第1話 兄と友人

   ⁂


 幸助には孝道という兄がいた。

「おまえは、馬鹿なんだよ」

 それだけ言って、孝道は幼い幸助を激しく殴ることがあった。まだ小さくて言葉もよくわからない頃のことだ。畳の部屋の隅で柱に思いっきり頭を打ちつけられて泣いた。そしてそのまま畳に顔を強く押し付けられた。もがいてもあがいても4歳上の孝道の手は振りほどけなかった。もう死ぬのではないかと思うくらいの痛みが彼を泣かせていた。

 彼の昔の家は荒川からすぐのところにあった。マンション群の一角、3LDKの公団の借りる一軒を父の仕事の都合で間借りできていた。彼は父親も母親も仕事で保育園へと預けられていたが、生まれた頃から病弱で、母親はいつも彼の面倒のために仕事を休まなければいけなかった。しかし彼にとって母親が休みの日がいちばん良質な時間を過ごせた。保育園に行けば昼過ぎにはいつも体調を崩した。慢性的な鼻炎と喘息で風邪なのか持病なのかいつも判断がつかなかった。体がだるい気がするのはいつものことだった。彼は6畳の広さの部屋でゴロゴロしたりいつの間にか眠って過ごすということがとても気楽で良かった。

 しかしその6畳間で起きた出来事である。

 気づけば彼は訳もわからず孝道に、殴られたり、蹴られたりして青痣や単瘤つくった。母はそれを見ても、喧嘩けんかをとめるだけで、訳は訊かずに、放っておくだけであった。

 孝道は母の見えないところでも幸助を殴ることがあった。彼はいつも兄に嫌味いやみを言われて、殴られていたため、そのうち家にいることが怖くて仕方がなくなった。そして彼はどうして兄にたびたび殴られるのか、よくわからなかった。 彼は次第しだいに兄に対するうらみをつのらせた。物心ものごころついた頃には彼にとって兄は異常者の何者でもなかった。

 しかし幼少を過ぎたころ、幸助たち家族は荒川の団地を引き払って、武蔵野平野を望める多摩川の豊富な水で栄えた丘陵地域へ引っ越した。幸助も孝道も、ともに学校に通うようになると、彼に対する兄の異常な暴力はなくなった。

 孝道は学校に通ってもあまり友達はできないようであった。弟を訳も言わずに馬鹿といって殴っていたくらいだ。彼の兄は誰彼かまわず馬鹿と言って喧嘩けんかを吹っかけていた。 それから人よりも自分はすぐれていると思っていた。

 幸助が近所の友だちと遊んでいれば、孝道はこうとがめる。

〝あんなわがままとよく遊べる〟

 人が周りで楽しんでいても、兄は邪険じゃけんにする。理由はこれと言ってない。ただ単に自分本位の言葉だ。

 そのうち幸助にも近所で遊ぶ友達がいなくなった。それは兄の関係で彼の家に対する悪いうわさが近所に流れ始めたからだ。孝道はそんな幼少を過ごして、中学にあがった。それからしばらくして孝道は外に出なくなった。


 ある休日、祖母が昼食をとる幸助に話し始めた。

「池田ってタカちゃんのお友だち、鉛筆を手につきしたってはなし――」

 祖父母は昔から孝道のことを可愛がった。自分の息子の長男だったからと言うこともあるかもしれない。しかしあの事件以来、ずっと祖母にとって孝道はいつも関心事かんしんじであった。けれども彼は昔から祖父母には兄と比べられて嫌な思いしかしたことがなかった。そのためか彼は祖父母から兄の話を聞くと兄を悪く言うことばかりを考えた。

「タカちゃんが強要きょうようしたって言う話だけれど――」

 彼は中学のころの兄の人つきあいをよく知らなかった。友だちはほとんどいないらしくて、いつも遊んでいる友だちは一人か二人で、同じ人物だった。池田はその中でも一番性質たちの悪いつきあい方をしていた。

