第3話 父
父が主張先から一時帰途に就いた。 ちょうどその日、地震があった。太平洋側沿岸を津波がのみ込んだ。東京地方も地をかき混ぜるような今までにない縦にも横にも回転するような揺れを感じた。まだ春にならない夕方近い時だ。
父と幸助は、地震の速報をテレビで見ていた。祖母は何が起こったのかよくわからないようだった。
幸助たちはその後、休止された番組の代わりに津波の映像を見続けた。 祖母は、父がいるからなのかいつもより一生懸命になっていた。幸助たちがテレビに釘付けになっているのをよそにして「さあさあ」と声にしながら、張り切って料理を作りはじめた。彼はそれを見て、子供のころの元気な祖母を思い出した。
「祖母さん、俺に作る時と、アンタに作る時と全然違っちゃって笑っちゃうよ」
「普段なに作って貰ってるんだよ」
「大したもの作って貰ってないよ」
その日、久しぶりに祖母の美味い料理を食べた気がした。だがそれよりも、祖母があんまり張り切り過ぎていて、何だかいつもよりも無理をしているようにも見えた。 彼は食事を終えると、テレビに釘付けになっている父と話をした。
「職場に電話した方がいいんじゃないの?」
「ああな。あ、電話で思い出したけど、来週アイツのところに行くぞ?」
「アイツ? 孝道?」
「ああ」
父はそう言うとそのまま受話器を上げて番号を打った。
「アンタたち、ちょっと」
祖母は夕食の片づけを終えて、テレビを見ている彼らのところに来て言う。
「――私、調子が悪いわ」
「おい、幸助。祖母さん看とけ」
受話器にむかって手が離せない父は、構っていられないというような言い方だった。
「避難指示? ああ避難指示出したか――」
父はそんなようなことを電話相手に言っている。 彼は仕方なく祖母を便所に連れて行った。
老齢で足の上がらなくなった祖母はすり足で廊下をゆっくりと進んでいくが、彼は本当に体調が悪いのかわからずにいた。しかしトイレの前まで行くとそれ以上祖母は歩みを進められなくなっていた。
彼はしようもないのでトイレの前で祖母のズボンを脱がせた。
「祖母さん、臭いよ」
腐敗臭が彼の鼻を殴った。
「嫌ねえ」
祖母の顔を見るといつもの笑顔で壁に手をついて俯いている。
彼は祖母の脱いだ下着を見た。
「下痢だよ。下痢」
父は騒がしいのに気がついたのか、便所までやって来てこう言った。
「伯母さんに電話して、明日朝早く、病院に連れて行ってもらいなさい。俺は明日、赴任先に戻らないといけないから――」
彼は祖母に肩を貸して右のふくらはぎを掴んで上へ引っ張った。トイレの段差をどうにか超えさせて祖母を便座にようやく座らせることができた。
「祖母さん、そのまま待ってて」
彼はそれからすぐに伯母に電話した。伯母は父の姉である。明日という話をしたのだが、伯母はすぐに行くと言って電話を切った。
数分もしないうちに伯母は家を訪れ、すごい剣幕で父に言った。
「アンタ、大変よ。老人の下痢は命に関わるのよ」
「なに? そんなこと俺は知らなかったんだよ」
伯母はすぐに病院に電話した。祖母の熱をはかると38℃を超えていた。
祖母は家の車にすぐに乗せられて、病院へ向かった。医者の話を聞いて祖母はすぐに入院することになった。それはあっという間のことだった。
「祖母さん。病院は楽しいかい?」
「つまらないわ」
一週間経ってまた父は出張先から戻ってきていた。父は医者と話していたので、彼はひとりで祖母と向き合っていた。病院内はところどころで停電していたが、院内の発電機で医療機材だけは動いているようだった。病棟では患者のうめきや、荒い呼吸などが聞こえてくる。あの津波から院内の灯りは点かなくなかったため、その声は余計に気味の悪く、どことなく嫌な気分にさせられるところだった。老人たちが廊下の手すりに捕まりながらゆっくりと歩いて行ったり、医者がせわしなく廊下を駆けて行ったりするのだが、祖母のいる病室は大人しいものだった。向かいのベッドでは呼吸器をつけた老人がこちらを見つめて、ずっと苦しそうにしている。人間の汗の臭いと、はらわたが腐ったような臭いが、消毒液の匂いと混じって、息が詰まりそうな空間であった。
「調子は?」
彼は話しながら病床の脇に椅子を置いて座った。そして祖母の着替えのある箪笥に目をやっていた。
「まあまあだわね」
「今度、孝道のところに行くよ」
「あら、タカちゃん元気?」
「わからない――、わからないけど、」
祖母が孝道を心配そうに言うのを聞いて彼は狼狽した。それは何か忘れていたことを思い出した気がしたからだ。しかしそれがいったいどういうものだったのか、彼にはわからなかった。きっと祖母の言い方が孝道がまだ小さかった頃を連想させたからだろう。
幼少の頃、祖母はいつも彼に言っていた。
「タカちゃんならすぐにできるのよ。コウちゃんはどうしてできないのかしらねえ」
彼にはその憧れた孝道を今は悲しみの中でしか見ることができなかった。
「親父のところに連絡があったんだって」
「そう――」
彼は祖母の小さな返しと一緒に一息ついて、祖母の方に向き直った。
「母親ともめたらしいよ」
「いやねえ」
祖母は病院のベッドに横たわったまま天井を見ていた。
「お母さんは、――それで、どうしてるの?」 「さあ?」
