第4話 殺すぞ


   ⁂


 翌朝、彼は父と車に乗り込んだ。 O町は盆地になっている。見渡す限りは山の中である。車は国道から少し離れていった。小道を通り、家々や雑木林を通りすぎていく。柿の木の植わっている丘の一角に住宅が密集していた。その密集した一軒に孝道がいるのである。その丘の上の神社の中で車は停まった。

 車の中で父は言う。

「お前も来るか?」

「一応行くよ」

 青黒い玉石の敷き並べられた境内の脇を通って神社を出てると景色の開けている方へ行く。秩父山系を一望しながら近しい景色の斜面に広い畑があった。その畑の農道を行くと瓦屋根の小さな平屋が近づいてくる。

 玄関には〝K〟と表札があった。

「あそこのオヤジ、しっかり自分のものにしてるんだな――」

「あれでしょう。裁判やって負けたやつ」

 母方の祖父は曽祖父の遺産を争って裁判を起こした。祖父は遺言書を持って法廷に望んだが、遺言書はひとつではなかった。

「兄貴の方が日付が新しかったらしいからな」

 遺産は曽祖父の家と土地であった。新しい遺言には祖父の兄が土地をもらい、祖父は家を与えられた。母方の祖父は親に結婚を反対され、勘当同然で家を出た。父はこのオヤジのことをとても嫌っていた。母方の祖父はすすんで離婚の話を京子に唆していたからだ。

「弁護士は妹の紹介?」

 京子は三姉妹の真ん中だった。その下の末っ子の妹は弁護士をしていた。

「だろう? そうじゃなかったらうちの話だって母親の代わりに弁護士から通告がくるなんてことはないよ」

「阿呆らしい」

 K家は家族ぐるみで物事を進める特異な体質があった。その体質は姉妹3人の他に男児がまったくなかったためである。K家祖父は後継ぎ欲しさに娘たちの家族に介入し、スキを見て子どもを懐柔しようとした。それは嫁入りした家から引き離し養子縁組してK家筋の跡継ぎを得ようと画策していたためである。そして末の三女はそのことに関して積極的であった。

「弁護士雇ったらその分金とられるんだからな」

 彼にとってそのことは事実にしろ妄想にしろどこかしらの真実味を帯びて脳裏に張り付いていた。京子の家庭破壊的な行動の裏付けには一つの筋の通った事実だからである。それは母親からくる突然のメールが意味しているように――。

「お前、まだ母親からメールくるのかよ」

「ああ、返したことないけどな」

 それはとても虫唾の走る出来事だった。母親には一度もアドレスを教えたことはなかった。それがなぜだか突然メールが届いたのである。おかしなことは他にもある。京子が出ていったあと、幸助と父は住居を変えるために引っ越したが、その引越した先の住所を知っていたことや、父が単身赴任であること、進学先に決めた大学の名称まで京子は知っていたからだ。

「それにあれは、探偵を使っているみたいだからな」

 父はそこまで話すと呼び鈴を鳴らした。

 孝道はへらへら笑いながら出てきた。

「鍵は空いてるよ」

 髪が部分的に抜け落ち、孝道は全身むくんだような体つきででっぷりとしていた。首の周りは赤く腫れて、目の両端も赤くむくんでいる。髭が伸びたままで、全身は重そうにどっかりと気だるくしている。顎は上を向いていて、どこにも力が入らないといったようだ。 彼にはまだ孝道に対して恐怖の念が残っていたが、むしろその異様な風貌は3年前の孝道の面影を残しつつも無惨に変わり果てたとしか言いようがなかった。孝道の目はつり上がって、いかにも腹に悪い物を抱えているという感じである。

 孝道は彼を見るなり目をむいてこう言う。

「何だよ。幸助も来たのかよ。お前はいいよ、どこか行ってろよ」

 そして孝道が彼を見る目つきは、どこか怯えているのであった。


 父は30分ほどして戻ってきた。彼は車の中で本を読みながら待っていた。父はただじっと険しい顔つきで運転席のドアを開けた。

「孝道のところにも弁護士から通知がきたんだってよ。あの家を出ろって言われたらしいな」 「ふうん。それで、孝道どうしたいって?」 「こっちに戻れないかって言ってるよ」

