第8話 一項

 叔母さんが死んでからしばらくして、彼と父は母親の別居先であったアパートから引き払って別に住居を用意した。彼の居場所が知れなくなった京子は、たびたび携帯に連絡をよこすようになった。しかし彼は取り合わなかった。家を出て行った人に、何を話すということもないと思っていた。それから直ぐに京子は孝道を家から連れ出して、裁判で手に入れた爺さんが所有しているあのO町にある家に置いた。

 幸助たちは孝道が家から消えたので、戻ることにした。

 祖母はこう言うのだった。

「アンタの母親が突然来てね、連れ出して行ったのよ。大きな灰色の車に乗って来てたわ。だけどよかったわ。あんなに毎晩毎晩うるさかったら、かなわないものね」

 家の割れた窓硝子は板や段ボールでふさがっていて、家具はあの時のそのまま、台所や廊下は生活していたことがわかるが、後はゴミで埋もれていた。栄養剤の空瓶やスポーツドリンク、ビールなどの空缶が云百本、台所や食卓に置かれていて、皿は一枚だけしか使っていなかったようである。孝道の部屋には人の体臭が籠っていて、アンモニアの臭いが鼻に刺さった。風呂場は下から黒く黴が這い上がっていた。便所は嘔吐したのか、そのままの跡が残っていて、とても入れるようなところではなかった。冷蔵庫だけはしっかりと残っていて、中には缶ビールが沢山あり、冷蔵庫の前にはその空き缶が山積みになっていた。

 父と彼はそれからゆっくりと家を片づけた。


   ⁂


 彼が大学へ向かうのに電車に乗ると、どっと疲れがのしかかってくることがわかった。電車の窓は頁を一枚一枚めくって、彼の想いとは逆に時の流れを早く正確に押しつけていった。 彼はそんな景色の空ばかり見ていた。

 今も昔もあまり変わらない。

 彼は自分もひとりの人間だということを思いながら、今めくられて行く窓の一頁一頁が憂鬱で実感のある時だと知らせてくれているのを感じた。彼は座席に座ったまま、両足を弄んでいた。それは怒涛の一週間を終えて、その隙間に空いたところに吹き入れられる風のような一頁だった。そしてその隙間にそうやって入り込んでくるものは愉快なものなのか、それとも侘しいものなのか、定かにはしなかった。

 夕方、家へ帰る道すがら、伯母から連絡があり、紙オムツを買ってきてほしいと言われたので、彼は途中スーパーに寄った。今度の震災の影響で生理用品の商品棚はほとんどが空になっていた。紙オムツも例外ではなく、二四着入り祖母の身体に合うサイズのものはほとんど買われてしまっていて、スーパーの他、ドラッグストアなど、三軒回ったのち一袋しか見当たらなかった。

 彼が家へ帰ると伯母が夕飯の支度を終わらせて祖母の食事を手伝っていた。彼は伯母に紙オムツを渡して、買い回ってきた話をした。

「みんなバカみたいね。こんなこと一時的なことなのに」

 伯母は尤もなことだけを言った。

 祖母はその話を聞いて、

「へえ」 と言っただけだった。

 祖母はこのごろ疲れているのか、話をするのも嫌になっているみたいだった。

「だけど紙オムツって高いね」

 伯母は、ん? と首を傾げてから

「でもこれがないと大変よ?」 と言った。

「そりゃ、家には面倒見られる人がいないからね」

「お父さんもいないしね」

「親父なんかいても、やりゃしないでしょう。人に触るのも嫌なぐらい潔癖症なんだから」

「フフフ、あの人も神経質な人だからね。昔はあんなんじゃなくて、もっとおっとりしてたんだけどね」

「信じられないね、おっとりなんて」

「今のアンタに良く似てるわよ」

「嫌だねえ、それは。俺も親父みたいになるのかよ」

「それはどうだか分からないけど」

 伯母は祖母にご飯を食べさせ終わると荷物をまとめだした。

「じゃあお風呂、お願いね。それから今日お医者に連絡して今朝の話をしてみたら、明後日の午前にまた来て下さいっていう話になったから、アンタ時間があったら来てちょうだい」

「ああ良いよ。明後日午前なら空いてるから」 「じゃあ、お願いね」

 それから昨晩と同じように祖母に夕ご飯を食べさせ、トイレに連れて行き、風呂に入れ、就寝するまでを手伝った。


 翌々日、医者から受けた話では、時間の感覚は習慣から逸してしまったために狂っているのだろうということだった。そして睡眠導入剤を処方してもらった。しかし、それでも祖母は催す度に置きあがっては転倒し、顔や頭に大きな巨峰みたいな痣を作った。後日、また医者を訪ねた時に聞いた話では、人の欲求の中で排便、排尿の生理的なものは幾ら睡眠導入剤を飲ませても凄まじいものがあって、目が覚めてしまうのだと言う。

