第三章

 運命の文字を見つける。


 そうサクヤに明言したはいいけど。


「……いやだから、どうやってだよ……」


 時間が経ったことで我に返った俺は頭を抱えていた。


『俺、運命の文字探す』


 脳内で今朝の自分の声が再生される。

 ほとんど勢い。衝動任せの言葉だった訳で。何の策もなければ考えもない。

 文字を探すのだからとひとまず書庫には来てみたものの……


「量多すぎだろ……」


 俺は目の前に並ぶ無数の本棚を眺めため息をついた。

 薄暗い中、外から少しだけ漏れてくる光に照らされ背表紙が浮かび上がっている。


 当たり前だ。喰字鬼の村の書庫なのだから、本はたくさん常備されているに決まっている。全て喰用なのだと考えると少しゾッとするが、本好きにはたまらない環境だろう。


 まあとりあえずと手近な本を手にした途端、埃が舞いケホッと手を顔の前で扇ぐ。


 あまりにも汚すぎじゃないか?

 掃除されてないのかよとこっそり愚痴て表紙に付いている埃を払った。


 哲学系の本みたいだ。聞いたことのない難しい用語が並んでいて思わずうわっと顔をしかめる。勉強は苦手だ。


「どうするか……って、は?」


 そーっと今の本を棚に戻し全体を見渡してみる。

 けれどどれも同じようなジャンルばかりだ。何となく発行年の欄を見た俺は驚く。

 ほとんどが五十年以上も前。一番新しいものでも四十年前。


「古すぎだろ」


 最近のものが全くない。

 まあでも。


「文字が消えても構わない、要らない本ってことか」


 喰われるために書かれたものじゃないだろうに。

 一瞬そう考えて、喰らう側の俺が言えることじゃないなと思い直す。


 パラパラとページを捲り文字を食い入るように見つめてみるが、運命とやらはわからなかった。というか、目の前の文字が【運命の文字】だとどうしたらわかるのだろうか。直感ではないとすると、他の文字と書体や色が違って見えるとかだろうか。パッと見どれも一緒に見える。


「マジでわかんないんだけど」


 そうだ、それで子供の時もやめたんだ。【運命の文字】の話を初めて聞いて、軽い気持ちで探してみたあの頃。同じところでつまずいて断念したんだった。


「調べるしかない、か」


 俺は書庫の奥へと進んだ。

 頑丈そうな扉の奥は確か、喰用ではない普通の本があるはず。

 何だっけ……そうそう、外で言うところの図書館みたいなものらしい。

 たまに本の補充に来る外の人が言っていた。時間制限付きの完全閲覧用だけれど。


 基本喰字期の第一波がやって来るのは夕方から朝方までの間。仮に今日俺に喰字期が来るのだとしても、今は昼過ぎだから日が暮れるまでまだ時間はある。反対に言えばそれくらいの時間しか今日は使えないということになる。


 ギッと軋む扉に大丈夫かよと内心で突っ込みつつ足を踏み入れようとした時。


 トン、と肩に手を置かれ俺はビクッと振り返った。


 そこにいたのは、俺の勢いに驚いたのか、目を大きくしている少女で。


「えっと……驚かせちゃった?」

「何だ、トウコか……」


 俺はホッと息をついてから笑った。

 驚きすぎだろ俺。


 トウコは意味がわからないといった様に首をかしげた。


「何だって何よ、失礼ね。というかこんなところで何してるの?」

「トウコこそ何でここに?」

「私は本の補充。この間ので在庫が切れちゃったの」

「そ……ん?」


 そうかと頷きかけて、感じた違和感に思い止まる。

 確か、今回は軽かったって昨日言ってなかったか?