「でも孝道、俺らの生活に合わせられないでしよ?」

「だからと言って、野放しにはできないんだよ。もしどこかで悪さしたら、身元引受人は俺になるんだからな。俺が死んだって、お前にその番が回るんだぞ」

「あそう――。ところで、アイツ、いま何やってるの?」

「さあ? 相変わらず競馬に行ってるって聞いたけど、今は病気で出られないみたいだな」

「病気?」

「頻尿」

「は?」

「これ」

 そう言って父が手渡そうとしたのは一升瓶だった。

「土産だと。アイツ酒を浴びてるらしい」

「それで頻尿?」

「だろう」

「頻尿って、あの歳で?」

「もうアイツもお終いだよ」

 私と父は街道沿いで食事処を探して昼食をとってから孝道にいる町を後にした。


   ⁂


 クローゼットの前で幸助が孝道を殺せと言ってから、孝道はよりいっそう喚いた。

 ――殺せ! 殺せ! ……殺すぞ!


 夏休みのある日、彼が予備校から帰宅すると祖母が迎えに出てこう言うのだった。

「こうちゃん。ちょっと、静かに、こっち」

 祖母の手が彼を招いていた。

「今あっち行かないで、ちょっと」

 彼は祖母の部屋に呼ばれた。

「しっ、静かにね」

 彼は変な気がした。それは祖母が急に呼びとめたこともあったが、それよりも変に感じたのは、静かすぎることだった。

「ねえ、もしかして」

 幸助は今まで予想していたことが本当に起きたのだとわかった。

「駄目よ。行っちゃ、駄目!」

 彼は祖母が強くそう言うのを振り切ってリビングに向かった。

 ――!

 皿の破片が床に散乱して足の踏み場がないぐらいに床を埋め尽くしている。部屋を仕切るドアも打ち破られて、目の前の硝子窓も粉々だった。食器棚もパソコンや電話もテレビも何もかも何かで叩ききったように滅茶苦茶に壊されていた。そして床には金属バットが転がっている。

 幸助は二階の孝道の部屋に行った。家の中なのに冷たい風がひどく通っていた。 だいぶん陽の光も当てていない部屋の灯りをつけて入ると、黴と汗の臭いが鼻を殴るとともに、焦げつくような臭いがした。万年床の周りでは紙クズや下着が散乱していた。そしてその寝床の真ん中に、ひとつの空き缶が置かれている。その中で幾枚かの紙幣が燃やされて、灰がくすぶっていた。窓際には砕かれたガラス戸の破片がチラチラ光って、シャッターはあの金属バッドで殴ったのか、縦に裂けていた。そして孝道はどこにもいなかった。 彼はそれらのすべてを一瞥して、孝道の部屋の向かいにある自分の部屋に行った。洋服箪笥に向かって、財布から取り出した父の名刺を見た。箪笥から服を取り出しながらそこに記されている番号にかけると、女性の声がした。

「はい、○○支部の××です」

「そちらの〇〇の息子です。父に繋いで下さい」 「はい、――〇〇さんの息子さん?」

 父にはすぐに繋がった。

「家を出ます」

「どうした?」

「孝道が――」

「どこへ行くつもりだ」

「母親のところ」

「何があった、言え」

「わからない。でもとりあえず、限界です」

 それだけ言ってすぐに家を出た。 彼は家の近くに間借りした母親の別居先にきていた。アパートの五階で、鉄筋コンクリートの建物で武骨な感じがするのは、もう十五年は外装修繕をしていないからであった。そんなぼろアパートを、荷物をパンパンにして階段を上がった。

 京子の別居先は五階で、建物の高さの関係でエレベーターはなく、彼は階段を一段飛ばしながらぐいぐいあがって、以前手渡された合鍵を使った。 彼は一番南の畳の敷かれている部屋に寝転がった。陽は既に午後の傾きにかかっていた。窓の形を矩形に畳へと映し出して、彼はそのおりたった陽光に左腕を伸ばしていた。


 京子の別居の原因は父の露骨な態度もあったが、それよりも京子の子どもに対する気色の悪い愛着のためでもあった。京子は何かにつけて孝道に干渉した。家から出なくなった時も、孝道はミカンを投げつけられたと言った。競馬を始めた当初もその熱心ぶりに、母は牧場を探し、何の相談もせずに孝道を会員にさせて無理矢理下宿させたりしたが、当人はすぐに飽きて家へ戻ってきてしまった。高校の時の進路相談にしても、母親は勝手なことを言い並べて、孝道は何も話すことができなかった。そしてその度に孝道は酷く喚いて狂った。 父は孝道が喚くようになってから、こういうことを言っていた。

