第二章
外はまだ暗かった。サクヤと別れてから片手で数えられる程の刻しか経っていないだろう。咎める人がいないのは好都合だ、と目を覚ましていない村の通りを全力で駆けながら俺はそんなことを考えた。
あっという間のはずの道のりが長く感じる。ユキナリの家は三軒隣。田舎のせいで一軒一軒の間が少し離れているとは言っても、数秒で着く距離だというのに。
もどかしさを抱えたまま地を蹴る足に一層力を込める。
ようやく辿り着いた家の戸に手を掛けた時。
「うっ、ぅう……ぐ……」
唸り声が耳に届き俺は急いで開け放った。中へと足を踏み入れる。
俺の家と同じ構造の中。床に散らばる大量の紙に乱れた布団。
その中央で蹲っているのは。
「はあ、は……っは……」
「ユキナリ!」
「ユキっ……!」
頭痛でもするのか頭を両手で抱え込むようにして、肩で荒い息を繰り返すユキナリ。
ひとまず落ち着かせようと駆け寄りその肩に手を伸ばす。
「大丈夫か、ユキナ……」
パシッ
「えっ……」
「ウッ……ガ……ぅうっ……」
はじかれた手を引き戻すことも忘れ俺は固まった。
顔を上げたユキナリの瞳――
――白色となった瞳が、はっきりと見える。
その色を俺は、俺達は。
嫌と言うほどよく知っていた。
「こ、れは……」
「ウゥッ、ゥア……ッ」
「ちょっ、ユキナリ!」
我を失ったように暴れる体が目指すのは床に散らばった紙で。
確信する。これは。
喰字期、だ。
「ユキっ!」
ハルナリが必死に抱き付くが、その体をユキナリは乱暴に振り払った。
壁まで吹き飛ばされ顔を歪めるハルナリには目もくれず、紙に手を伸ばすユキナリ。
弟のことを大切に思ういつもの彼からは考えられないその行動に、すでに理性が弱くなってしまっていることを悟った。
「くっ……!」
どうする。どうすればいい。
俺は手袋を掴み必死に頭を働かせた。
他人の喰字期なんてどう対応すればいいのかわからない。
文字を喰わせるか?
欲を満たせば落ち着くだろう。でも、喰わせていいのか?
『昨夜、文字に喰われた者が出た』
昨日の長老様の言葉が頭に響く。
喰わせたら。喰わせたらユキナリの命のカウントダウンを早めることになる。
それでいいのか。でも。
今。命を落とすか、生かすか。
そう考えれば迷う理由はなかった。
天秤が傾くのは「死」ではなく、「生」だけだ。
「ハルナリっ!」
吹き飛ばされたままの体勢で、ショックを受けたようにユキナリを見つめるハルナリに向かって声を張り上げる。
「ここは俺に任せてお前は離れろ」
「え……」
「サクヤのとこに行け。治まったら知らせるから」
ハルナリに今のユキナリを見せるのはまずい。
「でもっ……」
「早く!」
「っ、わ、わかっ、た」
フラフラと立ち上がりハルナリが外へ飛び出していくのを確認して、俺はユキナリに向き直った。
「……グウッ、グ……!」
文字の書かれた紙に袖の破かれた右腕を押し当て、もっとと言わんばかりに唸っている。その腕はまだほとんど白かったが、徐々に文字が浮かび上がってきて黒く埋まっていく。ユキナリは全て喰って白紙となった紙を放り投げ、また新たな紙に手を伸ばして。それをひたすらに繰り返していた。止まりも振り返りもしない。
どうする。
俺は素早く頭を回転させた。
散らばっている白紙ではない紙はあと数枚。けれどどれも書かれている文字の量は少なく、全て喰らったとしても喰字欲は完全には満たされないだろう。ユキナリは止まらない。もっと文字のあるものを喰わせないと。
俺は飛びつくようにして棚に向かった。
喰字期は不定期だ。そのため基本的に各家には、いつ喰字期が来ても良いように書物が備えられている。当然ユキナリにも支給されているはず。
引き出しを開ければ予想通りいくつかの書物が丁寧に並べられていて、その中から一冊だけを掴む。急いで閉めて振り返った時。
「グアァッ」
「っ、いっ……!」
正面から何かに飛びつかれ激しく背中を棚にぶつける。白い瞳をギラギラと光らせるユキナリは物凄い力で爪を立ててきた。痛みに悶えながらも何とか本を持つ右手を上に掲げ、伸ばされた手を避ける。
