人と鬼を繋ぐ文字

詠月

第一章

 ここは、静かだ。


 聞こえるのは風や生き物などの自然の声だけ。人工の灰色は一切なく緑で覆われた空間。漂う空気は澄んでいて、温かく緩やかな時が流れていく。この穏やかさは眠気を誘うのに効果抜群で、先程から深い眠りへと引き込もうとしてくる。


 このまま寝てしまうのも良いかもしれないと思い始めた時、微かに耳に届いた草木を踏み分ける音に俺はそっと目を開いた。


 視界に飛び込んできたのは溢れんばかりの日差しではなく、夕暮れに染められた世界。いつの間に日が暮れたのだろう。ここに来たのは昼頃だったはず。随分長いこと微睡んでしまっていたようだ。


「そろそろ戻らないとな……」


 どんなに慣れているにしても夜の森が危険なことに変わりはない。

 帰ろう、と俺は腰掛けていた木の上からトンと地面に着地した。乱れた衣服を適当に正し、手袋に付いた木くずを払う。歩き出せば目の前の茂みがサッと開かれて。


「やっぱりここにいたのね」


 現れたのは似たような服を身に纏った一人の少女だった。


「トウコ」

「なかなか帰ってこないから見に来たの」


 袖に付いた葉をサッと払い落として俺を見る。額を隠すように丁寧に切り揃えられた前髪の隙間から覗く、優しい光を宿した栗色の瞳はいつも通りで。

 俺はそのことに密かに安堵した。


「もう皆揃ってるわよ」

「え、俺もしかして最後?」


 やばい、ゆっくりしすぎた。


 焦り出す俺にトウコの呆れたような視線が突き刺さる。


「もしかしてじゃなくて最後よ、まったく。また長老さまに怒られても知らないからね」

「う……」


 怒ると怖いんだよなあ、あの人。


 そう呟けば、怒られるようなことをするのが悪いんでしょと一蹴されてしまった。

 何も言えない。


「さ、戻りましょ」


 そう言ってトウコはさっさと踵を返す。俺は急いでその背中を追いかけた。


「なあ、トウコ」


 深いところまで入っている訳ではないから、山の入口はすぐそこだ。整備はされていないが人の足によってすっかり固くなった道。踏み外さないように慎重に足を運ぶトウコに俺は声をかけた。