 俺がじっと見つめれば気まずそうに視線が逸らされる。

 なるほどなと納得した。


「トウコ、お前前回また補充しなかったのか。喰字期が終わったら補充しろって散々言われてるだろ?」

「そうだけど……」

「……あんまうるさくは言いたくないけど、余裕を持って貰っておいた方がいい。万が一足りなくなったら危険だし、トウコだって辛いだろ?」


 喰字欲を抑えすぎると命に関わる。

 早く終わらせるためにも、本は多めに常備しておくに越したことはない。


「だって、なんか悔しいじゃない」


 ボソリとトウコが呟く。

 気持ちはわかるけれど。

 それでもダメだと言えばトウコは渋々頷いてくれた。


「カズミツ」

「うん?」

「今朝のことだけど、何があったの?」

「あー……」


 そういえばトウコにはまだ教えていなかったか。

 俺はどこから話したらいいのかと、言葉を探すように視線を宙に彷徨わせた。


「昨日、アイツら一緒に寝てただろ?」

「ええ」

「その時に来たらしいんだ。それでユキナリの喰字期の姿をハルナリが見た。大泣きで俺のこと起こしに来たからとりあえず駆け付けて、ハルナリをユキナリから離れさせるためにサクヤのとこ行かせて、俺が落ち着くまで見てた」


 そうだったの……と納得した様子のトウコが頷く。


「だからあんなに落ち込んでるのね」

「落ち込んでる?」

「そう。ほら、今朝長老様に呼ばれたでしょ。その前はどうだったか知らないけれど、ハルナリ帰ってからずっと静かよ」


 静か……ハルナリが?


 うまく想像ができなくて俺はグッと眉を寄せた。

 ハルナリが大人しいなんて珍しい。


 けれど当然の反応なのかもしれない。ユキナリの……家族のあんな姿を見てしまったのだから。血の繋がりがあるだけに、俺とは比べ物にならないほど辛かっただろう。

 トウコの話によると、あまりにもフラフラとしていたものだから周りが心配して、家まで送り今は寝かせているらしい。


 大丈夫だろうか……


「長老様の話は何だったんだ?」

「報告と注意で終わったわ。ユキナリが喰字期に入ったから、双子のハルナリにも近々来るかもしれない、気を付けなさいって。それだけ」

「そっか」


 怒られたのではと思っていたが、どうやら掟破りはバレていないみたいだ。


 ゴーンと鐘が鳴る音が聞こえてくる。いつの間にか夕餉の時間が近付いてきていたらしい。夕暮れの鐘は仕事終わりの合図だ。


 時間になってしまったからもうこの部屋は使用できない。

 仕方ない、と俺は諦めて調べる作業は今度に回そうと扉を閉めた。


「トウコ、本運ぶの手伝う」

「え、いいの?」

「いいよ。俺手ぶらだしな」


 書庫の棚から数冊を取り出し手元に重ねていく。

 いくら頷いてくれたとはいえ、こういう時に持っていかないとトウコはまた補充を怠りそうだ。少し多めに持っていこう。


「も、もうそれくらいでいいわよ。ありがとう」

「よし、じゃあ戻ろう」


 本を持って外に出る。

 薄暗かった所にすっかり慣れた目にはキツい眩しさに、二人揃って目を細めた。


「わっ、眩し……」

「どうにかして書庫に灯りつけて貰えないか聞いてみるか」

「お金ないし無理じゃないかしら。それに本が燃えちゃうわよ」


 確かに。本が燃えてしまったら俺達にとって死活問題だ。

 不便に耐えるしかないのか、と少し落ち込んだ気持ちのまま歩き出す。


「あ、そうだ、ちょっと待って」


 不意にくいっと袖を引っ張られ振り向く。

 トウコがじーっと俺を見上げた。


「聞くの忘れてたわ。カズミツは何であそこにいたの?」

「ん、ああ……」


 何てことのないように。可能な限り穏やかに俺はそれを口にした。


「運命の文字を本格的に探すことにしたんだ」

「……え?」


 ポカンとしたトウコの表情に、やっぱりそうなるよなぁと俺は苦笑した。




 ◆◆◆


 「えっ、サクヤまた取りに来てないんですか?」


 そんな俺の声が響いたのは夕餉が終わり解散後の広場だった。


「そうなんだよー」


 困ったように頬をかくのはこの村の食事を担当しているアキラさん。のんびりとした口調の彼は三十代前半の、この村では年長者に入る数少ない貴重な人物だ。


「ここ最近そうなんだよ。いつもならとっくに取りに来てるんだけどねぇ」


 これで七日目らしい。一週間じゃないかと俺は眉を寄せた。


 夕餉だけは集会場で揃って食べることになっている。喰字期になった者の把握の意味もあるため絶対の規則だ。家で食べることを許されているのは特別な理由があるごく一部だけで、その人たちは各自で夕餉を取りに来る。サクヤもそこに含まれている。

