第7話 自殺


   ⁂


 電車を降りると駅名を繰り返すアナウンスが聞こえた。 ホームを降りて、冬の三時、乾燥しているけれども、どこも日は当たらず、その気候はどんよりと曇って、市街地はよりいっそう鬱蒼としていた。駅を出ると住宅街だけあって、後は何にもないところである。改札横からすぐに小道に出る。U市のこの道は、彼にとって古い、懐かしい道だった。

「向こうの爺さんの家、覚えてるかよ」

 父が先に口走った。

「この道、探さずに通れるんだから、間違わずに行けるんじゃないかな?」

「そうか」

 幼い頃は彼も父に連れられて年末は度々母方の親戚の家へ出かけることが多かった。それが兄の問題があってから、父は突然向こうの爺さんの家には行かなくなった。幼い頃の彼にはそのことがよくわからなかったが、今はだいたい察しがついた。それはこの頃の父が度々こんなことを言うからにほかならなかった。

「お前も結婚する前に相手の家をよく見ろよ」

 側溝もフタがされていない舗装すら削られて砂利臭い田舎道を1キロくらい歩くと小高い丘の上へとたどり着く。振り返るとさきほどいた駅が小さく見える。その他はひたすら家がズラッとあって箱だらけのなにもない街に見える。その風景は無感情な印象を与える。

「南教会でしょう? 今日行くのは」

「ああ、爺さんの家の先にある――」

 喪服を着てなりだけ揃えていたが、気分は葬式という感じではなかった。

「叔父さん、何で死んだって?」

「さあ? 胃癌だったか、――見つけた時にはいろいろ転移していたらしいな」

 彼は叔父の家に孝道が荒れていた頃、たびたび遊びに行くことがあった。彼は叔父の長男、要するに従弟と仲が良かった。夏休みのように長い休みは毎年のように遊んでいた。しかし実際彼には叔父に世話になったと義理立てするほどの思い入れはなかった。その頃の記憶から叔父を思い出して見ると、何を親身に思うのかはわからなかった。しかし彼はそうでも叔父は実際、彼に良くしてくれていた。はっきり言ってしまえば叔父からしてみれば彼はほとんど赤の他人である。それを数年間、毎年夏休みになると面倒なのにも関わらず、遊びに付き合ってくれていたわけである。そしてそう考えれば考えるほどその人のいい叔父が、どうして死んでしまったのだろうと彼は思うほかなかった。

 記憶の中の叔父はどこも悪いところはなさそうであったのに――。

 父はあるきながら向こうの家のことを話しだした。

「――だけどバカだな。薬なんてそんなのは不健康だとか、あそこの婆さん言っちゃって、自然治癒だとか言って、——見殺しにしたんだぜ」

 叔父さんは両親が居らず、母方の家庭に養子で来ていた。体調を崩してからは投薬治療のほか選択肢がなかったはずだ。けれどもそれは母方の祖父母に拒まれた。

「――見殺し、ね。――自然治癒か」

 確かに、癌になって何もせずにいれば痛みばかりでやがて死ぬだけだろう。叔父はどう思っていただろうか。痛みに耐えながら、ただその時が来るのを何もせずに待っていることができるだろうか。それとも本人は何も知らされずに本当にただ見殺しにされたのだろうか。考え方の問題で人の死をたやすく考えているようにも思えるのは、この母方の家の異常性と言える。

「でもあの家、そういうの好きだよね。――無農薬野菜だとか、無添加だとか」

 京子も有機農法の野菜のほうが良いだとか、病気も自然由来の漢方薬の方が身体に良いだとか、そんなことばかりで、食事で摂れる栄養などは一切気にせず、誰かの受け売りみたいな、悪徳商法にでも捕まっているのではないかということばかり言っていた。そして、実際彼は小さかった頃、体重は平均以下で、アレルギーやビタミン不足、喘息のためにたびたび病院に通い、あまり効き目のない薬を飲まさた。部屋は掃除されずに年中綿埃が宙を舞ってい、ハウスダストでそこらじゅう体がかゆいのを薬だけで治そうとして、掃除もしないし、まともな食事もとれずに栄養不足と疲労で帯状疱疹になったり、持病の喘息をいつまでも発症して止まなかったことを思い出した。

「小さかったときの俺もひどかったからなあ」

「そういうのも、いきすぎるとまともじゃないからな。知ってるか? 叔父さんの癌だって今は摘出しなくても割と簡単に薬で治るんだぞ」

「知ってる――。」

「母親と一緒にいたら、こっちがおかしくなっちまってたかもな」

 彼はまた始まったと思った。母方の祖母は新興宗教にかぶれていた。その話は父にとって京子を虚仮にする材料に違いなかった。しかし、今回のことを考えると、父の言うこともあながち間違いではないとも思えた。彼自身、いやそれだけではなく、家族を滅茶苦茶にした家庭破壊者は孝道よりも京子に違いはない。それはK家跡継ぎのために悪知恵を働かせている爺さんと新興宗教にかぶれて、常軌を逸している婆さんの子供というだけで充分だった。