「なに?」

「いや、その……もう外出て大丈夫なのか?」

「大丈夫って?」


 キョトンと首をかしげるトウコに俺は少し躊躇ったあと。



「だってお前……喰字期明けだろ」



 無理しない方がいい。


 俺の言葉にトウコは歩みを止めた。


「大丈夫よ。今回は意外と軽かったの」


 年齢にそぐわない、落ち着いた微笑み。心なしか疲れて見えるその表情は、この村ではすっかり当たり前になっているもので。


 ふわりと吹いた風がトウコの髪を揺らす。

 僅かに乱れた前髪の間から姿を現したのは、墨で描かれたような【字】という文字だった。その黒は白い肌と相まって異様なまでに存在感を放っている。


 隠すようにサッと前髪を正したトウコは、俺の視線に気付き曖昧に笑った。

 見ているのが苦しくなって、不自然にらないように目を逸らす。



 ……俺たちには、心から笑うなんてことはできない。



 木々の隙間から見える村はいつも通り、静かで、生気が感じられなくて、どこか淋しい。寄り合わせの村。


 無意識に触れていた手袋ごと自分の手を握り締めれば、擦れたのかシャツの袖が捲れ、幾数の黒い文字の這う腕が露になった。

 隣でトウコが小さく息を飲む気配がする。

 何年見ても、何度見ても、誰のものを見ても。

 決して慣れることのできないこの醜い肌。


「……」



 ――俺たちは、鬼だ。





 ◆◆◆


 出生時に体のどこかに【字】という文字が刻まれていること。それが鬼の目印だ。

 部位はどこでもいい。【字】と刻まれた赤子の存在は見つかり次第政府に報告、親元から引き離されてこの村へと保護される。


 明らかに化け物だとわかる子を愛する親などごく稀だ。

 けれどそんな親に恵まれたり、出生地が田舎だったりする鬼の子は存在が知られるまでに時間がかかる場合もある。

 そのためこの村の住人は、出生時からいる者か幼少期から遅れて来た者かの二通り。


 鬼たちに自由はない。

 保護されたと言っても実際にはこの村に閉じ込められているようなもの。

 外の世界へ出ることは叶わず、行き来できるのは村と近くにあるこの山だけ。

 それ以外の世界を鬼たちは知らない。


 ――鬼は、文字を喰らう。


 不定期にやって来る喰字期。「文字を喰らいたい」という強い衝動に駆られ、ありとあらゆる文字を手当たり次第喰らいだす期間のこと。喰字欲という、睡眠欲や食欲とよく似たその欲が満たされるまで喰字期は終わらない。


 喰らった文字は書物から消え鬼の肌へと刻まれていく。肌に浮かぶ文字は鬼の証。


 政府は俺たちのような存在をこう呼ぶ。



 喰字鬼、と。



 ◆◆◆


 山を下り向かったのは村の中央にある集会場。

 どうやら、最後というのは本当だったらしい。決して疑っていたわけではなかったけれど。他の家――小屋と表した方が似合うだろう――と比べ大きく造られているそこにはすでに、幾つかの灯りが点いていた。

 中から漂ってくる食べ物の匂いと人の気配に戸にかけた手を止める。


 怒られるだろうなあ。結構大遅刻だし。ついこの間も怒られたばかりだし……


「何してるのよ」


 いつまでも入ろうとしない俺に痺れを切らしたのか、トウコが躊躇なくガラッと引き戸を引いた。

 ああ……


「あ、カズくん来たあ!」


 畳が一面に敷かれた、遮りの一切ない広間には、一部の事情がある人を除く村人が集まっていた。二列に向かい合って並べられている膳。その前に申し訳程度に用意された座布団。その他には物らしい物のない簡素な広間。