 俺の、運命の文字を見つける宣言の日から一週間。サクヤは夕餉を取りに来なくなった。朝餉も昼餉も取りに来るのに、夕餉だけ。


 サクヤは昼間は狩に加わっているためあまり会わないが、朝礼の時や遠くから見かけた時を思い出してみても特に体調が悪そうだと思った記憶はない。


「食欲ないのかねぇ……でも喰字期にも入っていないみたいだし、元気そうだし、わからないんだよねぇ。カズミツ何か知らないかい?」

「すみません、最近俺もあまり会えてなくて……」


 別に喧嘩をしている訳じゃない。ただ、俺が一日の大半を書庫で使ってしまっているのだ。サクヤだけでなくて他の住人とも話す機会は少なくなっている。


「そうか、でも一応気にしておいてくれないかな」

「わかりました」


 アキラさんと別れた後。俺は自分の家に戻りドサッと布団に寝転がった。


「ふう……」


 ズキズキと痛みを訴えてくる頭を押さえ疲れきった体から力を抜く。

 最近ずっと文字を追っているため首と背中も筋肉痛だ。

 心なしか疲れやすくなったように感じるし、文字を追うだけでも結構キツい。

 たかが調べ物でここまでダメージを受けるとは。

 情けないなあと苦笑する。


「サクヤ……大丈夫なのかな」


 ゴロンと寝返りを打つ。


 もちろんサクヤのことは気になっている。でも【運命の文字】を探す方は全く進んでいないのだ。あんなに堂々と宣言してしまった手前、何も成果がない状態で会いに行くのは少し気まずい。


 よし、と気合いを入れて体を起こし本を掴む。一つ一つの文字をじっと見つめていく地道な作業。運命とやらに引っ掛かる文字があるかどうか調べるためだ。夜はどうしても書庫を使えなくなるから、少しでもできることを。


 そんな日々を俺はここ数日過ごしていた。


「もー、全然無い!」


 翌日の昼過ぎ。

 固まった首をぐるぐると回していると、隣からトウコの叫びに近い声が響いてきた。


「全部同じことばっかり。これだってあたかも新発見ですみたいに書いてあるけど、さっき別ので読んだわよ。しかも発行年こっちの方が後だし!」


 同じことの繰り返しに飽きたのか、頬を膨らませ文句を言うトウコの姿は年相応のもので、俺は思わず笑った。

 何笑ってるの、と軽く睨まれる。ごめん。


「仕方ないさ。俺達にもわからないことだらけなんだから、外の人間がわかるとは思えないし」

「そうだけど、いい加減なことばっかりで全く合ってないものもあるのは嫌な気分よ」


 ほらと差し出されたページには確かに、人を喰らうだとか異能を使えるだとか毎夜力を高める儀式を行っているだとか、随分と勝手なことが書かれている。どこの世界だよと突っ込みたくなるほどの非現実的な説だ。


 やっぱりそう簡単には探しているようなものは見つからないか、とため息をつく。


 あの日の後手伝うと言い出したトウコと共に探しているのは、この村に代々受け継がれているような古い書物だ。言い伝えでも歴史でも、何でもいいから信憑性のあるもの。この村のことがわかるもの。存在するのかもわからないが、あるに賭けて俺達は毎日こうして書庫に籠っていた。

