第5話 退院


   ⁂


 祖母の退院の日、伯母と一緒に幸助は脳神経外科に呼ばれた。入院中にした検査の結果を聞くためであった。

 小高い丘が幾重にも重なって見えるこの地域はいくつもの坂を上り下りしながら道を進まなければならない。車がないと生活の難しい環境である。

 早朝伯母は幸助の住む家の下に車をつけた。彼はその車に乗るとすぐにまた車は動き出した。車内ではほとんど無言だった。病院へつくと伯母は病室へは行かず、受付で待つように話した。祖母はすでに退院して伯父が先に家へ帰してしまっていた。検査の結果を本人は聞かされていないらしかった。

 受付で呼ばれた後、面談室で更に待たされた。彼は数年前であればあまり落ち着かなかっただろう。しかし今としてみれば、祖母はもう平均寿命を超えている。覚悟はできていた。そもそも父がこの時期に長い出張で家を出ることを言われてから、看取るのは自分ではないかと――。

 看護師が来て軽く挨拶をしたあとすぐに入院中の主治医が来て挨拶をした。顔合わせといったところだろうと感じた。その後、脳神経外科の診察室へ案内された。

 脳外科の医師はすでに診察室にいて軽く挨拶したあとすぐに話を始めた。

「これだけご老人になられて、一日寝っ放しにしていると、平均で十三パーセントずつ筋力が落ちますから、杖をついて歩けるとしても、それ以上の回復は見込まれません。でもこの歳でまだ歩けるというのはすごいことです。それから肝臓の方ですが――」

 入院中の主治医は肝臓にゴルフボールぐらいののう胞を見つけたと言った。

「これですが――」

  レントゲンの黒地の写真にかすかに祖母のブヨブヨとした体の形と白い骨や臓腑の形が、青白く光っている。

「ここです。この濃い塊がのう胞、つまり血の塊です。これがあって、消化不良を起こされているみたいですね」

 医師が指し棒で指す肝臓と思われる白い部分に青黒い陰が穴のようにぽっかり空いている。

「それは、どうなるんでしょうか――」と伯母が訊ねた。

 医者はこのまま膨れ上がるか、その前に、と話した。 話していた医者が目配せをすると今度は別の医者が出てきた。

「この脳の方のCTですが――」

 医者は脳の断面の写真を刷った紙を出してきて、左右両方の脳みその前頭葉の辺りを指して〝ここ〟〝これ〟と指し棒を指しながら言うのだけれども、何がここで何がこれなのだろうかと彼は思うのである。

「では、抗ヒスタミン剤を処方しておきますから、毎食ごとに飲ませて下さい――」

 伯母は病院の帰り、車を動かしながら話した。

「先生の言ってること分かった? 先のお医者さんは外科から来てたみたいね。後に話したお医者さんは脳の所に影が見えるっていうけど、――全然分からなかったね。一応、文科省から賞をもらえるぐらいの権威みたいだけど」

 彼は正直な話、検査結果はあまり耳に入らなかった。結論だけわかればすることは同じだ。伯母からは少し咎められたが、状況を説明されたところで、彼には普段から様子を見ている祖母のことをわからないはずがなかった。

「何にしてももうこれから面倒を看ないといけないんでしょう」

「そうね――」

 医者の診断は余命半年だった。彼にはそれだけ分かれば充分だった。そして彼は頭の中で繰り返していた。

 ――あと半年。あと、半年。


 福祉介護師の人を呼ぶと、要介護とか、要支援とかそれに数字をつけて言うのである。伯母が父の代わりにこれからの話をしていた。

「大変ですね。まだこれだと要支援6なのでヘルパーはつかないのです。――これ、一応、介護グッズのカタログです。」

 それだけ話して福祉介護師は帰った。

「福祉介護制度なんて、いい加減なものだよね。杖ついて歩けるって言ったって、人が見てないといつ転ぶかわからないのに」

「でもそういう決まりなんだから、仕方ないわよ」

 祖母は家の中でも杖をつかなければ歩けないほど弱っていた。介護用品のカタログを眺めながら、必要な品物を見つけては付箋を貼った。けれども、そのどの商品を見てももはやほとんどが役に立たないだろうと思われた。