「——池田って、あの悪でしょう?」

「そう——」

「校内でたばこ吸ったり、学校のトイレで酒飲んだりしていたって」

 祖母は父が出て行ってから、兄の話ばかりしていた。

 一階の茶の間で彼は昼食をご馳走になっていた。けっして美味しいわけではない。けれどもないよりはずっとありがたいご飯だ。彼はそんな昼食を事務的に咀嚼そしゃくしながら祖母と話を合わせた。

「孝道が池田に嫌がらせしていたのは事実じゃない?」

「そう?」

 彼は実際に兄がそういうことをしていたのを見てた。けれども鉛筆をしたのは池田自身がやったことで、それを兄のせいにしたというのは、なにかしらいやらしい裏があるように思えた ――。

「でも手に鉛筆をしたのは、池田の勝手だった訳でしょう?」

「そう――。けれどね。タカちゃんその後にまわりから白い目で見られて、誰からも相手にされなくなったって」

 そのことは彼もよく知っていることだった。兄が学校に行かなくなったのも池田のその一件がうわさになったからだった。父がその頃、池田と兄の仲を良くない言い方でののしっていたことを彼はよく思い出すことがある。

 確かに兄が池田に鉛筆をすように強要きょうようしたのも本当のことだった。しかし池田が本当に鉛筆をすとは思っていなかっただろう。

 祖母は彼の前に座り、お茶を入れてからまた話を続けた。

「でもね。そんなことがあってからもタカちゃんはね。一度、登校したのよ?」

「うん」

「そうしたらあそこの中学の担任なんて言ったと思う? 〝無理して学校に来なくていいんだぞ〟って」

 彼は食事を止めて祖母の方を向いた。

「それははじめて聞いた」

「変な話でしょう? 先生が〝学校に来なくていい〟だなんて――」

 たかが鉛筆を手腕てうでした程度でそこまでの話になるのだろうか? 異常なのは池田の方で孝道はただそれを面白がっていただけではないだろうか。

 彼は祖母の話を耳にしつつ、その当時のことをさらに思い出していた。

 まだ小学校に通っていて、兄の不登校をあまり深刻には考えていなかった時のことだ。その日学校が終わって、帰宅の中途で、彼は池田に出会った。池田は彼の下校を待ち伏せしていたのだ。その時より前から彼は池田の悪行を聞かされていたし、信用のできない人間だとも思っていた。

 池田は兄に連れられて彼の家へ遊びに来ることがあった。その時、池田はからかわれたり、罵られたりしていて、兄の友人たちを追いかけ回したり、とびかかっていたりした。それが何故だか彼も追いかけまわすようになって、彼が嫌がると、池田は余計にムキになって彼の首根っこを掴んで絞めてきたということがあったからだ。

 池田は誰にとっても、危ない人間だった。酒とたばこもそうだったが、暴力的なふるまいが顕著けんちょだった。ことにそれは親から受ける虐待ぎゃくたいの反動だといううわさがあった。兄は時々池田の話をすることがあった。

「アイツは食事もろくに与えられていなっかたし、アイツの母親はしょっちゅうアイツをなぐったり、家の外にめ出していたりして、そのたびに悪さをして、近所から迷惑がられていた、な――」

 そしてそんな男が彼の目の前に現れて、彼のことを待っていたのである。 彼には少なからず恐怖心があった。そろりそろりと池田の立っているところのわきを抜けて行こうとした。池田がいつ走り出して彼に突っかかってくるやも知れない。すぐにでも走りだせるような恰好かっこうで彼は池田をにらんでいた。

 しばらくにらみ合ってから池田は一瞬いっしゅんかまえたようになった。彼は一瞬いつしゅんひるんだように後ろへ一歩下がったが、次の瞬間しゅんかんには池田からこう切り出していた。