この頃の母親とは一切音信不通だった。けれども彼にとって京子が何をしているのかというのはなんの問題にもならない関心のないことであった。
「タカちゃん、まだ馬やってるのかしら?」 「らしいよ」
引き籠もってからの孝道の趣味は競馬だった。家にいる間はずっとテレビで中継を見ていた。
「早く家に帰りたいわ」
「明後日出られるって」
「そう――?」
彼は数分祖母と簡単に話をして父と病院を出た。
「だけど太いなあ、祖母さん」
父は祖父が入院したときのことを話した。彼がまだ中学に上がったばかりのことだ。彼は祖父の最後の頃をあまり覚えていなかった。学校から帰ると、いつの間にか入院していた。その時祖母は〝こんなの世話できない〟と祖父の病床の前で言ったという。
「それで祖父さん気力なくして、可哀想に」
昔の人は生きがいがなければ人はただの人のように考えていたのかもしれない。ただ生きているだけというのは価値のないことなのだろうか――。
彼は父の運転する車の助手席で話をしていた。
「それが自分となると〝家帰せ、家帰せ〟だもんな」
「残酷だねえ。それより明日、孝道のところ行くの?」
「あ、ああ、行くぞ」
彼が孝道と会うのは3年以上も間を置いてのことだ。祖母と病院で話をしたとき、彼の心が揺れたのは、孝道が家を出たときのイメージが蘇るからにほかならなかった。
「――何だかアイツ、母親から手切れ金に二百万も貰ったって言ってるし」
「それ、俺の学費だろう?」
「そういうことになるんだろうな。母親が別居をはじめた時に、俺に突きつけた通帳なんて、スッカラカンだったからな――まぁ、何にしても駄目なんだろ、アイツら」
競馬は、高校に一年遅れであがってからも続いていた孝道の唯一の楽しみだった。しかしよくなかったのは、金をすってくるたびに荒れることだった。孝道が母の家事を責めはじめたのはこのころからだった。競馬をしながら孝道は荒んでいった。そのために京子はヒステリーを起こすようになった。京子は孝道を怖がってお金を渡した。それを彼は知っていたが、見て見ぬふりをしていた。そのころ彼は大学受験をひかえていた。頭の中で彼は自分のことの方が心配だった。しかし孝道が荒れて、京子がヒステリーを起こすたびに、彼は家のことに段々と引きずられていった。 そうしたことが続いて、父と京子は別居するようになった。
「お母さんは明日から家を出るって」
ある晩父がいきなりそう言ったのだ。その時彼は言いようのない怒りを覚えた。けれどもそれが孝道に対してなのか、京子に対してなのかはっきりとしないものだった。
そしてまたある日、祖母が彼を部屋まで呼んだ。彼は祖母の部屋まで行ってお菓子をもらった。
「久しぶりだね。干菓子なんて」
「そう――」
「祖父さんのでしょう」
「そう、仏さんもう要らないって――」
「じゃあ頂きます」
そのころまだ祖母は元気にしていて、自分で立ったり、歩いたりもしていたし、毎週通っていた医者に行くのも、買い物に行くのも、自分で生活のあれこれは全部出来ていた。
「タカちゃん、大丈夫?」
「知らない――」
祖母は気遣っていたのかわからない。孝道の話をしたがる祖母を軽くあしらって彼はその干菓子を食らった。黙っていると、祖母も何もできないふうにしていて、テレビに見入っていた。この時の彼にとって孝道の話は気が重かった。
孝道が学校へ行かなくなったことを、母親は幾度となく咎めた。しかし彼もそのことについては孝道を咎めたい気持ちでいっぱいだった。それは幼少のころの暴力と、他人を見下す態度と、祖父母が孝道をよく褒めていたことに対する嫌悪感から来るものだった。家族からずっと蔑ろにされてきたと彼はいつもそう思わざるを得なかった。それが、当たり前とも思える学校に通うという行為を兄は拒絶したのである。彼は更に憎悪を煮やし、なぜ兄ばかり許されるのか私はいったい何者なんだ。と、いつも自己否定に苛まれなければいけなかった。
孝道が登校拒否を続けたことで、京子は毎晩孝道と言い争うようになった。おそらく兄はその時兄ではなくなったのだ。学校からも拒絶され、家族からも、拒絶されたように感じたはずだ。
学校へ通うのをやめたあの頃、孝道を救済したのは祖父母だった。毎晩孝道は祖父母と食事をしていたし、学校側と示談したときも祖父母が孝道のそばで立ち会っていた。父もその時、どうにか孝道を高校まで上げたいと中学の校長に掛け合った。そして京子は「学校なんて行かなくてもいいんだ」と独自の理論を展開した。そのことがこのふたり孝道と京子の先の人生を歪めさせたのは間違いないことだった。親という子供にとって絶対的な存在が、片方で学校に通うことを勧め、もう片方で行く意味もないと言われたとき、子どもである孝道はどう思わなければいけなかっただろう。
引きこもる孝道に一番近い存在の京子がその歪んだ方針を押し付けられた孝道に責められたのは当たり前といえば当たり前だった。
そしてそれが孝道にとって京子を排除する方向を決定づけていた。
そして京子が孝道のもとから逃げ出して、家に全く寄らなくなってから、孝道は荒んだ精神を誰にもぶつけられなくなった。孝道はひとり喚くようになり、夜遅くまでひとり部屋に籠って時々暴れまわるようになった。
――なんだよ、なんなんだよ! ふざけるなよ!
