第131話 13日目⑨おっさんはヨメの漁をサポートする

 一度浜に戻って素潜り漁の準備をする。実際に潜るのは美岬がやりたがっているので、俺は万が一に備えてのサポート役──ライフセーバーだな。

 夏とはいえここは水温が冷たいので、美岬にはウェットスーツ代わりにラッシュガードを着てもらい、入念に準備体操をさせる。

 腰に巻く重りウェイト足ヒレフィンもない全くの素潜りだと、自然に体が浮かび上がってしまうので、あまり深くは潜れない。その上、潜った後も体が浮かないように常に手と足で水を掻いていないといけないので血中の酸素もすぐに枯渇するので息も長くは止めていられない。

 だから一度のダイブはせいぜい2、3㍍ぐらいの深さの20~30秒程度のものになるはずだ。

 潜る前に上からあらかじめターゲットに狙いを定めておいてそこ目掛けて一気に潜り、獲物をひっ掴んですぐ浮上する、カワセミのようなスタイルだ。


 俺は万が一に備えて救命ロープを準備する。2㍑のペットボトルに水を¼程入れ、パラコードをボトルのネックにしっかりと結べば完成だ。

 ペットボトルはそのままだと軽すぎるので、少しだけ水を入れて重くすることで遠くまで投げれるようになる。

 たかが2㍑ペットボトルでも溺れている要救助者がそれに掴まり、顔を水から出して呼吸し続けられるぐらいの浮力はあるので、いざという時にはけっこう頼りになる。溺水者は大抵パニックになっているからペットボトルに掴まって浮かべているだけで気持ちを落ち着かせることができて、続く救助を冷静に待てるようになる。


 蛇足だが、溺水者を助けるにあたって絶対にやってはいけないことは、溺れてパニック状態にある人間に正面から近づくことだ。その状態の人間はまともに思考できない上に脳のリミッターが外れているので、火事場の馬鹿力で必死にしがみついてきてなんとか上によじ登ろうとするから、助けに来た人間が水中に引き摺り込まれて逆に溺れるという結果になりかねない。溺れた子供を助けようとした大人が逆に溺れ死ぬというニュースはちょくちょくあるがその原因のかなりの割合を占めるのがこれだ。

 溺れた人間を助ける場合は、後ろから捕まえるか、非情に思えるかもしれないが、ある程度水を飲んでぐったりと弱るのを待ってから助けるのが正しい。


 救命ロープに加えて、潜る美岬のサポートのために、建材として取り分けてあった長さ3㍍ほどの丸太も準備する。これを俺が岩場から海中に真っ直ぐに立てた状態で掴んで固定しておけば、美岬が潜る時にこれを手繰っていくことや、身体が浮かないように掴んでおくこともできる。


 準備を終えて再び岩場に行き、海面のすぐそばまで美岬が降りていく。上下ラッシュガードに両手両足を保護するために軍手と靴下を付け、紐に通したナイフをたすき掛けにして、逆さに潜っていくので鼻から水が入らないように不織布を固く丸めた鼻栓を詰め、小脇に獲物を入れるための浮き篭を抱えている。

 俺はすぐそばの岩場から海中に丸太を突き入れて先端を海底に少し刺した状態で手で掴んで固定し、その丸太に美岬が浮き篭を繋ぐ。


「あたしはいつでもいけるっすよ」


「よし。こっちもいいぞ。今、丸太の先が刺さってる海底が見えるな? その横の岩場に張り付いている肉まんサイズの海綿を狙ってみよう。両手で左右から挟んで持ち上げるように岩場から引き剥がすんだ。そんなに力はいらないはずだ」


「あれっすね。了解っす」


 美岬がすーはーと何回か口で大きく呼吸してから息を止め、ドブンと頭から水に飛び込んで、両手両足で水を掻いて一気に潜っていく。

 そして海底に着くと、俺が支える丸太に掴まって一旦体勢を調え、目的の海綿のある岩場にすぅっと泳いで近づき、海綿を両手で持って岩場から剥がして、そのまま海面に浮上してくる。


