第七章

 どれほどの時間が経ったのだろうか。


 突然響いてきたドンドンという激しい音に、俺はビクッと体を弾ませた。


「いっ……あ……」


 変な体勢でいたからか、身体中が痛い……


 いや、それだけじゃない。


 燃えるような熱を発する左腕にそっと指を這わせ、袖を捲る。赤黒く染まった文字。倒れた時のサクヤにあったものと同じで、久しぶりに自分の体へと現れたそれに俺は目を瞑った。


 痛い。


 物凄く痛い。


 体を焼かれているような、そんな感覚。皮膚が焦げていくような、そんな感覚。

 これをサクヤは七日間も耐えていたのだと思うと心が折れそうだった。



 喰字欲に抗う代償もまた、命。



「おーい、夕餉の時間だよ、カズミツいるかいー?」


 アキラさんの声にハッとする。

 もうそんな時間なのか?


 夕暮れの鐘を聞き逃したんだ。耐えるのに必死でそれどころではなかった。

 完全に遅刻だ。また怒られる。


「っ、い、ます……」


 数時間振りに言葉を発した喉はカラカラに乾いていた。

 なんとか立ち上がり壁づたいに戸へ近づく。

 棚の方は決して見ないように。意識を戸だけに集中させる。


「ひどい声じゃないか。夕餉持ってきた方がいいかい?」

「いえ……行き、ます」


 戸を開ければ心配の色を浮かべたアキラさんが立っていて、そんなにひどい状態なのだろうかと考える。


 うん、思考は回る。大丈夫だ。


「完全に寝てました、すみません」

「それはいいけど、本当に大丈夫?」

「はい」


 耐えろ、俺。


 アキラさんに続いて歩き出しながら、バレないように俺は拳を握った。


 少しでも気を抜けば。鬼になる。

 そんな姿を見せるわけにはいかない。けれど……心配をかける訳にもいかない。


 家から出たのなら、隠し通せ。

 夜まで耐えろ。


 そう言い聞かせ俺は地面を強く踏みしめた。


 集会場に着きアキラさんが戸を開ける。スッと何の抵抗もなく開いたその先には既に村人が集まっていて夕餉が始まっていた。カズ君、とユキナリが口を動かし、トウコが安心したように顔を綻ばせるのが見える。正面に座る長老様は変わらない表情で黙々と食べ進めていた。


 いつかのサクヤのように小さく礼をしてから、空いていた膳の前に座る。味噌汁が冷めないようにと置かれていた蓋を取り、箸を持ち上げて食事をする。


 味なんてなかった。


 美味しさも何もない。口にしても口にしても空腹感が増す。

 手のひらに刻まれた【字】が存在を主張してくる。


 ……文字を喰いタイ。


 喰いタイ。喰いタイ。


 焼けるような痛みのおかげで、かろえじて耐えることができている状態。

 さっさと終わらせてしまおうと一気にかき込んだのだが、最後に食べ始めた俺は当然食べ終わりも最後だった。


 解散と同時に集会場を出ていく大人たち。俺も立ち上がろうとして。


「っ……」


 左足に激痛が走り座布団へと逆戻り。

 動けそうになく、顔にだけは出さないようにと必死に耐えた。


「カズミツ、遅かったのね」


 トウコとユキナリが近付いてくる気配。俺は無理やり笑顔を作った。


「あー完全に寝過ごしちゃってさ」


 あははと笑う。


「もう、また?」

「カズ君来ないのかと思ったよ」

「悪い悪い」


 いつも通り。いつも通りに……


「カズミツ」


 戸の方から声がかかる。


「ちょっといいか?」


 サクヤが集会場の中へと入ってきた。


「さっき長老様に渡された記録だけど……」


 マズイ、と俺は思った。


 サクヤに隠し通せるか?

 勘が鋭く、よく人を見ている。おまけに長年の付き合いだ。

 そんなサクヤに隠せるか?