 一番手前に座っていたハルヒコが音に振り返り、俺を見て嬉しそうに声を上げた。

 それにより、その場にいた全員の視線を一気に浴びることに。


「あらあらー」

「なんだやっと来たのか、カズミツ」


 いつまで経っても子供だなーと、広がっていく陽気な笑い声にホッと安心したのも束の間。


「……」


 上座に座る老人と目が合い俺は息を飲んだ。

 ピンと正された姿勢に隙のない様。明らかに不穏な空気が放たれていて、近くの人がさりげなく目を伏せていたり目を閉じていたりと気を張っている。


 長老様がゆっくりと口を開きかけた時。


「えへへ、よかったあ」


 故意なのか偶々なのか。

 ハルヒコが満面の笑みで無邪気に長老様を遮った。


「遅かったね、皆でカズくんのこと待ってたんだよ!」

「え、あ、ああ……」

「今日のご飯ね、熊なんだって。久々でしょ。昼にサクくんが仕留めたんだよ、すごいよね!」


 すごい。熊を仕留めたのは確かにすごい。


 でもなハルナリ、ここで天然発動はまずい。

 よりにもよって長老様を遮るのは、マジでまずい。


「カズくん?」


 内心大焦りの俺が不自然に浮かべる笑みに、どうしたのと小首をかしげたハルナリ。

 その肩に隣から伸びた手がポンと置かれた。


「ハル、今はダメだよ。後にしないと」

「えっ、何でよユキ」

「僕たちは後でも話せるでしょ?」


 ふんわりと微笑んだのはハルナリと瓜二つの顔を持つ少年。


「それに……」


 ユキナリは同情するかのような視線を俺に向けた。


「まずカズ君は長老様とお話しなきゃだから」

「うっ……」

「長老様と……何で?」


 パチパチと瞬きをしたハルナリが答えを求めて口を噤む。

 そこでようやく気がついた周りの異様な静けさに俺はハッとして。


「和光」


 その声は強く重く心の底まで響き渡り、空気を震わせた。


「こちらへ来なさい」

「……ハイ」


 呆れたようにため息をつくトウコと気の毒そうに見つめてくるユキナリ、未だポカンとしているハルナリが視界に入る。


 俺は泣く泣く覚悟を決めて長老様の元へと歩み寄ったのだった。




 ◆◆◆


 長老様によるありがたいお説教の後。予定ではもう終わっているはずだった夕餉は予定よりも二時間程遅れて始まることとなった。


 まあ元凶は俺なわけで、すんませんとこの場にいる村の人に頭を下げまくったのだが。笑って許してくれるあたり本当にこの村の人は心が広いと思う。


 黙々と食べ進めながらそんなことを考えていれば、いつの間にか自分の分を完食していた。失敗だ……せっかくの贅沢品だったのだからもっと味わえばよかった。


 後悔しつつそっと箸を置き手を合わせる。


 ご馳走さまでした、と。この一言を言えることがどれだけ恵まれているか、きっと普通の人にはわからないんだろう。

 美味しいものは美味しいと言えること。味覚があっての「食事」。


 空になった椀と満たされた空腹に沸き上がる不快感から俺は目を逸らした。


 シンとした集会場に響く食器の音と粗食音。食事中は一切の会話をしないというのが暗黙のルールで、お喋りなハルナリでさえも破ったことはない。もちろん俺も。


 全員が完食するのを待つ間、いつも通り遠くのからすの声に耳を傾けて暇を潰そうとした時。

 スッと引き戸が開いて黒髪の青年が入ってきた。


「……」


 彼はぐるりと中を見渡し状況を把握すると、無言のまま小さく長老様に礼をした。目より下を覆う黒い布が揺れる。そのまま所在無さげに立ち尽くしているようだったので、こっそりと片手を上げればすぐに気づいて俺の隣へとやってきた。膳も座布団も何もない畳の上に腰を下ろし無言で遠くを見つめている。


 サクヤが来るなんて珍しい。


 どうしたのかと聞きたかったがもう少しお預けだろう。

 その後も村人が数名入ってきて、サクヤ同様に静かに腰を下ろす。


 しばらくして最後の村人が箸を置いた。もう食べている者は誰もいない。

 サクヤが来たことで今この場にいないのは丁度喰字期が来ている数名になっていた。


 いつもはこの後すぐに膳を片付けるのだが何故か今日は違い、皆の視線は長老様へと集まっていく。俺は内心首をかしげた。


「我が村の民よ」


 落ち着いた口調に芯の持った声が空気を震わす。


「今日皆を集めたのは他でもない、伝えなければならないことができたからだ」


 言葉を一度切り、長老様は一人一人の顔をゆっくりと見回して。



「――昨夜、文字に喰われた者が出た」



 ヒュッと誰かが息を吸う音が聞こえた。

 人で溢れた集会場内に重い沈黙が下りる。


 俺は長老様の言葉をすぐには理解できなかった。


 文字に、喰われた……?


 ドクンと心臓が波打つ。


 喰われたって。まさか。でも。

 誰が。


 トウコもユキナリもハルナリも、同じように言葉を失っている。

 基本無表情なサクヤでさえも顔を強張らせて。俺は震える指先をグッと握り込んだ。


 文字に、喰われた。

 村人の誰かが。


 きっと、今ここにいない人達の中の一人だ。

 喰字期になっているのはその人達だけだから。じゃあ……


 誰が、死んだ?


「近々、葬式を執り行う。国へは既に報告の文を送った。その返答次第で日程を組むこととなる」


 そう告げた長老様の瞳には、何も浮かんでいなかった。




 ◆◆◆


 あんなに空気の重くなった空間は初めてだったかもしれない。

 片付けられた膳と座布団のせいで集会場はさらに広く感じる。いつの間にか残っているのは俺とサクヤ、トウコ、ユキナリ、ハルナリの未成年組だけだった。幼い頃から一緒の長い関係だが、お開きになった今もまだ、誰も何も発しようとはしなかった。