「兄ちゃん――」

 彼はその瞬間しゅんかん、池田の声を聞いてその場から走り出そうとした。が、その声色こわいろの弱々しさを感じて立ち止まった。

「兄ちゃん、——元気してるか?」

 彼は池田から変な、意外な言葉を聞いたような気がした。 けれども彼は池田を警戒けいかいして本当のことを言うつもりがなかった。

「いつもと変わりませんよ。孝道は――」

 彼がそう言った後、池田は何かを彼に伝えようとした。乾いたくちびるを開いて、口を丸く開けて、火傷やけどしたような右手の甲を突き出して彼に何かすがるような姿勢になっていた。しかしそれ以上に何か言葉にはならないことを池田は知っているようでもあった。 少しの沈黙ちんもくがあったからか、今すぐにでも立ち去りたい気持ちからか、彼はそれだけ言って立ち去ろうとした。

 しかし池田は彼の後ろからさらに言葉をつないだ。

「——そうか、それならいいんだ。兄ちゃんによろしくな。」

 彼はハッとして振り返ると池田はもう走り出していってしまった。

 彼は誰もいない通学路つうがくろをしばらくながめていた。彼は自分がうそをついていることを知っていた。孝道が何も変わっていないわけがなかった。孝道はどう考えてもオカシクなっていたのだ。そしてなにかとてつもない不安感がそこにはあった。


   ⁂


 祖母は幸助の食べ終わった食事を片付けた後も孝道の話を続けていた。

 彼は食卓からは立って、窓際から庭の草木を眺めていた。

「あの担任こうも言ったのよ〝分かってるだろうな〟って」

 その教師の言葉は明らかに悪意があっただろう。 けれどももともと孝道がいけないということもあった。彼は幼いころの孝道を思い出しながらそう思った。孝道は勘違かんちがいされるような言動をとっていた。そして、池田の言っていることも本当だった。

 池田には本当の意味では友だちがいなかった。からかわれることで、人との関係を保とうとしていた。人を追いかけまわしたり、飛びついてつかみかかったりして暴れるのも、人と関わりたいがために気を引こうとしていたのだ。 そして孝道がそれを面白がってからかっていたことも事実だった。

 ――孝道の担任も、校長もあの事件からすぐに中学からはいなくなった。それは孝道のいた中学が問題だったことの証であるし、孝道のいたクラスに問題が起きたという証でもあった。彼は教師もともに兄に嫌がらせをしていたという話を聞いたのは初めてだった。

 孝道のいた中学は孝道がいたころが一番荒れた時期だった。有害図書や生徒の喫煙など、非行の蔓延まんえんで校舎の施設が所々で使用禁止になり、部活動をしている生徒たちは更衣室から締め出された。 保護者の中でも部活動をする生徒たちの外での着替えや、校舎の便所で着替えを余儀よぎなくされていたりと、学校の対応を問題視していた。生徒側の抵抗も強くあり、校門を爆破するなどの電話や校舎への投石など、学校側への嫌がらせや生徒の授業時間中の徘徊はいかいが目立つようになったりして地域からも対応を迫られる事態に発展していた。

 普段から勝気な振る舞いで孤立していた孝道のことであるから、池田の事件以来、学校側に睨まれてしまったのはわからない話ではなかった。 実際に臭いものには蓋と言うような教職員側の対応が、兄が不登校に至る原因なったことも事実だった。兄は完全に悪者として扱われたのだろう。担任の教師は学校に行こうとしている兄を、行かせなくしてしまったのだから――。

 そして彼はしばらく考えてから言った。

「でもその後のことは、アイツ自身の問題だった訳でしょう?」

 季節は梅雨つゆに差し掛かっていた。緑がとても映える季節だ。庭は大分雑草が伸び始めていた。幸助は芝刈しばかりりが必要だと思いながら、祖母にもすこし注意をはらっていた。

 そして祖母は目を細めてうなずきながらこう言い返してきた。

「だけどね、それがなかったらタカちゃん、しっかりしていたのよ?」

 彼は祖母のその言葉を素直に受け入れていなかった。幼少のことを思い出せば彼にとって孝道には恨みしか残っていない。

 ――やはり孝道は孝道で悪いのだ。

 と彼はそう思うほかなかった。

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