 成果なしの現状に早くも心が折れそうになっているのだけれど。


「それでも探すしかないんだよ、俺達は」


 手元の本へと視線を戻す。そんな俺をトウコはしばらく眺めていたが、そっと小さく息をついた。


「ねえカズミツ、こんなこと意味あるのかしら……」

「……」

「私ね、文字のこと……きっと書かれていないと思うの。ここに書かれているのなら、とっくに教えて貰えているはずだから」


 教えて貰えていないということはつまり。


「答えなんて……」

「ある」


 トウコがハッと顔を上げた気配がする。


「……あるさ、きっと」


 これがいつかのハルナリの言葉のように、推測というより願望に近いものだという自覚はあった。


「問題には答えがあるだろ。それと同じで、定められたものなんだから用意されてないと困る」


 というか勝手に俺達に定めておいて、答えなしですなんてオチ許せないし許さない。


「俺は探す……そう決めたんだ」


 俺の言葉に、そうねとトウコは本を閉じた。


 彼女が言っていたように、外と関わることは色々と辛い。

 外のことを知る度に嫌でも自分達の異様さを実感してしまうから。


 それでも、こうして調べ物に付き合ってくれているのは本当に。


「トウコは優しいな」

「急に何よ……」

「いや?」


 向けられた訝しげな視線が可笑しくて俺が笑った時。


 ギッとすっかり聞き慣れた音に会話を止める。

 視線の先、少しだけ開いた扉の隙間から顔を覗かせていたのは――


「カズ君、トウコ姉」


 今いいかな、と。

 遠慮がちに瞳を揺らす彼に、俺は膝の上の本の存在も忘れて勢いよく立ち上がった。


「ユキナリ!」


 本がずり落ちる。俺の声にユキナリは扉を大きく開けた。


「カズ君」


 久しぶり。そう少し気まずそうに笑う彼の側へ俺は駆け寄った。


「カズ君ごめんね、迷惑かけちゃって」

「そんなことはいいから。もう大丈夫なのか?」

「うん、元気になったよ」


 ほらと両手を上げるなりくるっとその場でターン。

 ニコニコと楽しそうで俺はホッと安堵の息を漏らした。


「よかった……」


 そのままユキナリの体を腕で包み込む。

 突然抱き締められたユキナリはキョトンと俺を見上げていて。


「カズ君?」

「……よかった。無事で」


 腕に力を込めれば戸惑うような声が聞こえてきて、もう少しだけと心の中で断った。


 ……生きている。

 ちゃんと温かい。視線が交わっている。


 そのことにらしくもなく泣きそうになった。


 背中にそっと、温かい手が優しく触れる。


「カズ君。助けてくれてありがとう」

「え……」


 力を緩めれば、曇りの無い瞳と真っ直ぐに合った。


「……俺は何も……」


 してない、と否定しかけた俺にユキナリがううんと首を振る。


「してくれたよ。僕あんな姿を見せちゃったのに、それでも側にいてくれた。すごく嬉しかったよ。安心したんだ」


 ありがとう。


 そう言うと彼は照れ臭そうに微笑んだ。


 俺は何もできなかったのに。

 見ていることしかできなかったのに。


 そう思ってくれていたのか……


「ほら、お礼言われてるわよ?」


 トウコが軽い調子で俺の肩を叩く。

 ちゃんと返事をしろと言わんばかりのそれに、俺はわかってるよと頷いた。


「役に立てたならよかった」


 少しでも気を休めてあげることができていたなら嬉しい。

 うんと大きく応えたユキナリに俺は笑いかけた。


「そういえば、ユキナリはどうしてここに来たの?」

「二人に会いに来たんだ。早くお礼したかったから」

「全然よかったのにな……じゃあもうハルナリには会ったのか?」


 気になって尋ねてみる。予想に反して、ユキナリはううんと小さく首を振った。


「え、何で」

「会っていないの?」

「うん、まだ。カズ君達がここにいるって教えて貰う前に探してたんだけど、家に籠ってるみたいだし、それに……怖くて」


 怖い?


 首をかしげる俺達の目の前でユキナリはサッと目を伏せた。


「怖いって、どうしたのよ?」

「……僕、ハルにひどいことしちゃったから……」


 あの日の情景が頭に浮かぶ。きっとあの時のことだろう。

 紙の文字を喰らおうと向かう彼を落ち着かせようと、ハルナリがユキナリにしがみついた時。理性がほとんど残っていなかったユキナリは力任せにその手を振り払い、壁までハルナリを吹き飛ばした。怪我はなかったものの、弟を拒絶し乱暴にしてしまったという意識がこびりついているのだろう。


 俯き怯えたように声を揺らした彼は、今までに見たことの無いほど体を強張らせていた。見ている方が罪悪感で押し潰されそうになるほど、きゅっと身を縮こませて。


 何て声をかけるべきかと考えている間に、ユキナリ、とトウコが静かに名前を呼んだ。


「会いに行ってあげて。ハルナリに」

「っ……」

「……トウコ」


 無理には……と止めかけて俺は口をつぐんだ。

 彼女の瞳は俺には向いていなかった。


「ハルナリね、あなたが喰字期に入ってからずっと落ち込んでるのよ」

「え……落ち込んでる?」


 怒ってるじゃなくて?