「三つ子の魂百までって言うけどな。母親、三歳ぐらいの孝道に何してたと思う。朝なんか、アイツが目覚めるなり〝はい、チョコレート〟って言って、あげてたんだぜ。本当に異常だったな。育てるって言わねえよな。ペットみたいに飼い慣らしてただけだよな」

 孝道との関係が母親を別居に至らせた本当の原因であるのは確かなことだった。幼少、孝道が幸助を殴ったりしたのも、それを予期させることだった。生まれてから孝道をしつけずに可愛がって育てた京子は、幸助が生まれてから彼の方に付きっ切りになって、孝道を相手にしない時期があった。孝道が幸助を殴っていたのはそれの嫉妬だった。それからは〝お兄ちゃんなんだから〟と言う理由で、孝道は甘えたい時期に甘えを許されずに過ごしたのだと祖母はよく話していた。 孝道は永い歳月をかけて怨念を溜めこんで、大人になる前に発狂した。それは母親の干渉に対する強い反発でもあった。 ――孝道は学生の時分に、人とは関わらないで過ごした。孝道は社交という言葉をわからないだろう。それに加えて幸助にも孝道は反発的であった。そうした孝道の人格を作り出したのは父と母の不仲だった。いがみ合いを見せつけられた幼少の孝道にとって、そうした関係が、家族と、それからその他の人間との関わりの手段でしかなかった。実際孝道は学校に行っても人を悪く言うことばかりしていた。それは孝道がそうすること以外に、人と関わる術を知らなかったからである。 幸助が生まれたころは、大分穏やかになっていた家だが、その陰険さを段々と彼に気づかせたのは父の独りごとであった。独りごとはこういうものだった。

 はい。……はい。

 すみません。……すみません。

 どうも、申し訳、ありませんでした!

 ふざけるな!

 父は普段から険悪な人間であった。何を言っても怒っていた。それはしかし、京子の意固地な性格のせいであった。父と京子の不仲は幸助たちの教育方針の食い違いのためにもあった。 幸助は幼いころから父が嫌いだった。何かにつけて父は母親と喧嘩をしていたし、彼の話に関しても聞く耳を持つことはなかった。何をするにしても、父の言い分は絶対だった。その言い分が通らなければ父に何を言ったとしても俺がなにをしたんだと怒鳴るだけだ。そんな勝手な振る舞いは彼をを苛々させるばかりだった。 しかしそうした彼の苛立ちは京子に育てられていたころのことだ。京子が家のことをせずに仕事をし始めたころ、結局誰が何で悪いからこの家はおかしいという問題は彼にとってどうでもよくなった。京子は仕事をはじめたころから、料理が粗雑になった。もともと朝からラーメンや海老チリ、ステーキなんかを食わせる母親だった。 学校の登校時に友だちがトイレで吐いている彼を見つけた時「朝、何を食べたの?」と言われて、それらのメニューを挙げると、友だちは怪訝な顔をして、朝からそんなに重い物を食べているのかと言うので、幸助ははじめて自分の家に確信的な嫌悪を覚えた。 それから表面だけ焼かれたハンバーグや、半分なまの野菜炒め、醤油の味しかしない煮ものなどが並ぶ食卓になった。幸助は並べられた食事をもう一度火を通して、再び手を加えてから食べたが、どうしても不味くて最後まで食べることができなかった。それを父が一生懸命に食べているのを見て、どうしてそんな無理ができるのかと驚くばかりであったし、孝道は物心ついたころから〝あんな物〟と言っていっさい手をつけることはなくなっていた。 幸助が京子に対する不審感を覚えたのはこの頃であった。

 京子の別居先で寝ながらうつらうつらとそれらのことを考えている間に、鉄の扉が開く音が聞こえた。彼はハッとして目を覚ました。京子が帰ってきた。京子は父から連絡を受けていて、事情を知っていた。しかし京子は帰宅しても彼を遠くから見ているばかりで何もできないというような雰態度だった。

「アンタ、アイツに何か言ったろ」

 彼が母親を怒鳴ったのはこの時が初めてだった。それは祖母が前から彼にぼそぼそと呟いていたことを思い出したからだった。

「アンタの母親、たまにアンタたちがいない時に家に来るのよ。――図々しいわね。家のこと何にもしない癖に出入りして、節操がなさすぎるじゃない? それであれは絶対タカちゃんに何か余計なこと言っているんだわ。――どうしてなのかしら。アンタの母親が来た日の夜はタカちゃん、殊に荒れるのよ」

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