エピローグ 暗闇
また幾晩かして、祖母は浴槽に沈んでいた。入浴の最中に気を失っていた。その日の晩ご飯が浴槽の中で浮遊していた。口元は吐いたような跡があった。やけに長い時間風呂から上がらない祖母を心配して彼はそれを見つけた。そして、慌てて祖母を浴槽から引きあげた。――引きあげて、リビングまで抱えて行き、身体を拭いて全身にバスタオルを巻いた。それから救急に連絡して、伯母にも連絡した。 伯母はすぐに来て、祖母のそばに駆け寄った。
「祖母さん! 聞こえる?」
伯母は大きな声を張り上げて祖母の意識を確かめようとした。祖母は目を覚ましているようだったが、ぐったりしたままで危険な状態だった。 救急車がすぐに来て、祖母は担架に乗せられた。伯母は祖母の寝間着を用意して、彼と一緒に救急車に乗り込んだ。 動き出すとサイレンが鳴った。
(彼は不思議な感覚に襲われていた。普段遠い闇で響いているサイレンが、今は彼の頭の上で響いている)
――年齢は。
――八九です。
――血液型は。
――O型です。
――以前にこういうことは。
――三月ほど前に一度。
その時の検査で肝臓にのう胞があることと、脳に腫瘍があるかも知れないと。
――他に病気は。
――ありません。アレルギーや喘息とかもありません。
――わかりました。
「年齢八九、女性、O型、三か月前に一度入院、入院時に検査、肝臓にのう胞、脳腫瘍の…………――」
祖母が救急病棟に運ばれると、彼は担架のそばから離れた。その時彼はなにか大切なものを失った気持ちになった。頭の中でその何かを探ろうとしても暗い靄の中で空気を掴むばかりでその大切なものが何だったのかもわからなくなっていた。そして一時間ぐらい待合室で待たされた。医者が来て、今は安静にしていますと報告した。伯母は入院手続きをしにそこから外れた。
彼はそのとき何を思っていただろうか――。
『何だかわからなくなっていた。人のこと、自分が何をしたらいいのかということが――。』
彼は過去を振り返りながら友人との仲が薄れていくのも自然なこととしてみていた。父が単身赴任で出て行く中で、これは当然のことだと何となく頭に浮かんだ。そして兄はどうして気が狂ったのだろうか、昔の家族の誰からも慕われた兄がどうしてあんな狂人へと変貌してしまったのだろうか。母はなぜ病弱な私の面倒を看てくれたのだろうか、そしてなぜまだ成人もせずにのらりくらりしている彼を放っていなくなってしまったのだろうか。
彼はそののち、週に一度は祖母を見舞った。祖母は病院の看護師に世話されながら、最期の毎日を何の弊害もなく過ごした。
食卓のそばの引き出しにお金を置いておいたのを忘れてきたと言ったり、戦死したはずの祖母の伯父が見舞いに来たと話したり、彼のことを自分の息子、彼の父親の名で呼んで、笑いかけてきたりした。
祖母は入院して三カ月経ってから死んだ。
待合室に伯父がきて彼の肩を叩いた。伯父は迎えのために車で病院まできていた。入院の手続きから伯母が戻ると、彼は、伯父の車で伯母と一緒に家へ帰った。 家には三時間前の夕食が残っていた。
「早く寝なさいね」
伯母はそれだけ言ってすぐにまた帰っていった。
彼は昔、家に帰るのが嫌だった。それが今、こうして、そこには誰もいなくなっていた。どれだけひとりでやっていくとしても、もう彼には帰れるところはなくなってしまっていたのだと思った。
リビングは暗闇しかない。彼はその部屋をじっくりと見て、思わず涙を流していた。
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