「….…っぷはっ! 海綿ゲットっす!」


「お見事。上から見てたけどスムーズに採ってたな」


 美岬が立ち泳ぎで浮き篭に採ったばかりの肉まんサイズの海綿を入れ、そのまま丸太に掴まって俺を見上げてにっと笑う。


「この丸太もあるのとないのではぜんぜん違うっすね。潜ってから体勢を調えるにも、浮いてる時に掴まるのにもすごく助かるっす」


「そうだろ。ウェイトなしだとすぐに身体が浮いちまうから、海底でこれに掴まって目標の位置を確認できるのは大きいよな」


「次々いくっすよ。次のターゲットはどこっすか?」


「今の岩場の反対側にも同じぐらいのやつが付いてるな」


「じゃあこのまま潜って確認して採ってくるっす」


 再び何度か深呼吸をしてから潜っていく美岬だが、今回は立ち泳ぎからの潜水なので先ほどのように飛び込んだ勢いを利用することはできない。それで、丸太を両手で掴んで手繰りながら海底に向けて進んでいく。

 やがて、目標を目視できたようで、丸太を蹴って飛び出しそうな素振りを見せたので衝撃に備えて丸太を掴む手に力を込める。


──どんっ


 鈍い衝撃が手に伝わると同時に美岬が岩場の方に飛び出していき、海綿をひっ掴んで浮上してくる。


「っぷはっ! 2個目ゲットっす!」


「いい感じだな。休憩はしなくて大丈夫か?」


「まだまだ余裕っす。むしろ今めっちゃ楽しいので続けたいっす」


「おけ。じゃあちょっと場所移動するからそのまま丸太に掴まっていてくれ」


「あいあい」


 丸太の先を海底から浮かせて、立てた状態をキープしたまま別の岩場近くまで移動して、再び丸太を海底の砂に刺す。


「あはは。引っ張ってもらうのは楽チンでいいっすね」


「はい、次のポイントに到着だ。今の美岬から見て左下の岩場にいいサイズの海綿がいくつか付いているぞ」


「あい了解っす。じゃあいっちょ行ってくるっす」


 さっきと同じように丸太を手繰りながら潜っていき、丸太を蹴って目標に近づき、首尾よく海綿を採って上がってくる美岬。しかし、海綿を浮き篭に入れるなり、たすき掛けにした紐の先に付いている愛用のナイフ『レンジャーグリップ78』を俺に差し出してくる。


「ガクさん! これのマイナスドライバーを大至急開いてほしいっす!」


「はいよ。俺も片手が塞がってるからちょっと待ってくれよ」


 美岬は軍手をはいているから自分では開けられないんだな。岩場にうつ伏せになって片手で丸太を掴んだまま、空いた手でナイフを受け取り、片手と歯を使ってなんとか折り畳んであるマイナスドライバーを開いて美岬に返す。


「あざっす! じゃ、もっかい行ってくるっす!」


 そのまま美岬はさっきの岩場まで潜っていき、上からはただの岩にしか見えないところでなにやら作業してると思いきや、岩の一部がパカッと剥がれ、それを掴んで浮上してくる。


「っぷはっ! やったっすよ! 見て見て!」


「うおっ! すごいの獲ってきたな」


 美岬が誇らしげに掲げているのは殻長20㌢以上は余裕でありそうな大きなアワビだった。そりゃあこんなの見つけたら獲るしかないよな。殻が周囲の岩にカムフラージュしているから上からは気づけなかったんだな。



 それから美岬は更に何度か潜水を繰り返し、最終的に海綿を5個、アワビを1個、そして近くの海底に刺さった状態で棲息していた大型の2枚貝であるタイラギ貝を1個獲ってこの日の素潜り漁を終えたのだった。










【作者コメント】

 タイラギ貝は知っている人は知っているでしょうが、知らない人の方が多いと思うので一応解説しておきましょう。

 タイラギ貝は日本で採れる食用二枚貝では最大のもので、殻長35㌢にもなります。イガイの仲間なので殻はムール貝と同じでハートを縦に半分に割ったような形をしています。

 ムール貝は足糸で岩にへばりついていますが、タイラギ貝は足糸を地面に潜らせて砂地に根を張ったような感じで、殻の尖った方を海底に刺して直立した状態で棲息しています。

 主な産地は有明海ですが、作者の地元の伊勢湾にも棲息しています。高級な寿司ネタとして重宝されていますが、まあそのあたりは次話で詳しく書きましょう。



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