「今日もお風呂に入れて、寝かせてあげてね」 「はいよ」

 伯母は夕食をこしらえてから、自分の家へ帰っていった。

 翌日以降は夜は彼が祖母の世話をした。昼間は伯母が訪れて祖母の世話をした。そのために彼は気負わずに昼間は大学に行くことができた。

 帰宅すると、夕食の支度ができていた。

「何かあったら連絡すれば良いからね」

「わかった。ありがとう」

 伯母はそれだけ言って出て行った。 祖母は寝室で眠っていた。しばらくは放っておいて、幸助は大学の課題に目を通した。

 日が落ちた頃、祖母が起きて来た。杖を付きながらだが、寝起きはできるようだった。彼はまだ食卓で大学の課題をこなしていた。

「お腹がすいたわ」

「夕ご飯あるよ。伯母さんが作っていったから」

「そう――?」

 祖母に夕食を用意した。しかし祖母の箸を持つ手はぎこちなくなっていた。彼は自分の分もご飯を出して食べようとしていたが、その様子が気になった。 祖母は箸を交差させて米を掴み、口にやろうとしたが、頬にあたって米がこぼれた。

「持てないの?」

「なんかね! なんかね! 上手く持てなくなっちゃったのよ」

 彼は箸を持ち直させてどうにか掴ませようとしたが駄目だった。もう手が利かなくなっていた。 彼は自分の食事は一度諦めて、祖母を食べさせた。

 食べ終わるとすぐ祖母はトイレに行くと言い出した。祖母は立ち上がるのも困難そうにしていた。彼は祖母の腕をつかんで支えて歩けるようにした。ついでに食べ終えた食器を洗いかごに突っ込んでいるうちに、祖母は彼から離れて一人でトイレに向かってしまった。彼は怖くなって、食器を水に浸してからすぐにあとを追った。 廊下の突き当たりの窓から夜の街灯が漏れて祖母の傾いた後ろ姿の輪郭をくっきりと浮かばせた。それが左右に揺れながら便所へびっこを引いている。 祖母は便所の段差をまたげなかった。彼は祖母を追って支え、トイレの前で持ち上げた。トイレへ入れて、またしばらく待った。終わったことを聞いてから手を洗わせ、それから風呂場へ連れて行った。 夜の風呂場はまだ肌寒かった。また熱を出されてもかなわないので、彼は手伝って服を脱がせることにした。祖母は上手く足を浮かせられないので、片方の脇を掴んで洗濯機に手をつけさせた。

「左足から上げて」

 彼は祖母を支えながら、左足からズボンも下着も一気に抜きとった。右足も同じようにし、上の服も脱がせてしまうと、祖母の服を籠に放った。そのまま祖母を入らせて、服は明日また伯母が来て洗うからと思って、そのままにして食事にした。

 彼はひとりになると落ち着かなかった。ひとりで祖母が風呂に入れるだろうか、そう思いながらご飯も咽喉を通らなかった。

 祖母が風呂からあがると彼はまた、風呂場まで行って、祖母の洗い終わった身体を拭いた。

「すみませんね」

 彼はどうして謝られたのかわからなかった。その時初めて祖母がよそよそしく見えた。昔からなにか諭したように話をする祖母が、まるで他人と話すような台詞で彼に言うのだった。

 突っ立ったまま何もできない祖母の身体を拭いきながら、なにか自分にとって大切なものを祖母の中で失くしてしまったように感じるのであった。そしてその感慨は次の会話の中で決定的な確信となった。