「あの一家、親子して干渉し合ってるんだから。母親に離婚をすすめてたのも爺さんなんだぞ――」

 ただ離婚に関しての父のその言い方はどうだろうかと彼は思っていた。彼が父の方についたのは感情的な理由よりも経済的な理由にあった。住居を転々としているよりはマシなのだとはわかっていたから、彼は彼であの家に戻る気でいた。感情的な話をすれば、こんな独りよがりな家族と生活はしたくなかった。

「母親の大学の研究テーマ、秩父事件だってな」

「思い出せば暗い女だったよ」

「今日いるんだろう?——」

「知らないねえ、顔合わせたくはないから、考えたくもないね」

「何で結婚したんだよ」

「今更そんなこと分からないな」

 やはり父はいい加減な人であると彼は思った。時にそれに呆れさせられる。突き詰めればもともと無秩序無哲学な人のような気もするのである。

「ところで叔父さんの子供はどうしてるんだろうね」

「知らんな、でもあそこの娘さんはもう結婚してるんだろう?」

「息子はまだ中学入ったばかりじゃなかったかな」

「問題ねえだろ」

 叔父さんは教員だった。京子の姉とは職場結婚だったと言う。

「でもあそこの叔母さんもおかしいからな」 「叔母さんも教員だったんでしょう? 国語の――、何がおかしいって?」

「それはジイさんの町庁時代のコネで教員になれただけだよ。教員っていうのは割とそういうのが多いんだよ」

「へえ」

「それで結婚してから直ぐに教員辞めたはいいけどな。家庭ではうまくできなかったみたいだってな」

「ああ、娘さんと喧嘩ばかりしてたらしいね」

「いや、そうじゃなくて、——知らねえのか。あそこの叔母さん、何度も自殺未遂起こしてるっていう話」

「それははじめて聞いた」

「それを娘さんは気付いていて、親子関係は上手くいかなかったらしいな。訳はそれ以上知らないけどな。それに、叔父さんがいなかったらあそこの叔母さん、とうに死んでいたかも知れないんだってよ」

「どういうこと?」

「あそこの叔母さんは夢遊病でな、時々姿を消すって言うんだ。それで叔父さんと娘さんは探しまわったりするらしいんだけど、それが死にたくていなくなるらしくてな、見つけ出すと結局死にきれないっていう話になるんだとか」

「へえ――、叔母さん、狭心症で薬を飲んでいたのは知ってたけど」

 彼はなぜかそれを簡単に聞き流していた。彼にはやはり父がその話を面白がっているようにも見えた。そのためかそれ以上の話を彼は聞きたくなかった。それに――、今から葬式と言うことで、そちらの方を気にかけていたということもあった。

 彼は俯きながら喪服姿で縁石の上を愉快に歩いた。子供じみた姿だった。それでもどんよりと落ちてきそうなけむりのような空を見ているよりはずっとマシだった。

 葬式には叔父さんの同僚やら生徒が大勢来ていた。入り口では行列ができて、どこのお偉いさんの葬式なのだろうかと思わされた。彼と父はこの混雑の中で焼香だけ済ませてさっさと教会を後にした。

「人ごみだったな。まるで」

「何であんなに人がくるかね? 学校の生徒が来る? 普通——」

「さあ? 俺の葬式は親族だけで良いからな。俺には起伏がありすぎてかなわんし、それに、あんなの面倒だろう。どうせあそこの一家で盛大にやりたがってるだけなんだから」

「何かと騒がしくて、恥ずかしいな」

 彼はどこかでこの葬式が悪いもののような気がしていた。直接の親族でもない家が葬式を取り仕切って、大事おおごとのように見せつけているようにも思えて仕方なった。

「叔父さんの家系、本当に誰もいないの?」

「さあ? 幼少期に家は無くなったって聞いたぞ?」

 そして叔母も、しばくして死んだ。その報せは何故だか彼のところにやって来て、愈々母方の家族のバカらしさが彼にはわかった。彼の従姉弟である叔父の娘さんは結婚してK家とは疎遠になり、彼との関係も全くなくなった。弟である息子は両親をなくしたショックから孝道と同じように学校へ行くことをやめ、定時制の高校へ進学し、K家の爺さんの養子になった。それはあの爺さんの目論見通りと言えたであろう。ただK家に関わった家族はみんなバラバラになった、あの爺さんにそのことの反省があるわけもなく。

 叔母の死の報せと一緒に葬式の期日を記したメールをよこしたのは京子であった。しかし彼は叔母の葬式には行かなかった。

 叔母は自殺だった。

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