第六章
五日という時間は早かった。
俺が寝ている間に葬式は終わり。準備にも本番にも参加できなかった。
サクヤの話を聞いた俺は熱をぶり返し、さらに二日も寝込んでいたのだから当然といえば当然なのだけれど。
「カズミツ、本当に大丈夫なの?」
やつれてるわよとトウコに何度も心配されたが、全部曖昧に笑ってかわした。
大丈夫、と口にする度に自分の弱さを実感して。情けなくなった。
外の人間が消えた村はまた、いつも通りの日常に戻っていく。
誰がいつ消えてもおかしくない、そんな日常へ。
「何アイツ、ぼく本当に無理。キライ」
「僕も……二度と会いたくない」
俺と同じように嫌味を言われたらしいユキナリ達がぶつぶつと文句を言っているのが聞こえてくる。
いつもなら慰めるところだが、生憎とそんな気力はなく。
俺は空を見上げた。
真っ青な、綺麗な空。
黒色なんて知らないような、平和の色。
それがひどく羨ましくて俺は視線を逸らした。
“黒”なんて知らずに生きられればどんなに良かっただろうか。
そう考えずにはいられなかった。
「カズ君」
ちょんと袖を引かれ振り返る。
ユキナリだった。
「サク君もさ……二人ともどうしたの?」
少し離れたところで壁に寄りかかるサクヤと俺を交互に見て心配そうに眉を下げている。始終、俺達が無言でいるからだろう。普段とは異なる空気感に三人が戸惑っているのは感じていたが、話そうとは思えなかった。
沈黙が落ちる。
村の入り口から最も遠いここは、用がある人しか通らないため比較的静かだ。どこか寂しい雰囲気を纏う家の前で無言で立つ五人、というのは傍から見れば異様な光景だろう。
足下の一点を見つめたまま微動だにしないサクヤに視線を送る。
この間の来るかという問いに対して、今朝俺は行くとだけ答えた。結果的には三人もついてきたのだけれど。
今サクヤは何を考えているのだろうか。
位置的にも表情を読み取ることはできなかった。
彼の手には五日前には無かった手袋がはめられている。
そのことに、嫌というほどこの間の言葉に現実味が湧いてくる。
逃げるようにして再び目を逸らした俺の耳に、ザッと土を踏む音が聞こえてきた。
「お前たち、そこで何をしている」
体の芯まで響いてくるような、低く圧のある声。
「長老様……」
紺の和服を身に纏いピンと背筋を張った威厳のある佇まいで近付いてくる長老様に、しゃがみこんでいたハルナリが慌てたように立ち上がるのが視界の端に映った。
「何をしていたのだ」
誤魔化すことは許さないと言わんばかりの視線が俺達に刺さる。
俺は思わず息を飲んだ。
「教えていただきたいことがあって来ました」
そんな視線をもろともせずにサクヤがそっと前に歩み出る。
「運命の文字について」
長老様は顔色一つ変えずに俺達を見返していた。
◆◆◆
数年振りに足を踏み入れた長老様の家は記憶通り、落ち着いた香の匂いと畳の匂いで包まれていた。
最低限のものしか置かれていない殺風景な部屋。
座るように促された座布団も集会場にあるものと同じで、長老という地位につきながらも偉ぶっていないことが感じられて。
変わらないなあ、とどこか上の空で考えた。
「咲哉、和光。体は回復したのか」
始めにそう尋ねられはいと答える。
頷いた長老様の瞳が、まるで安心でもしたかのように細められた風に見えたのは気のせいだろうか。
「それで」
上座に座り改めて俺達を見回した長老様が口を開く。
「何を聞きたいんだ。始めに言っておくが、教えることは全て教えているぞ」
つまり、教えることはもうないと。
昔と同じその言葉に甦る記憶。あの時は幼くて、今よりもっと長老様が大きく見えていたから。怒られているみたいで怖くなって、聞けずに引き返した。
でも今日は違う。
「長老様は運命の文字を見つけたんですよね」
サクヤが落ち着いた口調で切り出す。その姿は堂々としていた。
「文字は何だったんですか」
「おいサクヤ……」
あまりにも単刀直入すぎる物言いに焦る。
長老様は怒ることなく静かに答えた。
「教えられない」
「何でですか」
「そういうものだからだ」
【運命の文字】が教えられないもの?