「はいはい、じゃあ、寝る支度しましょうか」

「さっき起きたばかりよ。まだ朝でしょう?」

 その言葉は本当にとっさに出てきた言葉で、一瞬なにを言っているの彼にはわからない言葉だった。端的に呆け始めたと済ませてしまえばそれまでであった。祖母はいまの自分をどう思っているのだろうかと、不意に普段は思わないようなことを彼は考えた。そして彼はその時、幼い頃に兄と比較されたときのイヤな思いを感じる他なかった。それはこれ以上先に進めないような、立ち入っても立ち入っても何も誰からも理解されないやり場のない不安感だった。

「何言ってるの、もう夜、寝るんだよ?」

「寝ないわよ。だまさないでよ」

 ――その日はどうにか祖母を寝かせた。彼自身は、お風呂に入るころには日にちが代わっていた。

 彼は幼い頃のことを思い出していた。祖母は昔からそんなに親しい人物ではなかった。けれどもどちらかというと遠い親戚でもない。住居は同じであったわけであるし、疎遠そえんでもなかった。近くも遠くもなく、それは均衡きんこうのとれたある意味絶対的な関係性であった。祖母と呼ばれる彼にとっての関係性である。しかし彼には最近、祖母が昔感じた人物とは明らかに違って見えるようになった。今は祖母を見るとなにかをお願いをするというような気持ちより、この人の生を見極めているような感覚に陥る。明日祖母はまだ生きていられるのだろうかという心配のような不思議な感情である。

 そんなことを考えながら彼は机にかじりついて、深夜新聞配達が来る手前まで大学の課題に向かった。


 翌朝、彼はかなり早い時間に目が覚めた。昨夜の不安が彼を取り巻いていた。そして、すぐに祖母の様子を見にいった。 彼の不安は的中していた。祖母は階段の前でうつ伏せになっていた。

「どうしたの?」

「おトイレがね。おトイレが――」

 全身が冷たくなっていた。下着を脱がせて触ると湿っている。それから祖母を支えながら起こして話をした。

「どうしたの、何があったの?」

 彼は訳が分からず必死になって祖母に問いただしていた。

「おトイレに行こうとしたんだけどね。転んじゃったのよ」

「どこで転んだの?」

「畳の部屋よ。――起きれないからね。這っておトイレまで来たんだけどね。どうしても起きられなかったのよ」

「ずっとここで寝てたの?」

「そうよ――」

 彼は唖然とした。背筋が冷たくなって、血の気が引いた。祖母を寝室へ連れて行きベッドに手をつかせて立たせたままにした。それから祖母の寝間着を全部脱がせて、下着の場所を聞いた。 それを出してから気がついて、彼は洗面所へ行き、祖母の汚れた下着を桶に入れて、タオルを湯で濡らした。その濡れタオルで祖母の股から下を拭いて着替えさせた。

 おそらく祖母は眠ることなく明け方から今までトイレの前で突っ伏していたに違いない。彼が昨晩新聞配達の来た頃にはなんの異変もなかった。それが数時間の間で祖母は転倒して、朝までそこにいたのだ。

 祖母に起きていられてもかなわない。彼はまだ時間が遅いからと言いくるめてもう一度祖母を寝室で寝かせた。祖母は夜中に起きてずっと廊下に倒れていたためか、ベッドへ横になるとすぐに眠りについた。彼には昔の祖母がどんな容姿だったのかはわからないが、見かけは歳相応に見える。これと言って不健康な感じはしない。しかし意識が昔彼が思っていた祖母と違っている。それは言葉にしようのない小さな変化であるが、彼にとってそれは明らかな変化であった。そこには昔慕った祖母はもういなくなっていた。別の人格を持った老人そのものだ。いうなれば赤の他人を見るようだった。

 それから彼は伯母を待って、今朝のことを話して家を後にし、大学へ向かった。

 ――これで一世代が終わる。

 彼は祖母の死のくるのをそういうふうに感じていた――。

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