 バレたら。マズイ。


「少し調べたいんだ。貸してくれね?」


 視線が俺を向く。俺は。


「記録……ああ、仕舞っちゃったな」


 普段通りに、何もないように言葉を返した。


「明日渡すでもいいか?」

「全然良い。助かる」


 大丈夫。バレていない。


 密かにホッと息を吐き出す。


 大丈夫。

 まだ大丈夫。体の熱も耐えられている。


 不自然に思われない程度に断りを入れて戻ろう。早く。


 じゃあ俺戻るな、と口を開こうとした時。

 サクヤの手に何かが握られているのに気がつく。


 ドクン、と体が震えた。


「サク、ヤ……それ」

「ん……?」


 視線を追ったサクヤがこれかと手を持ち上げる。


「さっき三人に借りた記録」


 俺はヒュッと息を吸い込んだ。



【記録 春成】



 視界の中で、一番上にあるそれに書かれた文字だけが大きく映る。


 まずい。


 ドクン、と心臓が波打った。

 周りの音が遠ざかる。感覚が遠退いていく。熱い。


 ……文字だ、喰字、を……喰字を……


「トウコ、ユキナリ、ハルナリ。これ助かった。返……」

「っ、ごめっ……俺、戻る」

「は……?」

「カズミツ?」


 熱い。逃げなくちゃ。抑えられなくなる。


 喰イタイ。喰イタイ。喰イタイ。


 必死に意識を逸らし戸へと駆け出した、はずだった。


「おい」


 ぐいっと腕を捕まれる。振り払おうにも力のない今の俺には不可能で。

 明らかに俺の様子がおかしいと気付いたらしいサクヤがじっと俺を見つめてくる。


「カズミツ、お前……」

「っ……!」


 バレた、と目を閉じたその時。


「ッ、なっ、ハルッ……!?」

「サク、くん」


 苦しげなサクヤの声が響く。

 そしてもう一つ、感情の無くなったような温度の無い声。


 目を開けた俺が見たのは――


「それ……」



 ――チョウダイ、と。

 真っ白な瞳をしたハルナリがサクヤに飛び付く瞬間だった。



「くっ……いっ……!」

「ハルッ、ダメだっ!」

「ハルナリ!」


 かろうじて伸ばされた手をかわしたサクヤの腕に、ハルナリの爪が深く突き刺さる。服の上からだというのに、サクヤの手袋をつたった赤い血がハルナリの記録に染みた。


 ユキナリとトウコの悲鳴じみた声に反応すること無く、ハルナリは記録だけをその視界に入れていた。

 それだけしか見えていない、と言った方が正しいか。


「グウッ……ァアッ……!」


 完全に我を失っている。

 俺と同じでさっき喰字期が来たのか。

 だからずっと静かだったのかと今更ながらに気付く。けれど。


「ガアッ……!」


 ドクンと体の熱が上がる。

 俺は自分の理性を保つことだけで必死だった。


 サクヤの持つ記録。あの中には山ほどの文字がある。


 喰えば満たせる。満たしたい。

 あの文字を……


「ハルッ……」


 ユキナリがハルナリにしがみつく。いつかのハルナリのように。そしてハルナリも同じようにユキナリを突き飛ばした。あの日と同じ光景。


 床に倒れ込んだユキナリをトウコが支える。その様子に一瞥もくれずにハルナリは、ひたすらにサクヤに向かって手を伸ばし続けていた。


 滅茶苦茶に伸ばされる手。フラフラと動く足。

 かわすサクヤの足がハルナリと引っ掛かり、サクヤが大きくバランスを崩した。手から離れた記録がカサッと場違いな軽い音を立てて床に落ちる。

 全員の視線がそれに集中した。