「どういうこと……?」
隣でトウコが小さく呟く。
俺も同感だった。
「どうやって見つけたんですか」
「書物を喰った」
「何の書物ですか」
「教えられない」
「……」
淡々と返される答えはどれも、欲しい答えとは違うもので。
ただ質問するだけでは無駄だと感じたのかサクヤは口を閉じた。
軽率には口を挟むことのできない空気感。
無口気味なサクヤがここまで話しているのを見てか、ハルナリ達が目を見張って驚いている。
それは長老様も同じのようだった。
「お前が聞いてくるとは珍しいな、咲哉」
「……」
「何をそこまで焦っている?」
サクヤは無言で見つめ返しただけだった。
今ここで、サクヤの状態を知っているのは俺だけだ。
基本、余程のことがない限り体の状態……文字の状態を調べられることはない。本人の問題として個人に委ねられているから。いくら長老様と言えど村人全員の現時点での侵食具合は把握できていないのだ。
けれど、推測することは簡単。
「……何で……」
堪えきれなかった言葉が溢れ出す。
俺はグッと拳を握った。
「何で教えられないんですか」
長老様は今まで数多くの喰字鬼の死を見てきたはず。それなら俺とサクヤが人生の折り返しに入っていることくらいはわかっているだろう。実際はサクヤの状態はもっと最悪だけれど。
その上で、教えられない?
ずっと静かにしていた俺が突然話し出したからか、長老様はスッと目を細めた。
「言っただろう。そういうものだ」
「そういうものって……意味がわからないです。人の命より、大切な理由があるんですか?」
調べても調べてもわからない。見つけられない。
俺達が頼れるのは長老様だけなのだ。
最後の希望。教えて貰えなければ、いつ起こるかもわからない奇跡に頼るしかなくなる。
本当に起きてくれるならいい。
でもそれが来るのが遅かったら?
サクヤは死ぬ。
時間がない。早く見つけなければいけないのに。
「俺達の命がかかってる」
サクヤの命が、かかってる。
「それなのに、教えてくれないんですか?」
教えないと目の前にいる子供が死ぬ。
それをわかっていてなお、教えないと言うのなら。
「そんなの……」
「見殺しにするようなもの、か?」
長老様の瞳がスッと目を細めた。
「私が故意的に教えていないと。そう言いたいのか?」
「っ ……」
ビリッと空気を震わせた冷たい声。
様々な色を含んだその瞳に俺は息を飲んだ。
憤っている。泣いている。悔いている。叫んでいる。
そんな複雑な光を宿した瞳にまるで射貫かれたかのように、目が離せなかった。
「命を軽んじて見ている訳では決してない。何十年もの間一番近くで関わってきた。重さはよく理解している。お前達よりもな」
「っ 、なら……」
「だがこればかりは私にもどうしようもない」
どこからか吹いてきた風が空気を揺らした。
「運命の文字を見つけた者……喰字鬼から解放された者には、術がかかる」
術……と誰かの呟きが耳に届く。
そんな話は初耳だった。
「運命の文字の正体ついて、他人に話すことができなくなる。紙に書くのも然り。呪縛のようなものだ」
話すことが、できなくなる呪縛?
「そんなのあるの……?」
ユキナリが戸惑った様に声を上げる。
長老様は肯定も否定もしなかった。
「……私が運命の文字を喰らったのは、偶然だった。この村の掟は知っているだろう。喰字期が来たのは夜、私は一人だった。喰字鬼から解放された後、誰かに真相を伝えることは不可能だった」
静かな空間に長老様の言葉だけが流れていく。
その姿から視線を逸らすことも、耳を塞ぐこともできなかった。
「この術は解けることがない。だから文字について、お前達に伝えることはできない……すまない」
そう告げるなり深く頭を下げた。
初めて目にした、長老様の謝罪。
心からそう思っていることが伝わってきて。
……ああ、この人は戦ってるんだ。
そう実感した。
文字の正体を伝えることができない。消えゆく命をただ見守ることしかできない。そのことに苦しみ、せめてもと俺達を、喰字鬼達を導いてくれている。解放された後も外の世界へ出ることなく、この村に残ってくれている。
だから……こんなにも大きく見えるんだ。
「長老様……?」
揺れたハルナリの声にふっと力を抜いた長老様は、音もなく立ち上がった。
棚へと近付いていき引き出しに手を伸ばす。
「お前達に、渡しておきたいものがある」
振り返ったその手に握られていたのは厚さのあまりない、本と言えるかもわからない紙の束だった。
一人ずつ手渡されたその表紙には、「記録 和光」とだけ書かれていた。