 当たり前だ。


「文字に喰われること」は俺達が最も恐れ、そして絶対に避けなければいけないことだから。


 そっと自分の腕に触れる。

 今は見えないが長い袖の下、刻まれた無数の文字はとっくに左腕を埋め尽くし、それだけに留まらず左半身をもほとんど飲み込んでしまっている。


 体が全て文字で埋め尽くされることが喰われること、そして死を意味していた。


 喰字鬼は喰うだけではない。常に喰われながら生きている。

 十七年。たった十七年で俺はここまで飲まれた。決して喰字欲が強いわけでもない、俺は平均的だ。それでも今のままでいけば、三十を越えたあたりまでしか生きられないだろう。


 俺は伏せていた目を上げた。

 すぐ隣にはサクヤとトウコが、向かいにはユキナリとハルナリがいる。


 皆がどこまで飲み込まれているのかはわからない。軽率には聞けない雰囲気が完全に出来上がってしまっているのもあるが、単純に怖くて聞けないのもある。


 次の喰字期で誰かが消えるかもしれないという不安と恐怖は、毎日感じているというのに一向に慣れる気配はない。無事に喰字期を終えたと聞いた時の安心度は半端ではなかった。


 無意識にまた触れていた手袋に視線を落とす。


 次は……


 次に喰われるのは、誰なのだろう。


「……痛いのかな」


 ポツリと溢された声に俺達は一斉に顔を上げる。四人分の視線を浴びることになったユキナリはしまったと口許を押さえた。


「ご、ごめん……」


 声に出すつもりはなかったんだと焦り出す。


「痛いって?」

「えっと……」


 ハルナリが聞き返す。ユキナリは迷うようにその瞳を揺らした。


「完全に喰われる時って、やっぱり痛いのかな」

「……」

「必死に喰字しないように耐えるのと、どっちの方が辛いんだろうって……」


 その疑問に答えられる人はいなかった。ユキナリは口にしたことを後悔するかのように眉を下げる。


「今言うことじゃないかもしれないけど、ずっと気になってたからつい……不謹慎だよね、ごめん」

「いや……」


 そんなことないと俺は首を横に振った。


「痛みか、どうなんだろうな」


 考えようにも、完全に飲み込まれてから死ぬまでにどんなことが起こるのかなんて想像がつかない。教えてもらっていない。基本的に喰字期に入ると一人で家に籠る決まりになっているから、他の人の喰字期さえも見たことはないのだ。


「痛いんじゃないかしら」


 迷いなくトウコが答えた。


「この世界が喰字鬼に優しいことなんてないもの。実際にほら、喰字欲を耐えようとしたら、まるで許さないとでも言っているみたいに文字が痛むでしょ。それなのに最後だけ甘くなるなんてことはないと思うの。痛みではなかったとしても、きっと何かしらで苦しめられる」