「そう」


 予想外だったのか驚いて顔を上げたユキナリの手を、トウコは両手で包み込むようにして握った。


「今のハルナリには、ユキナリが必要よ」


 あまりの真剣さにユキナリが戸惑うのがわかった。


 トウコは毎日様子を見に行っているようだが、ハルナリの様子を俺は詳しく知らない。トウコから話に聞くだけで会いに行ってはいなかった。俺の役目じゃない。


 ユキナリの役目だから。


「僕が……?」

「この村で唯一、あなたたちには家族がいる。一人じゃない。支え合える存在がいる」


 今この村に血縁者がいる人は二人以外にいない。

 皆家族のもとを離れ生きている。


「……そのことは、とても特別なことなのよ」


 手から伝わってきたであろう震えにユキナリは顔を上げトウコを見た。

 そして力強く頷く。


「わかった」


 今から行ってくる、と。

 彼はトウコの手を握り返して扉から出ていく、前に振り返った。


「あのね」


 柔らかく微笑む。


「トウコ姉もカズ君も、僕の家族だよ」


 それじゃあと今度こそユキナリは出ていった。ハルナリのもとへ。


「はは」


 これは予想外だと俺は笑った。


「だってさ、“トウコ姉”さん?」

「……」


 トウコは何も言わずに、再び閉まった扉を見つめて。


 僅かに瞳を潤ませながらペンダントを握り締めていた。




 ◆◆◆


 「おーい、生きてるかー」


 戸の前に立ちそう声を上げれば、中から微かに物音が聞こえてきた。

 片手に膳を持ったまま俺は戸が開くのを待つ。


 今日の夕餉は久しぶりにユキナリとハルナリが来たことで雰囲気が明るかった。ユキナリは喰字期明け祝いだとアキラさんから果物を貰っていたし、ハルナリもすっかり元気になっていた。ただユキナリの側を片時も離れようとはしなかったけれど。

 さすがに二度目の泊まりは不安でできなかったらしく、集会場に残って夜までくつろぐのだと嬉しそうに報告してきた。一応ユキナリは病み上がりだが、トウコや家の近いハルミさんが付いてくれているから安心だ。


 ひとまずあの二人はもう大丈夫だろう。

 トウコからこっそり聞いた話では、ハルナリはユキナリに振り払われたことではなく、俺と同じように何もできなかったことを責めていたらしい。

 ユキナリが何を言ったのか、何をしたのかはわからないが、また元のように笑顔を浮かべるようになっていた。


 だからあと残る問題はコイツだ。


「……おい」


 遅すぎだろと心中で突っ込む。

 さっき物音しただろ。絶対いるだろ。何で出てこないんだよ。


「サクヤ、いるんだろー?」


 アキラさんから受け取った膳を抱え一人立つ俺。

 せっかく夕餉持ってきてやったのに。いつまで待たせる気だ。


「仕方ないな……入るぞー」


 返事を待つことなく戸を開ける。

 閉まっている奥の部屋で慌てたような物音が聞こえてきた。

 ほらいるじゃん。


 その障子もスターンと勢いよく開ければ、布団の上に体を起こしいつもの布を着けたサクヤがいた。

 俺を見た途端、面倒くさそうに顔をしかめる。


「お前……勝手に入ってくんなよ」

「居留守使うサクヤが悪い」


 コトンと膳を置き、恨むなら鍵付きの戸を買えないこの貧乏な村を恨めと言ってやった。それからチラリと布団に視線を送る。どうやらついさっきまで寝ていた様だ。


「何、やっぱ体調悪いの?」

「……普通に寝てただけだ。お前のせいで起こされたけど」

「俺はお前が取りに来ないから、夕餉を持って来てあげたんだけど?」

「別に頼んでない」

「お前なあ……」


 そんな言い方をするから冷たいって勘違いされるんだぞ?


