第2話 母

 幸助は風呂上りに祖母を寝かそうとしてリビングへ向った。テーブルの席で祖母は日記をつけていた。 彼はそばに寄って記している内容をチラっと見た。

「見ないで」

 祖母は笑った顔をして言った。

 彼も笑って

「ごめん、ごめん」と言った。

 日記にはこうあった。

 ――きっと〝京子〟は帰ってくる。

 京子とは、家を出て行った彼の母親である。

 祖母と母親との険悪けんあくな仲を彼は父から聞かされて知っていたが、祖母のそうしたむき出しになった姿を、彼は日記をかいしてはじめて見たような気がした。


 母親は――、 意固地いこじな人だった。

 人に謝ったりしたことはなかった。孝道が高校にあがった時から母親と父は別居をしていた。彼と孝道の食事を作りに家に来てはいたが、あとは家には寄らなかった。 そして段々それも続かなくなっていった。母親は食事を作りにすら来なくなって、仕事が忙しいという理由で自分のことのほかは何もしなくなっていった。

 初めのうちは孝道と父との仲が上手くいっていないことを口実にしていた。それもたしかに事実だった。しかしそんなことは口実に過ぎない。京子にとって、もともと家はわずらわしかったといったほうが正しいだろう。

 彼は祖母との関係を直接京子の口から聞いたことはなかった。しかし彼は母親と父との仲が悪くなったのは、父が祖母と離れずにいようとしているからなのだと知っていた。京子は死んだ祖父がまだいた頃からこの2世帯を嫌がって仕方なかった――。

 ――けれども京子が家に来なくなった決定的な理由は、父と仲が悪かったからというわけではない。最終的に京子を家から追い出したのは孝道であった。

「家を出た人間が、何しに来てる」

 孝道は京子をそうとがめて、彼女が何をしていても罵声ばせいを浴びせていた。


 あの頃――、幸助はまだ高校生だった。学校から帰宅する際、彼は電車を利用していた。彼はこれから帰宅するということを考えるだけで、抑えきれない感情のために待ち時間はプラットホームをはしからはしへ歩いて考え事をした。ほかの人は目につかなかった。これから先、まるで頭に狂気きょうきかかえたつもりで、途方とほうに暮れた路を行かなければならなかった。彼のその狂気きょうきというのは家で聞く、陰惨いんさん台詞せりふの数々を思い出すためだった。

 電車が滑り込む瞬間しゅんかん騒音そうおんを聞いて、彼はハッとした。ヘッドライトがレールと並行へいこうにしかれたプラットホームのラインの奥で結ばれると、彼の心はそれに魅せられた。誰かのために警笛が鳴らされたのだとしたら、それは自分のためではなかっただろうか、と彼は思った。

 しかしその瞬間、また凄惨せいさんなあの言葉を思い出す。

 ――ふざけんなよ。

 それは苦痛の種であるはずなのに、我を忘れた時に不思議と彼の境遇を吹き飛ばす台詞せりふにも聞こえた。

 家に帰ればほこりだらけの部屋に兄がいて、ずっとリビングのテレビを占領している、昼間に録画ろくがした競馬の中継を見てホットカーペットの上でまるでブタのように寝ているのだ。京子は黙ったまま料理を作り、帰った彼には一言も話さない。何か物音を立てれば、兄がまた喚きだすからだ。帰宅するといつもこんなにピリピリとした関係を彼は目にしなければいけない。そうでなくとも兄は京子に対して嫌悪感けんおかんをムキ出しにする。

「飯はまだか」「いつまで時間をかけてるんだ」「こんなヘタなもの食えやしない」「あんなもの誰でも作れる」「バカにしやがって」「オマエがオレに何をしてくれた」「オマエなんかいてもいなくても変わらない」「ジャマだから消えろ」「オマエがここにいても無駄だ」「ロクに家にもいないクセに母親ズラしやがって」「ふざけんなよ」……