「ユキナリ、落ち着けっ!」
紙を喰らいきったのだろう。彼の瞳は俺の持つ本しか映していなかった。
もっと、もっとと。欲に満ちたその様はまさに、鬼だった。
「俺だ、カズミツだよ。落ち着け……った!」
ビッと頬を引っ掛かれ思わず手を緩める。その隙を逃さず素早く俺の手から本を奪い取ったユキナリは、床に倒れ混むようにして座ると本に手を押し付け始めた。
文字が、真っ白だったユキナリの肌に刻まれていく。
それを俺は見ていることしかできなかった。
色々な感情が混ざり合い息が苦しくなる。
手袋に隠れた右の手のひらが、じんわりと熱を帯びたような錯覚がした。
わかるから。全部。
喰字することしか考えられなくなるのも。ただ無茶苦茶に喰字をしたくなるのも。
全部俺も何度も経験したことのあるものだから。
「グウッ……う……っやぁ……や……」
不意にユキナリの口から、唸り声以外の声が発せられた。
始めと比べて元の黒色に近くなってきた瞳から、ポロポロと雫が溢れ出す。
「や、だ……ア……死に、たくなイ……」
……ああ。
「クイ、たくな……い……グゥ……」
俺はグッと目を瞑った。
「た、ス……け……て」
何も、できない。何もしてやれない。
助けて、やれない。
【血縁の者を含め、人を無闇に招いてはならない】
この時初めて俺は、村の掟の真意を理解した。
◆◆◆
夜が明けてきた頃。俺は戸の前に立っていた。
起き出した村には生活音が響いていて、さっきまでとは大違い。
長かった夜が嘘だったかのようにいつも通りだった。
声をかける気が起きず、無言で戸に手を掛ける。
「カズくんっ……!」
入ってきた俺を視界に入れた途端、駆け寄ってきたハルナリが勢いよくしがみついてきた。
真っ赤に腫れた目から溢れる涙。
握り締めていたのかくしゃくしゃになった衣服。
「カズくんっ、ユ、ユキはっ、ユキはっ……!」
「……大丈夫、安定したよ」
ずっと不安だったのだろう。
そう答えればハルナリはホッと表情を和らげた。
「カズミツ」
呼ばれて顔を上げる。障子に軽く肩を預け立つサクヤは俺の顔をじっと見た後、ユキナリの家のある方向に視線を移した。
「サクヤ……」
「喰字期か」
質問と言うより確認に近いその言葉に俺は頷く。
「……ん。けど一波は乗り越えたから徐々に治まると思う」
「ありがと、カズくんっ……」
またポロポロと涙を流すハルナリに、もーと笑みを浮かべて俺はクシャっと頭を撫でてやった。
「まったく、ハルナリは泣き虫だなあ。こんくらい良いんだよ。ほら顔上げろって、な?」
「……う、ん……」
いつもならパッと笑顔に変わるのに。
歯切れの悪い答えに俺は違和感を覚える。
「ハルナ……」
声に被さるように外でゴーンと鐘が鳴った。朝礼の鐘だ。この鐘が鳴ってしばらくしても家から出てこないと、喰字期に入ったということになってしまう。
「そろそろ外に出よう。朝礼が始まる」
結局今、サクヤの家に三人揃ってしまっているのもまずい。
二人を促し急いで外に出て集会場に向かう。
すでに三分の一ほどの人が集まっていた。
長老様を中心に何やら話している。
「あっ!」
先に着いていたらしいトウコが俺達に気がつき駆け寄ってきた。
かと思えば挨拶も何もなしにハルナリの肩を掴み覗き込む。
「ハルナリ、大丈夫!?」
「へ……?」
「ユキナリに喰字期が来たって、今さっき大人が話してるのを聞いたのよ。あなたたち確か昨日……」
「春成」
突然割り入るようにして響いてきた声。
振り返れば紺鼠の着物を着た長老様がこちらを見ていて。
トウコがサッと口を噤み俺は思わず身構える。
けれど長老様の瞳は俺達に向くことなくハルナリだけを映していた。
「雪成のことで話がある。来なさい」
「……は、はい」
普段長老様と会話をする機会が少ないハルナリは、緊張した様子でぎこちなく足を踏み出した。長老様たちの方へと進んでいく。
その後ろ姿と俺を交互に見やったトウコは何かを察したのか、一度力強く頷くとハルナリを追いかけていった。