「そこにはお前達の情報が載せられている。基本的な情報はもちろん、この村に来た日付や……家族の現在の居場所も含めて」
「えっ……」
トウコが勢いよく顔を上げそれを見つめた。
喜と哀。期待と不安。相反する感情がその瞳に浮かんでいる。
「お母さん、たちの……?」
「ああ」
「ぼ、ぼくも、ぼくたちにもいるの?」
「全て記録されているはずだ。それをどうするかはお前達次第だ。捨てるも燃やすも好きにするといい」
私にできるのはこれだけだ、と長老様は俺達を見回した。
「運命の文字を見つける気ならば、喰らった瞬間を決して逃すな。一人で喰らっても皆は救われない」
何よりも深みを帯びた言葉。
誰よりも実感のこもった言葉。
「最期まで、自分を生きなさい」
手の中の記録がずしりと重く、熱く感じた。
◆◆◆
それぞれの記録を手にして、俺達は帰路に着いた。日の高さから見るに夕暮れの鐘が鳴るまで二時間ほどはあるだろう。人通りの少ない道に五人分の足音が響き渡る。
「じゃあ」
始めに家が見えてきた俺がそのまま入ろうとした時、待ってとトウコに引き留められた。
「カズミツ、本当にフラフラしてるわよ。大丈夫なの?」
「ああ、まだ体力戻ってないんだよ。夕餉まで寝とくし平気」
無理しないでねと声をかけてくれたユキナリの頭を撫でて、ありがとなと返す。
それが今の俺の精一杯で、また響き出した足音に背を向け家へと入った。
サクヤは、何も言ってこなかった。
戸に背を預け部屋を眺める。他に誰もいない、俺一人の空間。
……結局、何も解決しなかった。
【運命の文字】は見つかっていない。
俺は右手の記録を見下ろした。
手に入ったのは解放後の話とこの記録だけ。全て手書きで書かれているらしいその字から、長老様はどんな思いで書いていたのだろうかと想像する。
立ったまま一枚目を捲った。名前や生年月日、出生病院の名前や地名までこと細かく書き込まれている。家族の欄はまだどうしても読む気になれなくて飛ばした。
続けて次ページを捲ろうとした時、不意にグラッと目眩がして俺はその場に座り込んだ。
「っ……」
頭が割れるように痛い。
しばらく耐えた末、これ以上は文字を追えないと判断し記録を棚に閉まった。
奥の部屋に広げられたままの布団まで何とか這うようにして向かい倒れ込む。
治まらない痛みに思わず呻いた。
眠ってしまおう。
いつまでも心配をかけるわけにはいかない。
早く治してしまおう。そう思い目を瞑って。
……お腹すいた、ナ。
ハッと目を開く。
喰いたい……
ドクン、と心臓が波打つ。
そんな衝動が沸き上がってきて俺はマズイ、と焦った。
「嘘、だろ……」
このタイミングで。今来るのかよ。
思わず舌打ちをする。耐えるために頭から布団をかぶったけれど。
喰いたい。喰いたい。喰いたい。
ぐるぐると繰り返される思い。体が熱くなる。
喰いたい。何を?
文字を……文字を喰いたい。
視線は自然と棚へと移っていく。
本の在庫……どれだけあったっけ。
「っ、う……!」
起き上がろうと手をつけば、ジクッと右の手のひらに鈍い痛みが走って。
俺は顔をしかめた。
「はあ、は…… あ」
早く、早くと言わんばかりに強烈な痛みが体に走る。
息が乱れるのを止められない。
喰いたい。
もう、喰ってしまおう。何でもいいから。早く。
棚へと手を伸ばした時。
『そろそろ体限界なんだよ』
サクヤの言葉が脳内で再生された。
『文字を刻めるところがもうほとんど無い』
『オレ死ぬ。もうすぐ』
ああ……俺も死ぬのかな。
「はあ、けほ……はあ」
今喰字をして。もし体が全て埋まってしまったらどうなるんだろう。
自分の残りを数えるのが辛い。
喰って、もっと刻んでしまったら?
喰いたいという衝動と右の手のひらから広がってくる皮膚が焼けるような痛み。
けれどそれよりも、死への恐怖が俺の中で勝った。
「ぐっ……!」
歯を食い縛り枕に強く顔をうずめる。
少しでも意識から文字のことを飛ばすために。強く強く押し当てる。
忘れろ。耐えろ。
「っ、喰い、たく……な、い」
喰いたイ……文字を、寄越セ。
俺達は。俺は。まだ死にたくない。
喰いたイ。喰いたイ。喰いたイ。
「っ、あぁあっ……!」
衝動を抑えるために持ち上げた手が、ガリッと頬に傷を作り血を生み出す。
体に走る痛みと血の香り、そして死への恐怖に包まれながら、俺はひたすら衝動に耐え続けていた。
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