第五章

 『なあ、そこでなにしてるの?』


 森を少し入ったところ。

 大きく丈夫な木の下から上を見上げ、茶髪の少年はそう声を上げた。


『落ちちゃうよ?』

『はは、こんくらいで落ちねぇよ』


 枝に腰掛け宙に浮く足を揺らす黒髪の少年は、そんな心配をする少年に笑った。


『おまえものぼってみろよ』

『ええ……こわいんだけど』

『しょうがねぇな、ほら』


 差し出された手に、恐る恐るといった風に伸ばされた手が重なる。

 ぐいっと引っ張られ一気に高くなった視点に茶髪の少年は目を見開いた。


『ちょっ、むりむり、落ちる……!』

『落ちねえって。大げさすぎだろ』

『ぜったい落ちる!』

『だから落ちねえってば!』


 そんな年相応の押し問答を繰り広げつつ何とか登ることに成功した二人は、木々の隙間から僅かに見える村を眺めながら、他愛のない話をして時間を潰した。

 仕掛けたイタズラの成果だとか、今日手伝った大人たちの仕事の話だとか。

 そんなこと。


『そうだ、あした俺たちより年下の子がくるんだって。長老さま言ってた!』

『へえ、はじめてだな』

『これで俺たちもおとなだね』

『それはちがくね?』

『いいのいいの。俺たちもおとなだよ』


 なんだよそれと呆れたような、まだ声変わりの来ていない高い声が空気を震わす。


『おとなになったら仕事しなきゃだけどいいのか?』

『あーわすれてた、それはヤダなぁ』


 この村は静かな癖に、何だかんだ忙しい。

 それは二人も幼いながらによく理解していた。


『仕事ってなったらにげようよ』

『バカ、ダメだろ。オレはやる』

『ええーなんで!』

『なんでって……他にすることもねぇし?』


 その答えに茶髪の少年はむうっと不満げな表情を浮かべて。

 突然、そうだ、と目を輝かせた。


『じゃあ外いこうよ!』

『……は?』

『この村出てさ、いつか!』


 今度は黒髪の少年が驚く番だった。


『むりだよ』

『なんで!』

『オレ、家族いねぇらしいから』

『そんなの、俺もだよ?』

『外にいけるのは家族がいるやつだけなんだよ』


“いばしょ”が無いんだって。


 年の関係ですでに多くのことを教わっている少年の言葉に、一瞬辺りが静まり返る。


『……難しくてよくわかんない』

『おまえもすぐ教わるよ』

『そうなんだ……ねえ』

『ん?』

『この村のこと、好き?』


 風がサワッと葉を揺らした。

 正面を向いたままの二人の髪がそっと持ち上げられ、元に戻る。


『オレは』


 黒髪の少年が今、どんな表情を浮かべているのか。茶髪の少年にはわからなかった。


 ゆっくりと口が開かれる。


『オレは……』




 ◆◆◆


 ユラユラと揺れていた意識がゆっくりと浮上してくる感覚。


 慣れ親しんだ畳の匂いと感じる心地好い温かさに俺は目を開いた。

 見慣れた天井。光は隅に置かれている明かりだけらしく、部屋は全体的に薄暗い。


 俺、また倒れたのか……


 体が重いし、暑い。

 ひどい倦怠感でぼんやりとする思考を巡らせていると、不意に温もりがフッと離れた。


「起きたか」


 その声にゆるゆると視線を横に下ろす。

 これまたよく見慣れた顔が、傍で涼しげに座っていた。


「っ、サクヤ……!」

「体弱いくせに無理したから倒れたんだろ。オレを背負いながら走るとか無茶しすぎだ」


 力の入らない体を急いで起こそうとして布団へと逆戻り。


「熱出てんだから無理すんなよ」


 そんな俺の背を支えたサクヤの呆れたようなため息が耳に届いた。


 ……熱?