聡い彼女のことだ、きっと何かあった時にハルナリを庇うためだろう。
俺は、動けなかった。
「……はあ、お前さあ」
地面に並ぶ影を見下ろす。
集会場まではあと少し。その距離を埋める気にはまだなれなくて。
「辛いんだろ。無理すんのやめたら?」
「……はは」
隣からの呆れたようなため息に苦笑する。
何でコイツにはいつもバレるんだ。
「俺そんなにわかりやすかった?」
ハルナリやトウコの前では気を付けていたつもりなんだけど。
「アイツらは気づいてねぇよ」
「……そっか」
ならよかったと安堵する。皆を不安にさせるわけにはいかないから。
それが年上の役目。
「いきなりハルナリを任せて悪かったな。驚いただろ」
「別に。起きてたから平気」
「マジか、お前早起きなんだな。ちゃんと寝ないと体力持たないぞー?」
ふざけて軽い調子でそう返してみるけれど、偽ることは許さないとばかりの無言の圧にすぐに俺は口を閉じた。
辺りが静かになる。この村の静けさはいつも大きく感じられて。
「……サクヤ」
気づけばまた、俺は地面を見つめていた。
「俺さ……初めて、他人の喰字期を見たんだ」
仕舞いこもうとしていた言葉が勝手に溢れ出していく。脳裏に浮かぶのはさっき見た、何かに追われるようにして必死に本に肌を押し付けるユキナリの姿で。
「辛かった。見てることしかできなくて、助けてやれない。苦しんでるユキナリに何もしてやれなかった」
そのことがあんなにも辛かったなんて知らなかった。
きゅっとシャツの胸元を掻き寄せ、手に伝わってくる自分の安定しない鼓動に俺は息を吐き出す。
まだ少し息苦しい。
気を抜けば震えてしまいそうになる手を握り締めた。
「この村についてようやくわかったよ」
人を家に招いてはいけない掟があるのも、一軒一軒の感覚が広いのも、血縁者の家が遠く離されているのも。
「今日俺が感じたみたいな無力感を、味わせないためなんだよな。この村の全部が俺達を守ってた。親しい人の喰字期を見るのは辛いから。いつ誰に喰字期が来たとしても傷つく人が出ないようになってたんだ」
ユキナリ達は昨日偶々その掟を破り、運の悪いことにそのタイミングで喰字期がやって来てしまった。
偶然が重なった結果、ハルナリはユキナリの喰字期を目にしてしまった。
今日くらいいいんじゃないかと、二人に勧めたのは俺だ。
「ユキナリがさ……喰いながら言ったんだよ。死にたくない、喰いたくない、助けて、って」
「……」
「波乗り越えて落ち着いてきたら、泣いてた」
『どう、しよっ……僕、ハルに、ひどいことっ……』
床に散乱したたくさんの真っ白な紙。所々文字の消えたまま放置されている本。
黒寄りの灰色に変化している瞳は今にも溢れそうなほど涙が溜められていて。
『こんな、姿……見せ、てっ、ぜったい、嫌われたっ……』
『……大丈夫、大丈夫だ』
どうしよ、と痛々しいほど震え顔を歪めるその体を、俺は強く抱き締めるしかなかった。
「どうしたらさ……楽にしてやれるんだろうな」
俺が口を閉じても、サクヤは黙っていた。
俺も彼の立場だったらそうなっていただろう。
この問いに答えなんてあるのか。
喰字鬼から解放される方法が何かあるのか。
わからない。知らない。教えてもらっていない。
そんなことばかりで。
俺達は弱かった。
「……悪い、変なこと言った」
沈黙が怖くなって俺は逃げるようにそう口にした。
「忘れて」
取り繕うように笑って。その場を離れようと歩き出す。
サクヤは何も言わなかった。
不意に無言でグッと腕を捕まれ後ろへと体が引き戻される。
「……運命の文字」
間にポツリと落とされたその言葉に心臓がドクンと波打つのがわかった。
「……え?」
「見つければいい、運命の文字を」
振り返った俺よりほんの僅かだけ高い位置にある漆黒の瞳は、静かな光を宿していた。
【運命の文字】……それは。
「無理だろ……」
思わず俺はそう呟いた。
喰字鬼にそれぞれ、出生時から定められていると云われている文字。