 しまった、と顔を歪ませるサクヤを押しのけるようにして、ハルナリが一番上にある自分の記録へと手を伸ばす。


 真っ白な瞳の中で灯りがユラユラと燃えている。

 誰も止められない。


 ハルナリの右手が紙に触れる。【記録】の文字が喰われていく。たった二文字では足りない、と。飢えに苦しむ手が表紙の上を這う。

 そして指がページを捲り、手のひらを押し付け――


 ――る前に、動きを止めた。


「え……?」

「グッ、ァ……あぁ……っ!」


 突然左肩を押さえ、苦しみだすハルナリ。

 予想外のことに俺達は動けなかった。唖然とハルナリを見つめる……一人を除いて。


「ハルッ!」


 真っ先に駆け寄ったユキナリの腕がその体を包み込んだ。


「ハルッ、ハルッ!」


 必死に名を呼ぶ。

 その声が届いたのか、ハルナリが顔を上げた。


 そこには、よほど辛かったのか涙に濡れ潤む黒い瞳。


「ユ、キ……」


 兄を視界に入れた途端ふえ、と崩れた表情はすっかりと元通りのハルナリで、ユキナリの瞳からも堪えきれなかった雫が溢れた。


「ハル……よかっ、よかった」

「ユ、ユキッ……ひっく、ごめ、ごめんなさ……」

「大丈夫、だいじょうぶだよ、ハル」


 辛かったね、大丈夫だよ、と撫でる手付きは優しくて。


「よかったっ……」


 泣きながら固く抱き締め合う二人にトウコが涙ぐんでいた。怖かったのか、その手はまだ少し震えていて。

 同意を求めるかのように俺達へと視線を向けた。


 サクヤは何かを考えるかのようにじっと一点を見つめている。

 視線の先にはさっきまで苦しそうに押さえられていたハルナリの左肩。

 ハルナリの【字】があるはずの場所。




 乱れた首元から僅かに見えたそこには、何も刻まれていなかった。




 トウコの口から、えっと小さく驚いたような声が上がった。


 見間違いじゃない。

 確かに消えている【字】の文字。喰字鬼である証。


 そのことに気付いた時、ドクンと体の熱が一気に上がった。


 手のひらが熱い。痛い。


 咄嗟にハルナリから目を逸らす。


 燃える。焼ける。熱い。痛い。


 俺は……俺は。


「っ……!」


 二人に背を向け、俺は集会場を飛び出した。




 ◆◆◆


 「はあっ、は……っは……」


 息が上がる。あんなに力が入らなかったはずの足は、今度は止まることを許さずに真っ直ぐ家へと突き進んでいく。


「はあっ……グッ……」


 喰いたイ。文字を。喰いたイ。


 長く感じた時間の末ようやく辿り着いた家。飛び付くようにして戸を開け放ち中へと駆け込んだ。真っ先に引き出しへと向かい手をかける。現れたのは一冊の分厚めの本で、俺はそれを床に叩きつけるようにして開いた。


「は……グ、アッ……」


 手袋を口で乱暴に抜き取る。そのまま右手を強く押し当てた。


「アァッ……グウッ……」


 文字が刻まれていく。どこにかなんて気にしている余裕はなかった。

 本が真っ白になっていく。ただただひたすらに目の前の文字を喰らう。


 体が熱い。痛みはもうない。

 文字を。求め続ける。


 感覚がなくなっていく。どれくらい経ったのだろう。


「ハアッ、は……なん、でっ……」


 もう幾つ喰らったかもわからない。

 けれど結構な量を喰らったはずなのに。飢えも空腹感も全く満たされない。


「なんでっ……!」


 俺は文字を喰らいながら顔を歪めた。


 何でハルナリは、治まった?