 トウコは胸元で輝くペンダントを見つめて、悲しげに微笑んだ。


「私達は常に戦っている。それがたとえ最期だったとしても、変わらない……喰字鬼である限り」


 一生を苦しんで過ごすことが喰字鬼に強いられる生き方。

 俺達はそれを毎日痛いほど実感している。トウコも。その分言葉は重くて。


「……痛くないよ」

「えっ」


 ユキナリの隣に座っていたハルナリが、手をグッと握り締めて顔を上げた。


「だってさ、喰字って辛いよ。それに耐えて耐えて生きてきたのに、最後も痛いなんてひどいよ。それじゃあ生きてる意味なんて……」


 想像でもしてしまったのか辛そうに顔を歪める。


「意味なんて、ないのと同じだもん。最期くらい救われたっていいはずだもん。痛くないよ」


 否定も肯定もできない。

 それは推測というより、ほとんど願望に近いものだった。


「きっと、痛くないもん……」

「……そうだな」


 だから、受け止めた。

 ポンとハルナリの頭に手を置く。


「そうだといいな」

「うん……」


 今日喰われた人が、苦しまずに人生を終えられたと。そう信じるしかない。

 少しでも苦しみが少なかったと、信じるしかない。


「よし」


 消えかけた灯りに気がつきよいしょと立ち上がる。


「そろそろ戻るか」


 暗くなった空気を吹き飛ばすように、皆を見回してわざと明るくそう声をかけた。


「ほら、もうこんな時間だからな。きっと明日は忙しいぞー。いろんなとこに駆り出されるからな」


 冗談めかして。明るく聞こえるように。


「今日のうちに休んでおこう。夜はあっという間なんだから、な!」

「……そうね」


 次々に立ち上がり帰り支度を始める。とは言っても解散の時に膳や座布団は片されているから、灯りを全て消して簡単な掃き掃除をするだけなのだが。

 すっかり暗くなっている外に季節を感じて俺はふるりと体を震わせた。


 不意に、ハルナリがちょんちょんとユキナリの袖を引っ張るのが視界の端に映る。


「……ねえ、ユキ」

「ん、どうかした?」

「今日、一緒に寝よ?」

「えっ」


 驚きに目を見張るユキナリに対し、だめかなと肩を落とすハルナリ。

 ユキナリは困ったように視線をさ迷わせた。


「でも、掟が……」


 家には極力人を招かぬこと。


 二人のような家族だったとしても、特別な理由がない限り家の中で会ってはいけない。村の掟の一つだ。


「……わかってる、けど……でも何か怖くて」


 お願い、と訴えかけるその泣きそうな、不安そうな表情にユキナリの意志が揺れるのが手に取るようにわかった。


「でも……」

「いいんじゃないか?」


 掟とハルナリの間に挟まれ悩むユキナリを見かねて、俺はそう進めた。


「今日くらい、さ。朝早くに戻れば見つからないだろ。俺達は何も言わないし」


 な、と笑いかける。それでもしばらく躊躇っていたが、結局はあと一度息をついてからユキナリはハルナリの頭を撫でた。


「わかったよ。今日だけ、特別だよ。秘密だからね?」

「っ、うん!」


 えへへと嬉しそうに手を握るハルナリは幼く見える。暗かった瞳が徐々に光を取り戻すのを見て俺は安心した。


「じゃあ私戻るわね。おやすみ」

「僕達も行くよ」

「カズ君達おやすみー!」

「おうっ!」


 大きく手を振り三人は夜の中へと歩いて行った。ハルナリのはしゃぐ声をもう時間遅いからとユキナリが必死に抑え、その様子を見たトウコが笑っている。


「また明日なー!」


 三人が家に入っていくのを完全に見届けるまで、俺は手を振り続けた。

 それが俺の役目だから。


「……また明日、か」


 今まで一度も声を発していなかったサクヤが静かに俺の隣に並んだ。


「お前も随分無責任だよな」


 闇と同化する黒い布のせいで目しか見えないため、表情は窺えない。

 それでも一番長い付き合いになる彼の心情は簡単に理解できた。


「明日なんてわかんねぇのに。アイツらのためにも、当たり前みたいに言わない方がいいだろ」

「……うん。わかってるんだけどね」


 あまりにも正論すぎて俺は苦笑した。


 人通りのない道には俺とサクヤだけ。

 気を張らなくて良いこの心地よさに体の強張りが解けていくのを感じる。


「気づいたらさ、口にしちゃうんだよ。少しでも気を楽にしてあげたい、安心させてあげたいっていうのもあるけど」


 たぶん、それよりもっと大きな理由。


「ただ単に、俺が弱いんだよな」


 終わりが怖い。