それに出会い喰らうことができれば喰字鬼から解放される。
喰字鬼の存在を知る者なら誰もが知っている話だ。
「そんなの、どうやって見つけるんだよ」
この世界に文字が全部でいくつあると思ってるんだ。
俺達は日本の喰字鬼だから日本語しか喰らわないが、それでも膨大な量だろう。
それに自分の【運命の文字】が一つだけとも限らない。五つくらいあったらその分時間も労力もかかるし、第一どうやって見つけるのかもわからない。その文字を見ただけでこれだとわかるのなら話は別だが、そうでもないらしいと聞く。かといって全ての文字を喰らっていたら体が持たない。
探し出すなんて不可能に近い。
俺が知っている中でも見つけられた人はたった一人だけ。
だからこそ俺も選択肢から外したのだ。
「探してる間にあっという間に時間切れだ。確かに運が良ければ出会えるかもだけど、全員見つけられるとは思えない……」
「じゃあこのまま何もしないで死ぬか」
「っ……」
「本気で自由になりたいなら探すしかない。難しかったとしても。だろ?」
サクヤの声色はさっきから全く変わっていなかった。淡々と事実を並べていく。
「オレはどっちでもいい」
布に覆われた向こうで薄く笑う気配がする。
「お前が探すなら探すし、探さないなら探さねえ。辛いからって今死ぬことを選ぶならそれでもいい。とことん付き合うさ。どうせ変わんねぇからな」
オレ達は。
「結局は死ぬ」
そういう運命なんだろ、と。
サクヤの瞳に諦めの色が一瞬浮かび消えた、ような気がした。
思い返せばいつも、サクヤは静かだ。顔を隠しているせいもあるけれど、何を考えているのかわかりにくいとよく言われているし、あまり自分の意見を表に出さない。無愛想だし皆でいると無口な方だ。
そんなサクヤの中に、きっと長く仕舞われていたであろう想い。
ようやく見せてくれたそれが……死に対する諦め?
「……ふざけるな」
俺はグッと拳を握り締めた。
「何でそんなこと言うんだよ。何で諦めてるんだよ」
キッと目の前のサクヤを睨み付ける。顔色は変わらないまま。
そのことに無性に苛ついてきて、感情のままにグイッと胸ぐらを掴み寄せた。
「結局って何だ。そういう運命って何だ。死ぬことが俺らの運命だって、サクヤは受け入れてるのかよ?」
何で。
「生きたくないのかよっ!」
「……」
返ってきたのは沈黙。
サクヤは黙っている。黙って俺を見返すだけ。何も言わない。
この時ばかりは、俺でも何を考えているのかわからなかった。
理解できなかった。
「……そっか」
俺は手を放した。
「ならいいよ」
決めた。
「俺、運命の文字探す」
探してやる。
急にやる気を出した俺にサクヤが僅かに目を見開く。
俺はふんっと気合いを入れて歩き出した。
サクヤは動かないから当然俺らの間の距離は大きくなっていく。
でもそんなの知るか。
俺は怒ってるんだと開き直る。
いくらサクヤでも今のは許せない。許すもんか。
「サクヤ!」
怒りを勢いに乗せて振り返る。
そのまま立ち去ると思っていたのか、すっかり油断している様子のサクヤに声を投げた。
「昨日俺が言ったこと、覚えてるか!」
「は?」
遠くからでもわかる、何だ急にと言わんばかりの目。
何で皆わかりにくいと言うのだろう。
こういう時はすごくわかりやすいと思うのに……って違う。
こんなことを言いたいんじゃない。
俺はサクヤを思いっきり睨み付けた。
「“皆”の中に、お前は入ってるんだからなっ!」
ビシッと指差す。
「絶対、生きたいって言わせてやるから。忘れんなよっ!」
ふん、ともう一度息を吐き出して、今度は振り返らずに歩き出す。
絶対、死なせるもんか。
俺は左手で右の手袋を強く掴んだ。
……サクヤに、生きたいって言わせてやる。
久しぶりの感情に俺の心は静かに燃え上がった。
「……何だよそれ……」
後ろでサクヤがそっと瞳を伏せたことには気づかずに、俺は集会場へと足を踏み入れていった。
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