 彼はその罵声ばせいの中、ヘッドホンをかぶり、音楽でもいて外界でおこること全てをなかったことにしていた。あからさまに京子と孝道のふたりのあいだの事情が見えるが、どう関係するすべもない。口を出せば「テメエにはカンケーねえ」と喚かれるだけだ。なにかしようとすればそれも「うるせえ」といって孝道は咎める。家にいて、彼も京子も何ができるかといえば、孝道の機嫌きげんうかがいながらヒッソリと生活をすることのほか、プライベートはほぼ孝道の思うままに支配され、まるで飼い慣らされた奴隷のようにこの監守に監視されているのだという意識で、じっとしているまでだ。

 勤めに行って、日昼家にいない父親にはそれがわからない。父が帰ればどうせ京子は「なんとか言ってよ」というのだろうが、そんなことを説明もなしにいきなり言われたとして、父が何を理解するのだろう。父は頭ごなしに兄を責めはじめ、兄は「お前に何がわかってるって言うんだ!」と結局何にもならない口論が毎晩続く。父の要領を得ない言葉が彼をいつまでも嫌にさせた。揚句父が言うのは「――近所迷惑だ」とそれに尽きる。しかし、何が悪いのかと言えば本当のところは兄が悪い訳ではない。父にはこどものことが分からない。京子にはこどもをどうしてやればイイかわからない。こんなバカな親の相手をしていたら気が狂うのも当然である。兄は甘えたいという心が消えないだけだ。きっとあの時、学校の先生からもう来なくていいと言われた時、誰も助けてくれなかったという事実がトラウマとして孝道の中で延々と繰り返されている。そして幸助自身にもこの理解し難い状況のバカらしい家族関係をどうする気にもならない。何にしても家にいる時間がどれだけ彼にとって無駄だったか、それだけでも彼をイライラさせる。孝道の言うように食事はロクなものでない。食べられない料理が食卓にたくさん並ぶ。炒めきれていない半なまの野菜炒め、表面だけ焦げて中身の赤いハンバーグ、塩のふられていない焼き魚、醤油しょうゆ漬けの煮もの、出汁の入っていない味噌みそ汁――。何カ月も掃除されていないほこりだらけの部屋、ゴミ箱周りは異臭が漂い、流しには一週間の洗われていない食器が山積みになっている。風呂も3か月に一度しか洗われない。誰も湯船には入らずシャワーだけで日の疲れを取る。ウジの湧いた食器棚、照明周辺はコバエやが飛び回っている。そして彼は眠ろうにも眠れない。らちのあかない親子喧嘩けんかのあとは孝道が朝まで悪態を叫び続ける。「バカ」「何なんだよ」「殺すぞ」――まともに眠れる時間はない。彼は何度も夢の中で孝道を殺した。ときに京子がそうするように夢見た。彼にはこの異常な生活をどうにもできない親がバカらしく見えていたし、いまさら「家」や「世間体」などと父親がいうような理由でどうにか出来る話ではないこともわかりきっていた。それにもともと会話のない家族だったのだし。――


「男だらけの家で、好きなこと一つもできない」

 京子の最後の言葉はこんなものであった。そして京子は戻ってこなかった。 あの時父はこう言っていた。

「約束が違うじゃないか」

 父は母親を全うさせるため、京子に子供の世話を見させる代わりに別居を許したのだろう。

 ――しかし、それも拘束力もない口約束である。

 京子が家へ寄らなくなってからは各自で食事を作ることになった。孝道はもともと母親の食事は食えないと言って、自身で作って食べていたから、彼と父は孝道の好きにさせていた。彼も仕方がなく自分のことはすべて自分でするようにした。父は昔から仕事で帰るのが遅かった。だから父も自身で何かを買ってきたり作ったりして食べるようにしていた。 そんな生活が半年過ぎ、孝道は高校を出た。それからは孝道は何もしなくなった。中学のころのように家に籠って好きにしていた。