孝道は家にいても何もせず、競馬の中継ばかりを見るか、時々、ぶつぶつと呟いたかと思うと、突然の旺盛に笑いだしたりして家の中を歩き回っていた。
――お前らのせいで、お前らのせいで。 と、くり返し言ったり、肩がこって仕方がないという口実で、風呂を何時間も占領した。
寝室でクローゼットを開けて衣類をしまっている彼と父がいた。
「あれをどうするつもりだ」
父は、仕事から帰ってもイライラしながら毎晩その話ばかりしていた。
「それを俺に聞くの――。」
彼は無責任な父親を隣に見て絶望を初めて感じた。
「それは俺がどうする問題じゃないでしょう? 孝道がああなったのは、俺のせいじゃないんだから」
彼も高校と予備校を行き来する中で、毎晩受け入れなければならないストレスを感じながら、なんの慰めにもならない話をされて苛立った。
「あんなの、どうにもならねえじゃねえか」
彼は父に何の考えもないことに唖然とした。信じられないという思いで、全身の毛が逆立つような焦燥を覚えた。
「どうにもならないって言ったって、しっかりやってないのはアナタたちでしょう? だいたい昔から孝道だつて俺のことなんか邪険にしてきたんだから、いまさら俺が何か言うなんてこと、できないよ」
「おまえ、冷たい奴だな。――あんな夜中まで起きて叫んでたら、近所迷惑じゃねえか」
「そういう問題じゃないでしょう――」
「そういう問題だ」
――近所迷惑、
彼は父の中で何度も発せられるその言葉をもう一度胸の内で繰り返した。しかし何度繰り返したとしても父の考えに彼は全く同調できなかった。このような粗暴な言い方で言うセリフとしてはひどくくだらない言葉だ。孝道の問題を近所迷惑だからという理由で解決できる訳がないのはわかっているはずであった。現にそうした口論は母親が出て行ってから孝道と何度も繰り返してきたことだ。
「孝道を黙らせるのは確かにそうだけど、孝道にそれをいってもわからないんだから意味無いでしょう。アンタがそうやって怒ってばかりいたらなんにもならないよ」
「俺が悪いって言うのか? アイツをああしたのは母親だろう。毎月毎月、勝手に通帳の金渡して――」
父は誰かに責任を押し付けたいのか、彼や京子を問題にした。彼は誰が悪いとかの宛もない話をされることが一番気分が悪かった。父が前に京子としたような責任のなすりつけ合いみたいな言い分を続けることで、その不毛さが孝道の問題をどうでもいいという気分へすりかえられた。そして彼はその不毛なやり取りをどこへ解決に持っていくべきなのかいつも迷わなければいけなかった。けれども父に何を言おうとも、それは父の考えに当てはまることとは違っていた。
「アイツを説得するのは俺からじゃ無理だよ。そういう話は母親としてくれよ」
「母親がアテになると思うか? 俺が孝道に言ってことだって全部否定して甘やかしてばかりきたんだぞ」
「どうせ怒りながらそういうこと言ってたんだしょう?」
「なに? どうしようもねえ奴らだ、アイツもお前も。あんなことしてたらそこらじゅうから白い目で見られるんだぞ」
結局父は自分が悪く言われるのを嫌っているだけだった。彼にはもう何もできなかった。たかみちに寄り添うのも彼の役目ではない。それを全うできない自分に余計な負荷をかけてくる父が情けなく見えたし、あまりに無責任な言い分を続けられて仕様もなかった。そして、彼は一つの結論を言う他なかった。
「明日があるのに、毎晩毎晩そんな話して、自分でどうにもできないんだったら、何で子どもなんて作ったんだよ。そんなに世間体のことが気になるの? 孝道をどうにかしなきゃいけないのに、それを問題にしてたってどうしようもないだろ――。今まで孝道自身のこと放っておいてああなったんだから、アンタらの育て方が間違いだったんだよ。 ――もう殺せよ。その方が早いよ。早く殺してなかったことにしちまえよ」
「バカ、黙れ。アイツに聞こえるだろう」
「関係ねえよ。先寝るから、黙ってくれよ」
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