 そんなのどうでもいい。


「弱く、ないし……サクヤに言われたくない。それより……!」


 目の前になったサクヤの服を掴む。


「お前の体調は……!」

「喰字して三日寝たら治った」

「何でっ……っケホッ」


 落ち着け、とポンポンと背中を叩かれる。

 原因はお前なんだけどと言いたいのを俺はグッと堪えた。


「何で、お前はああなるまで堪えてたんだよ……!」


 言ってほしかった。頼ってほしかった。

 あんな無理している姿見たくなかった。

 苦し気で、そのまま二度と目を覚まさないんじゃないかと怖くて。


「死んじゃうかと……思って……」

「……悪い」

「……よかっ、た」


 情けないほど揺れてしまった、届くかもわからない小さな声。

 それをサクヤはしっかりと拾ってくれた。


 この村での日々は、いつかは崩れてしまう。


 喰字鬼としての未来を教わってからずっと、覚悟していたはずだった。


 優しくしてくれていた人が消え。兄や姉のように慕っていた人が消え。

 今までたくさんの人の死を間近で見てきた。


 おやすみと笑顔で別れた大切な人が、おはようと交わすことなく突然目の前から、日常から消えていく。


 抗えないことだから。どうにもできないことだから。

 仕方ない、と頭では理解していたつもりだった。でも今は。



 生きてほしい、と思う。


 いなくならないでほしいと思う。

 苦しまないでほしいと思う。


 ユキナリとサクヤ。二人の喰字期を目にしたことで、そんな思いがもう抑えきれなくなっていることを俺は感じていた。


 俺達の人生も折り返しに入った。

 喰字期の重さや周期によってはもっと早まるかもしれない。けれど【運命の文字】を喰らうことができたら。その何倍も長く生きられる。けれど。


 このまま、探すことに時間を使っていいのか?


 あと何年。あと何年……


 そんな迷いが心を揺らす。

 いつ死ぬかもわからないのに、見つけられるかもわからない文字を探すために時間を使っていていいのか。


 そんなことよりも皆と一緒にいて、日々を過ごす方が幸せなんじゃないか……


 下を向いた視界の中で布団の端を握りしめる。

 たぶん、ここで皆悩むのだろう。


【運命の文字】という存在を知っていながら、探す人が全くいない理由もきっと、ここでやめるからだ。


 俺も、もう……


「なあ、カズミツ」


 サクヤが身に纏う空気がフッと変わった。


「運命の文字、見つけたいか?」

「え……」


 まるで心を読んだかのようなタイミングで、唐突にサクヤはそれを口にした。

 想像もしていなかった言葉に反応が遅れる。


「完全に回復したら、長老様に聞きに行こうと思う。お前も来るか?」

「長老様に……」


 俺達が知っている中で唯一、【運命の文字】を喰らい喰字鬼でなくなった人。

 自由になった後も外に行くことなく、この村に残り続け喰字鬼に関わっている人。


「教えて、貰えるのか……?」


 幼い頃に一度、【運命の文字】について長老様に聞いたことがある。子供ながらに勇気を出して行ったのだけれど、教えられないと一言言われそれきりだった。


「わからねえ。けど行く」

「何でそんな急に……」

「急じゃない。ずっと考えてた。この村で真実を知ってんのは長老様だけだろ」


 そうだけれど。


 急な展開に重い頭が追い付いていかない。

 とにかくサクヤが文字探しに乗り気になっていることだけはわかる。でも何で急に。


 サクヤは顔を上げた。

 その瞳はいつも通りで、声も態度も何も変えずに。


「オレさ、そろそろ体限界なんだよ」


 さらりとそう告げた。


「……え」

「文字を刻めるところがもうほとんど無い。早くてあと二回くらいだな、喰字期堪えられんの」


 一瞬、何を言われたのかわからなかった。


「どう、いう……」


 どういう意味だよ。


 俺は瞬きも忘れてサクヤを見つめた。


 刻めるところがもう無いって。あと二回って。どういう意味だよ。

 だって、だってそうなったら。


「本格的にヤバイから耐えようと思って、今回耐えてた。失敗したけどな、ぶっ倒れたし。すっげぇ情けねぇけど」

「なに、を……」


 何を言っているんだ。


 刻めるところが無いって。どういうことだよ。

 限界って。二回って。本格的にヤバイって。耐えるって。


「カズミツ」


 脳が理解することを拒んでいる。

 いや、答えはわかっているのかもしれない。


 咄嗟に耳を塞ごうと動いた手は、始めから予測していたかのような素早さで掴まれた。放せと振るも全く動かなくて。



「オレ死ぬ。もうすぐ」



 淡々としたその言葉は静かに、俺達の間に落とされた。


 世界が歪む。


「はは、何、言って……」


 俺は笑おうとした。


 達の悪い冗談だな、と。笑えば今なら戻れる。

 何言ってるんだよ、と笑い飛ばせば。だから。


 俺は……



 ……笑え、なかった。

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