 俺の突っ込みを無視し、サクヤはじっと目の前の膳を見つめた。

 でもいつまでたっても手をつけようとしない。


「ん、食べないの?」

「いや……もらうけど」


 どこかぎこちない返答に首をかしげる。


「お前ここにいんの?」

「食器返しに行くからいるつもりだけど」

「あー……」


 サクヤは何か迷うように視線を泳がせていたけれど。

 しばらくしてため息を一つついた。


「……気味悪かったら気にせず帰れよ」

「は?」


 何言ってるんだと聞こうとして俺は口を噤んだ。サクヤが顔を覆う布をそっと外す。


 現れたのは、身内贔屓なしに見てもハッとするほど整った顔立ち。

 そして――



 ――頬に深く刻まれた【字】の文字。



 躊躇っていたのはそういうことだったのかと理解した。


「そんなこと思わないから。ああ、俺出た方がよかった?」

「別に」


 布を横に置き箸を手に取ったサクヤは、ようやく米を口に運んだ。


「お前が気にしないならいい」

「今さら気にしないって」


 サクヤの素顔を見るのはこれが初めてじゃない。

 何度も見たことがある。それに。


「サクヤだけじゃない。俺だってあるさ」


 俺は軽く肩をすくめ、手袋を纏った右手を軽く持ち上げた。


 喰字鬼の証である初めの文字。

 それは今も消えることなく俺達の体のどこかに刻まれている。

 喰字鬼から解放されない限り消えないもの。


 俺は手袋を着ければ隠せるが、サクヤのように顔などの目立つところに刻まれてしまうと皆と食事を共にとることもできない。顔を覆わないといけないため色々と不便は多いだろう。


 俺は黙々と食べ始めたサクヤの様子を何気なく眺めていたが、取りに来なくなったのは【字】が原因ではないよなと気づく。

 取りに来ることは今までできていたんだし。


「なあ、何でここ最近夕餉取りに来なかったんだ?」


 俺の問いにサクヤは一瞬手を止め、それからまた手を動かした。


「寝てた」

「はあ?」

「寝不足なんだよ」


 寝不足て。


 サクヤ曰く、夕餉の時間近くになると決まって寝てしまうらしい。


「何で?」

「……知らねえ」

「えー」


 そんなことあるのか。でも体調は悪くはなさそうだし。


「疲れてるんじゃない?」

「かもな」


 自分のことだというのに素っ気ない。

 いつの間にか食べ終わっていたらしく、ご馳走さまとサクヤは箸を置いた。


「……で?」


 素早く布を着け直し俺を見る。


「何の用で来たんだよ。届けに来ただけじゃないんだろ?」

「はは、さすが。何でもお見通しだ」


 膳を受け取りながら苦笑する。

 サクヤは本当によく人を見ているな。


「報告に来たんだよ」


 集会場で全体に言われたことをサクヤにも伝えるように、俺は頼まれてきていた。


「まず一つ目ね、ユキナリとハルナリが今日から復活した。ユキナリの体調ももう大丈夫だし、ハルナリの方もすっかり元通りになってる」

「良かったな」

「うん。それで二つ目、運命の文字は見つかってない。今は昔の文献とか探してみてるんだけど、てんで駄目だ」


 これを伝えるのは少し複雑だ。

 正直見つけられていない今の状態では来たくなかったのに。


「まだまだ時間がかかると思う」

「だろうな」

「それから最後。これが本命だけど……」


 長老様が言っていた台詞を思い出しながら口を開く。


「明日の夜、政府の人間が村に来る」


 政府、と聞いた途端サクヤの瞳がスッと細められた。


「明後日から葬式の準備を始めることになったらしくて。見届け役の人が来るみたいだ。数日間滞在する予定だって。くれぐれも揉め事を起こさないようにって長老様が言ってた」

「……わかった」


 絶対わかってないだろ。不満に思っているのがバレバレだ。


 そんな突っ込みを声に出すことなく心中に留め、空になった膳を持ち俺は立ち上がった。


「じゃあ伝えたし、俺戻るから。明日は寝ないでちゃんと取りに来いよ?」

「……気が向けば」

「一食抜くつもりかよ。来い」


 まったく、と息をつく。


「おやすみ」

「ああ」


 障子を閉めればまた、布団に倒れ混んだのであろう音が微かに聞こえてきた。

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