 大丈夫、と自分に言い聞かせることでどうにか一日一日を過ごして。

 明日が来ること、この日々が続くことを無理矢理にでも信じたいんだ。


「……たとえ続くその日々が、こんな最悪なものでもか?」

「うん、皆といられるなら。どんなに最悪でも死ぬよりはマシだ」


 死んだら会えない。

 でもここなら、少なくとも生きているうちは皆に会える。


 俺の答えにそうか、と感情のない声で呟きサクヤは前を向いた。

 つられて俺も同じ方向に視線を向ける。

 灯りが転々とあるだけの、眠りに落ちる夜の村は静かだった。


「あ、なあサクヤ、お前喰字欲ってどれだけ耐えられる?」

「は?」


 何だ急にと言わんばかりの目に俺はちょっと気になってさと続ける。


「ほら、ユキナリが言ってただろ。欲を必死に耐えるのと完全に喰われるのはどっちが痛いかって。字に喰われるのを止めるには、一番はやっぱり喰字しないことだよな」

「そりゃ……けどそれができたら苦労しないだろ」


 喰字をしない、つまり喰字欲に逆らうということは難しい。

 喰字欲を満たせないと震えや倦怠感、異常な破壊衝動などの影響が出始め、ひどくなると肌に刻まれた今まで喰らった文字たちが焼けるように熱くなるのだ。そのまま放っておくと死にまで至るため危険。年齢と共に耐久力も上がってくるとはいえ、それにも限界はある。


「誰かに押さえてもらって耐える……とか無理だと思う?」

「思う。確実に無理」

「ですよねー」


 そうなるとあとは……


「……難しいな」


 やっぱり方法はアレしかないのだろうか。


 考え込む俺がふと顔を上げると、いつの間にか隣から消えているサクヤ。慌てて見回せば結構先にいて。


「え、ちょっ、どこ行くんだよ」

「戻る。今どうこうしたって無駄だろ。できることなんてない」

「そうだけど……」


 さっさと離れていく背中に俺は声を上げた。


「サクヤ!」

「……」

「また明日、な」


 性懲りもなく口にした俺の言葉に、はあとサクヤがため息をつく気配。決して足を止めることはなかったけれど。


 無言で片手をひらっと上げてくれた。


 それが温かくて俺はフッと笑みを溢す。

 無愛想で無口だけど、付き合ってくれるあたり優しいんだよな。


 本当に誰もいなくなった道を一人歩く。

 小さい村だから十分もかからずに家は見えてきた。


 引き戸を引き靴を脱いで上がる。灯りのない中で手早く衣服を着替えた後、朝出る時と全く同じ状態で置かれている布団に潜り込んだ。

 暗さに慣れてきた視界目一杯に広がる、雨漏りで色の変わった天井。今日はこのまま起きていると色々考えてしまいそうで、もう寝ようと目を瞑った。


 また、明日がありますように。


 日課となっている願い事を心の中で唱え、俺は意識を手放した。




 ◆◆◆


 「……て、カ……お……て」

「ん…….」


 何だろう。何か聞こえる。


「おき……ぐすっ、カズ……起きてぇっ、おねがいっ」


 誰の声。

 なんか変だ……泣い、てる?


「カズくんっ!」


 ハッと一気に頭が覚醒する。勢い良く起き上がった俺の視界に映ったのは、瞳からボロボロと大粒の涙を溢れさせ布団を掴むハルナリの姿で。


「ハルナリ……?」

「カ、カズくんっ」


 一体どうしたのかと尋ねる前に強引に腕を捕まれる。


「カズくんっ、た、助けっ……ぐすっ、ぼく、どうしよ、ぼく……っ」

「ちょ、ちょっと待て、落ち着け」


 完全にパニック状態のハルナリにただ事ではないと察する。今までに見たことのない取り乱し様だ。でも何で急に、しかもこんな時間に。ハルナリだって寝ていた筈じゃないのか。何があって……


「……ん?」


 ちょっと待て。


「ハルナリ、お前ユキナリはどうしたんだ」


 二人は一緒にいたのではなかったのか。


 俺の言葉にハルナリはビクッと肩を揺らすと、ますます顔を歪めて。


「ぁ……あ……」

「ハルナリ?」


 様子がおかしい。俺は眉をひそめた。


「あ……ぅあ……」

「落ち着け。俺の目を見ろ、ハルナリ」


 ハルナリの肩を両手で掴み正面から視線を合わせる。


「どうした、何があったんだ」


 せわしなく彷徨っていた目の動きが止まる。

 ぐっと唾を飲み込み、一度目を閉じて。


 再び開いたハルナリの告げた言葉に俺は布団をはねのけ飛び出した。



「助けて、カズ君……ユ、ユキがっ……ユキが、大変なんだっ!」

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