檸檬
檸檬を爆弾に見立てる小説がある。
明治の文豪が書き残した、出色鮮やかな傑作だ。
しかるに、檸檬は爆弾ではない。
ただの果物である。
私は店で付け合わせに出されれば、そのまま丸かじりしてしまうほど檸檬が好きだ。
あの、この世の鬱屈をすべて受け流してしまうような紡錘形のフォルム。
あの、見ているだけで気が晴れるような原色の黄。
あの、歯をひとつ突き立てれば、口腔に広がる爽やかな酸味と、その先にひっそりと奥ゆかしく三つ指をついている甘さ。
どれをとっても、私は檸檬が好きである。
目がないといってもいいだろう。
檸檬はしょせん檸檬に過ぎないが、この現代社会を生きる上で欠かせない一抹の清涼剤でもある。
とはいえ。
毎日柑橘をかじる生活というのも、どうかという旨はあるだろう。
健康面が、逆に気になって気もする。
だから私は、三日に一度だけ檸檬をかじる。
本当は朝起きたとき真っ先にかぶりつきたいのを我慢しているのだ。
檸檬は素晴らしい。
檸檬が家で待っていると考えるだけで、人間関係の厄介さや、この未曾有のパンデミックにも耐えられる。
出社し、仕事をし、残業し、家に帰り、定位置にきちんと座っている檸檬を見て。
それを手に取り、鼻先に寄せて臭いを嗅ぐ。
こうすると、一日のすべてが報われたような気持ちになる。
檸檬は爆弾ではない。
檸檬は食べ物であるが、それだけではない。
檸檬には人生が詰まっているからだ。
黄色い
檸檬はのたうたない。
檸檬は悲鳴を上げたりはしない。
なぜなら檸檬なのだから。
そっと黄色く染め上げた〝髪〟を一掬い手に取って、ぶちりとむしり取る。
悲鳴など聞こえない。檸檬は声を上げないからだ。
むしゃむしゃと咀嚼すれば、えもいわれぬ香りが立ち上る。
もう少しコンディショナーをよいものにしよう。コシがありすぎては檸檬とは言えない。
怯えたように私を見詰める瞳は黒かった。
よくない。とてもよくない。
そっと床に落ちていたカラーコンタクトを拾い上げ、瞼の奥へと押し込む。
声は聞こえない。
檸檬から声がしたら、私だって自分の精神異常を疑う。
紡錘形の腹を撫でる。
ここにはみっちりと果肉と、甘酸っぱい羊水と、そして檸檬の種が詰まっているのだと思うと、私は自分を諫めることが出来なかった。
私は檸檬が大切だ。
三日に一度しか歯を立てない。
今日はその日ではないから、そんなに怯える必要はないのに。
だというのに、檸檬はすこし、身震いをした。
あとで、よく洗おう。
瑞々しい檸檬が、私は好きだ。
数日、家を留守にすることになった。
その間、檸檬に触れることも出来ないのは、とてもとても哀しく。
私の精神を不安定にさせた。
出張が終わり、とんぼ返りで家に帰ると、檸檬の黄色はどこにもなくなっていた。
ただ、真っ赤な血肉が、破裂しているだけだった。
檸檬は爆発しない。爆弾ではないからだ。
檸檬に赤色なんてものはない。檸檬は果物だからだ。
ああ、困った。
次の檸檬を、探さなくては――
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