 たった数文字。それだけで、表紙を喰っただけで治まった。なのに俺は。


 満たされナイ。足りナイ。


 まだだ……もっと、もっと文字を。

 喰わないと。


 クイタイ。


 クイタイ。クイタイ。


 文字ヲ、文字ヲ。クワナキャ。

 クワナキャ……


「グウアッ、アァッ……!」

「カズミツッ!」


 パシッと力強く右手を掴まれる。

 聞き慣れた声。見慣れた黒い布が視界の端を掠めた。


「ぁ……」


 サク、ヤ。


 気が緩んだ隙を狙って力を込められ、無理やり本から引き剥がされる。

 俺は出せる限りの力で暴れた。


「っ……!」

「グウッ……はな、せっ」


 視界が歪む。

 僅かに残る意識が、理性が訴えかけてくる。


「ハアッ、は……はな、れろ……はや、く」


 早く、離れろ。

 傷つけたくない。


 サクヤを、大切な仲間を、傷つけたくない。


「ハ……ァ……ハアッ」



 喰イタイ。本ヲ、文字ヲ、寄越セ。


 離レテ、サクヤ。


 どんなに暴れても微動だにしないサクヤに焦りが募る。

 棚に押し付けられた背中が摩擦で熱くなる。

 頭上で何やらガタッと音がしたが、意識に入れる前に俺は目の前のサクヤに飛びかかった。


 喰イタイ。文字ヲ。


「サクッ……」


 ニゲテ。

 邪魔ヲ、スルナ。


「グウアァッ……!」

「カズミツッ!」


 掴まれたままの右手が引っ張られる。導かれた先、押し付けられた紙に感じる文字の気配を、飢えている俺は躊躇無く喰らった。


「グウッ……!」


 足りない。もっと。もっと……


「ッ、グッ……ぁ……?」



 衝動が、止まった。



 空腹感が、飢えが、急速に収まっていく。


 疑問を抱く間も無く。


「いっ ……!」


 右の手のひらに走る、これまで体験したことの無いほどの激痛。

 思わず呻いて縮込ませた体を温かい手が支えた。


「カズミツッ、大丈夫か?」

「っ、はあ、は……大、丈夫……」


 徐々に収まっていく痛みと戻ってくる五感。


 鮮明になっていく視界の中心には、安心したように表情を和らげるサクヤがいて。

 傷のないその姿に思わず俺は声を震わせた。


「よ、かった……」


 傷付けずに、済んだ。


「よかった……」


 床には半分の文字が消えたページが開かれたまま放置されていた。けれど喰字欲に溺れていた形跡はそれくらいしかなく、まるで何もなかったかのようなこの空間に息が楽になる。


「カズミツ」


 不意にサクヤが俺の右手を指差した。


「手を見ろ」


 手?


 急なことに戸惑いながらも言われた通り視線を移す……


「えっ……」



【字】が無い。


【字】の文字が、どこにもない。



 俺はバッと左の袖を捲った。あんなにびっしりと刻まれていた文字達が、跡形もなく消滅している。ズボンの裾を捲ってみても同じだった。

 体から、全ての文字が消えている。


 俺は混乱する頭でなんで、と繰り返した。


「何を……したんだ?」


 全てを知っているであろうサクヤにそう尋ねる。



「運命の文字を喰わせたんだ」



 一瞬、脳が思考を停止した。


「……え、は?」


 運命の文字って。え?


「お前、見つけたのか……?」


 いつの間に。なんで、どうやって。

 それに喰わせたって。


「お、俺の文字までわかったのか?」

「ああ」


 なんで、どうやってと俺の頭の中はパニック状態だ。

 だってさっきまで、調べたいとか言ってたじゃんか。

 わかった素振りなんて微塵にもなかったじゃんか。何で急に。


「俺の運命の文字は……何だったんだ?」


 やや緊張しながら聞くと、サクヤは真っ直ぐに俺を見つめた。



「和光」


「……え、何?」

「違えわ。呼んでねぇよ」

「は?」


 何を言っているのか意味がわからない。

 呼ばれたから返事をしたら怒られたんだけど?


 察しの悪い俺にはあ、とサクヤがため息をつく。


「だから、自分の名前の漢字が運命の文字なんだよ」

「……え」



 名前が……【運命の文字】?



【和光】が、俺の【運命の文字】だったのか?


