自分の為すべき務めだ。
そして洞窟を抜けた先で、かつての友ではないが友と似たような外見で、自分のノアという名を知っており、獲物を自分と分け合って友好的に接してくれる新たな友と出会った。
自分の目で見て確認し、知りたいことを知ることができ、腹も満たされて満足したので、自分を待つ群れに戻ることにした。
【作者コメント】
SAN値──元々は正気度を表すパラメーターでクトゥルフ神話を題材にしたTRPGに由来する。得体の知れない怪物などに遭遇してメンタルが削られて正気度がだんだん失われることを、SAN値が削られると表現する。現在では派生的な意味合いとして、オーバーワークなどでボロボロになっている状態を指す場合もある。
ということで作中の50日目はここまでとなります。物語的に重要な島の秘密が次第に明らかになっていき、第三部ノアズアーク編のキーパーソンともいえるプレシオサウルスの群れの長ノアがついに登場です。いかがだったでしょうか? 楽しんでいただけたら応援ボタンや★評価、作品フォローいただけると嬉しいです。
一日の終わりなのでリザルト回もなる早でまとめます!
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