 彼は祖母を寝かせるために着替えを箪笥から出して、部屋着を脱がせ、寝間着を着せたていた。

「あの人は女を知らないのよ」

 祖母は突然彼にそう言った。

「フ、フ」 彼は思わず笑ってしまった。

 父のことを言っているのはすぐにわかった。

 彼は祖母に靴下を履かせているところだった。 祖母は少し待つように彼に言った。そしてベッドの横の引き出しから貼り薬を取り出して貼るように言う。 彼は貼り薬を手にしてから祖母に語りかけるように話した。

「母親は兄貴がうるさいからって、家を出たろ。だけどその前から家にほとんどいなくてさ。家を出る前は仕事してたけど、でも家と両立できない無理な仕事してさ」

 京子は福祉介護士の資格を取るために施設へ勤めていた。施設には室長がいて、京子とはあまり上手く行っていなかった。父は度々京子の相談にのっていたが、京子の言い分はいつも父を納得させられるものではなかった。つまり京子はいつもやりたくない仕事を室長に命じられてやりきれなくて困るといったことを父に話していた。

「契約外ならちゃんと話して、業務改善させるように」といつものセリフが夜遅くに聞こえる。孝道はそんな話の中でも、ひとり自分の部屋に籠もって「うるせえんだよ!」と喚いている。

 資格もない京子は、パートタイムで施設に雇われている身だった。父親の意に反して京子は相談を持ちかけるというより室長に文句言ったのだ。

「あの二人はよく似ている」

 父の決り文句のようなその台詞は孝道と京子のことを指している。京子はそのうちまともに仕事もできなくなり、職場に居づらくなった。

「契約外のしごとばかりさせられて、みんなで施設に訴え出る」

 というようなおそろしいことをよく話すようにもなった。さらに京子は職場の同僚らしき人らに電話をかけては勤めている施設のことを公にするなどと話していた。

 そして、最後は職場のワゴンで事故起こし、何もできずに仕事を辞めた 。

 彼はそのことを思い出しながら父は悪くないと考えていた。

 祖母はこの話を

「ぶっそうねえ」と言っていたが、京子は確かに極端な行動に出ることが多かった。

「それで、そのワゴンの弁償に保険使えば良いのに、勝手に家の貯金崩して使ったりして」

「あの人、私の面倒なんて、一度も看てくれなかったのにねえ」

「はっは」

 祖母は時々空とぼけたことを言うので、彼は声を出して笑うことができた。そして祖母は何も知らないような顔をして歯をむき出しにして笑った顔をする。 その笑い方は何かを思わせる笑いであったが、彼は気にせずに話を続けた。

「それで、だいぶ親父、怒ったんだよ」

「あんまり強く言っちゃあいけないのよ」

「でもそのことより、前からいろいろお金を使っていたらしくてね。どこまで浪費していたのかは知らないけど――」

「いやねえ」

「今の母親の生活費も、俺の学費とかに使うはずだった貯金をもっていったらしいんだ」

「…………」

「他にも、職場に向かう時に、家の車、ぶつけてね。廃棄にしちゃったりして。」

「へえ――」

 祖母はなんとも言えないというようになにもないところを眺めた。

「はい終わり」

 彼は貼り薬を祖母のやせ細ったふくらはぎに貼ってから、靴下を着せてから「おやすみ」 と言って自らの寝室へ向った。

 京子は昔から家事が得意ではなかった。ある時から孝道は母親にうるさく干渉されるたびに、不能だといって、彼女の不出来な家事を責めた。孝道は作ったご飯に文句ばかりをつけて、食わずに自分で作って食べていた。洗濯も母親がするのとは別で自分のものだけをするようになった。休日を家ですごす時は、京子がいること自体を邪魔だと言って、たびたび彼女に対して怒りをぶつけるようになっていた。 孝道にとっての母はとても母と呼べるような人ではなかったのだろう。京子は昔から家にはほとんどいなかった。それでも顔を合わせれば孝道はいろいろ咎めたり罵ったりしていた。 ――よく今まで。 彼はどうやってあのころを過ごしていたか、理解に苦しみながら眠った。

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