「マジで……?」

「マジだ」

「そんな簡単だったのか?」

「だな」


 俺はポカンとサクヤを見つめた。

 そんなことって……そんなことってあるのかよ。


 あんなに調べて、見つからないってなって、焦って、怖くなって、長老様にも教えて貰えなくて、終わったってなって。

 その答えが自分の名前って……何だよそれ……


「ありなのかよそんなの……」

「オレもさっき気がついたんだ。ハルナリの喰字期が唐突に終わったろ。しかも【字】まで消えて」


 そうだ。ハルナリはたった数文字喰っただけで、何故か急に喰字期が終わった。自分のことで手一杯で頭が回っていなかったが、普通の文字を喰っただけで喰字鬼である証の【字】が消えたこともおかしい。


「喰字鬼である証が消えた。つまり喰字鬼から解放されたんだってことだろ。あの時ハルナリが喰ったのはアイツ自身の記録の表紙で、そこに書かれてた文字は、記録と春成の二つだけだ」


 そしてその二つの内、後に喰ったのは【春成】の方だった。


「アイツの運命の文字が偶々名前だったって可能性も捨てきれなかったけど、考えにくかったから。お前にも一か八かで名前を喰わせたんだよ。実際合ってたみたいだな」


 さすがだ。

 あんなに短い時間でそこまで辿り着くなんて。


 そう素直に告げればお前は無理だろうなと言われたから、足を蹴ってやった。

 もう二度と褒めん。


「じゃあ、トウコとユキナリにも教えてやろう。あと村の人達にも。今すぐに!」


 もし今日体に刻める場所が少ない人に喰字期が来たら。

 せっかく答えがわかったのに手遅れになってしまう。


「教えに行こう、運命の文字の正体が……っ」


 サクヤの腕を引っ張り、意気込んで口にした言葉が途中で途切れる。


「あれ……?」

「どうした?」

「なんか、声が出なくて」

「出てんじゃん」

「いや今じゃなくて」


 何でだろうと頭を捻るけれど答えは出ない。

 サクヤが訝しげな視線を俺に送ってきた。


「なんて言おうとしたんだよ」

「皆に教えに行こうって。運命の文字が……っ、ほらまた!」


 運命の文字が名前だって、と言おうとしたところでまた声が出なくなった。


「それって」


 サクヤと顔を見合わせハッと思い出す。


「そっか、これが長老様の言ってた術なのか」


 運命の文字の正体は名前。運命の文字の正体は名前。


「……」


 声が出ない。

 口さえ動かないから口パクで伝えることもできない。


 そういうことか。これは確かに長老様も教えられない訳だ。


「サクヤは?」

「オレは普通に話せる。ってかさっきお前に説明したのオレだし」

「ああそっか」


 不思議な術だな。

 運命の文字を喰らった瞬間を逃すな、と長老様が言っていたのはこれだったんだ。俺だけだったらきっとこの情報を皆に教えることができなかった。昔の長老様みたいに。久しぶりに重い喰字期だったみたいだし、引き出しの中の記録を引き出すのも時間の問題だったろうから。サクヤが来てくれなかったら危なかった。


「来てくれてありがとな、サクヤ」

「……べつに」


 いい、と素っ気なく立ち上がったサクヤに笑いながら、待てよと追いかける。


 何だか、久しぶりに気分が軽かった。

 今思えば最近の体調不良や発熱も全部喰字期の前兆だったのだろう。


【運命の文字】の謎も解けて、まだ実感はあまりないけれど喰字鬼からも解放されて。


 そして今から皆に知らせに行く。皆を助けられるんだ。


 夢みたいだった。

 皆で自由になれる。ずっと心の中で諦めていた未来が叶う。

 もうこれ以上、大切な人が死ぬことはないんだ。



「サクヤ!」



 集会場へと向かう道のり。死にそうになって歩いたのはつい数時間前のことなのにもう遠く感じる。


 俺は少し前を歩く背中に声を投げた。サクヤが振り返る。その顔にはまだ布が着けられているけれど、もう少しでそれもなくなるのだと思うと自然と頬が緩んで。


「喰字期が来たら教えろよな。今度は俺がお前に、咲哉って喰わせてやるから!」

「いや自分で喰えるし。いらねぇよ」

「冷たっ!」


 急いで駆け寄り空いていた距離を詰める。



 この時の俺の笑顔はきっと、今までで一番だったと思うんだ。

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