「お祖母さんは意志の強い方ですね。普通尿意があってもあきらめて起きあがったりはしないんだけれども」

 医者も薬を出すだけして、説明が後付けだと思うところもあった。しかし祖母が普通ではない人であったのだろう、伯母も彼も仕方ないのだと思う他なかった。


 それから幾日か経った。 いつものように祖母に夕食をとらせていた。祖母の手が止まった。祖母はテーブルのポットのところを見て箸で空を何度も掴みだした。

「何? どうしたの?」

 祖母の顔を見ると私は何だか恐ろしいような鬼の顔を見た気がした。左半分の顔が硬直して垂れさがっていた。その顔、左半分、眉が下がり、瞼も落ち、頬も垂れ下がり、口がほんの少しばかり開いていて、右の顔だけはしっかりとこちらを見ているのにもかかわらず、左の顔だけは狂気に満ちていた。 祖母はそれからじっと黙っていて、しばらくポットを見ていたが、やがてポットを指さしてから言うのだった。

「そこに猿がいるのよ」

「何?」

「猿よ」

 ふと幸助は医者の話していたことを思い出した。

「抗ヒスタミン剤は徐々に効かなくなりますから――」

 ――効かなくなりますから、どうなるのかという説明はなかった。

 しかしこれがその兆候のようだった。ようは脳の炎症が抑えられなくなって、病状というか、死に向かう兆しが見えてきたということだ。

 ひと月経つと祖母は布団からひとりで上がれなくなった。布団から起こすと突然寝間着からおむつまで脱いでそのまま畳の上へ用を足してしまうこともあった。


 また別のある日の朝、祖母を起こしてベッドの立板に掴まらせたまま着替えの支度をしていると、祖母は突然立板から手を離して後ろへ倒れてしまった。倒れた先には折りたたみのハンガー掛けがあり、ハンガー掛けのネジの取手にザックリ頭頂部をぶつけてしまった。

 髪の毛の隙間に見える頭皮からあっという間に赤い血が湧き出て流れ出した。彼は慌てて近くのティッシュボックスからちり紙を抜き出して祖母の頭を抑えた。

 しかし、それでも血は湧き出てくる。ちり紙はあっという間に真赤になり、血はすぐさま滴り出した。何枚ものちり紙をティッシュボックスから取り出して頭に当てたが止まる気配がない。祖母の頭を抑えたままで電話まで行くに行けない。それにこの血が床に滴ることだけは避けたかった。

 毎日のように転んだりぶつけたりして顔の他に腕やお腹にも痣を拵えている祖母のそばを離れて人を呼ぶにしてもどこも安全ではない。

 と、そうこうしているうちに伯母が祖母の世話をしに訪れた。

 伯母は状況を見るや否や洗面所へと駆け込んで、ハンドタオルを持ってきた。

「これで頭を抑えなさい」

 言われたとおりに頭を押さえるとティッシュペーパーよりずっと簡単日を流血を抑えることができた。祖母はそれを見届けてから病院に連絡を入れた。

 その日、かかりつけの病院は休診で見てもらうことは叶わなかった。血の止まらない状況から失血することが恐ろしかった。伯母は祖母を看に戻ってきたので、彼は代わりに救急へ連絡した。

 脳神経外科を近場で見つけて、診察を始めると医者は第一声にこんなことを言った。

「まさか、これは虐待ではないだろうね?」

 彼も伯母も面食らってすぐに否定したが、悪く思われれば警察沙汰になってもおかしくはなかった。

 傷口はホッチキスのような金具二針で止めた。


 翌日の晩、祖母が風呂からあがり、紙オムツをいつものように着せた。祖母は背を丸めてその紙オムツをじっと見つめていた。時折ゴムのところを引っ張っては離して、パチリとそののう胞で膨れ上がった腹に打ち付けた。更に両方の太ももの皮を延ばして苛々しているようだった。彼は気にせず上半身を拭いていたが、祖母は急にこう言いだした。

「アンタ、アンタ!」

「何?」

「ちょっと、おトイレに行くわよ!」

「お風呂に入る前に行ったばかりでしょう? また行きたいの?」

 祖母は彼の言うことには耳を貸さないでその身体を拭き続けた。

「アンタ! 身体にね。鯛と鮭がへばりついてとれないのよ!」

「鯛と鮭?」

「取ろうとしても取れないのよ。早く取っちゃって冷蔵庫に入れないと腐っちゃうわよ」

 私は本当に訳が分からないので急いで服を着せて、

「鯛と鮭は食べちゃったからないよ」と言って寝かしてしまった。

 翌朝、祖母は布団でちゃんと寝ていた。幸助は安心して、自分の朝食にしようと冷蔵庫を開けると、そこには紙オムツが綺麗に畳まれて入っていた。

「鯛と鮭だって?」

「そう、鯛と鮭」

「オムツが鯛で?」

「太ももが鮭でしょう。そう見えたんだよ、きっと。」

「それで冷蔵庫にオムツ入ってたの?」

「そう」

「はっははは――。笑っちゃうわね、それは」

 伯母はその話を笑い飛ばしていたが、ここまで来ると彼にはもう終わりなんだという考えが強くなっていた。

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