第2話 夢魔
「整理すると、俺はターゲットの女に拉致られてホテルに閉じ込められた。拘束された状態で、腹に一発撃ち込まれて気を失った。その後、女が部屋に火を放ったが、マルコシアスが入ってきて濃厚なキスした後、勝手に契約されていて俺はお前に助けて貰ったと?」
「少し違う。同意のうえでの契約だった」
目の前にいるマルコシアスという狼みたいな化け物は蛇の尾をゆらゆらと揺らし、鋭い目で俺を捉える。幻覚でも見ているのかァ?
「私は一色の事ならなんでも分かる。例えば、この姿は一色が好きな女だ」
マルコシアスがニタリと笑う。すると黒い風が舞い、やつの体がどんどんと縮んでは人間の姿に変わる。風が止み、そこには勘違いしそうな程によく似たあいつがいた。
「由美……?」
髪色や瞳の色は違うが、顔も体格も身長も全てが由美に似ている。アンニュイ顔をしたそれは俺の喉を指先でなぞり、両頬を小さな手で包みこむ。
「一色、好き」
蓋をしていたはずの彼女との記憶と声が一気に蘇ってきてしまった。普通のやつなら喜ぶだろう。だが、あいつは死んだ。もはや本人だと分からないほどぐちゃぐちゃに飛び散って死んだ。ようやく、ようやく落ち着いてきた頃なのによォ……はぁ、喘ぐ女にも耐性がついてきたってのに、また喘がないマグロみたいな女とヤらなきゃなんねぇ。
「それにしても、一色の中にいるこの由美という女。知らず知らずのうちに随分と依存していたようだな」
「あ?」
「蓋をしているようだが、ウロボロスを刻んだ犯人への怒りと憎悪。由美を失った悲しみと絶望、そして重すぎる愛。いくら性行為をしようと由美は帰ってこない。悲しい男だ、私なら一色を満たすことが出来る。なぜなら、由美という人間になれる。声も体も、全てがだ。一色はそれを聞いて契約に応じた」
由美の顔したマルコシアスは腹部の紋章に触れる。そういえば、霞んではいるが確かに言われた気がするな。お前が望む者に姿を変え、救ってやろう的な事言われた気がするぜ。
「なんで俺なんか助けたんだよ? 面識ないだろ」
「面識ならある。公園で水無月とかいう男と話している時にお前を見かけた。人間を躊躇なく殺せるイカれた者を探している時に、たまたま見かけた」
「は? 俺はお前なんか見てねぇぞ」
「当たり前だ。悪魔は人には見えない。見えるのは悪魔と契約した者だけ。さて、私は腹が減った。ノルマである人間の魂も頂いていない、いつまでも寝られると私が困る」
由美の顔でそんな冷たいこと言うなよ。やっぱ腹立つなァ。皮だけ似てても中身が全然違ぇ。助けてもらったことにはとても感謝している、いや、別に死んでも良かったんだが……契約の破棄が難しい時は俺はいつだってこうしている。約束事も契約も法律もいずれは破られるものだ。
奴が背中を向けて歩き出した時に、銃を構える。するとミチミチ、バキバキと音が室内に鳴り響いた。こんなことってありえるのか? これは本当に幻覚なのか?
由美の首が180度回転しやがった。
「私を撃とうとしたのか。残念だが契約は絶対。文字通りの運命共同体となった私達は痛みも共有されている。今ここで私を撃ち殺せば、血や銃創はできないにしろ耐え難い苦痛が襲ってショック死するだろう。そんな自殺行為を私が認めるとでも?」
背を向けているのに顔が見えるとは気味が悪い。背中がやけに寒くなった。
「一色のターゲットであったあの女。殺さなくてはいけないのだろう? ちょうどいい、あの女の魂を喰おう」
首をぐるりと戻し、ベランダへと出る。いわゆる彼シャツとなったその姿と、楽しげに笑うそいつの顔は由美と瓜二つだった。そういえば、俺が煙草をベランダでも吸わないようにベランダで待機してやがった時もあったなァ。
「……魂を喰うってなんだ? 殺しとは違うのか?」
「同じだ。だが、喰らうのは私。一色が殺し、私がその死体ごと喰らう。証拠はなにも残らない。まぁ、味覚の共有もしているから一色も食べたことになる」
「俺、本気でヤクでもやってんのか? ここまでリアルな幻覚は初めてだ」
未だ半信半疑の俺に、マルコシアスは唇を尖らせる。何をするのかと思いきや、奴はベランダから飛び降りてしまった。おーおー、よえやく幻覚が見えなくなっ──────
煙草に手をかけたその時、拳に痛みが走った。それも何かを殴った時のような感覚だ。なん、だ? 俺はなにもしちゃいねぇ。
ベランダには返り血を浴びたマルコシアスと何故か震えて血を流している男が担がれていた。は? ここ3階だぞ? そもそもそいつは誰だ?
「いいか。魂を喰らうとはこういう事だ」
マルコシアスは俺の背後に一瞬にして回り、俺に銃を持たせる。そして男の眉間を狙って高さを合わせ、ゆっくりと引き金を引かせた。由美の顔したそれは本当に悪魔のようだった。それはご馳走を待ち望んだ子供の顔、欲しかった物を貰った女の顔だ。
パンッ!!
乾いた銃声が響く。
マルコシアスは再び狼の姿へと変わり、貪るようにして死体となった男を食い散らかす。口腔内に広がる生暖かい液体、まだ柔らかく弾力性のある臓器がプチプチと潰れていき、鼻に抜けそうなほどの鉄の味が広がる。まずい、不味すぎる……!!
あいつが喰っているのに俺も味が分かるなんて。あまりのことに吐き気を催すが、黒々とした球体をマルコシアスが咥えていた。それは時折炎のように揺らめき、固くも柔らかくもなかった。まるで生暖かい空気にでも触れているかのような感覚だった。
「これが魂だ」
一口で奴が飲み込む。なんと表現するべきか、あれは人の食いもんではないのは分かる。口どころか肺いっぱいに広がったのはお湯で絞った雑巾でも食っているかのような気分だ。臭くて、不味くて、たまに鉄の味がする。吐くことも出来ず、開けっ放しの口から涎がダラダラと垂れてはフローリングを汚していく。
「吐かなかったか。そのうちこの味にも慣れる。食事を楽しむのは人間だけだ。そのうち味も気にしないほど麻痺してくる」
久しぶりだ、涙なんて出たのはよォ。由美の皮を被ったそれは優しく頭を撫で、記憶の片隅にあった由美の優しげのある笑みを浮かべる。あー、やっぱ悪魔だわ。俺が由美のこの顔に弱いことも知ってんのか。いっそ殺してくれれば良かったのに。
「さぁ、信じてくれたというのならばさっさとターゲットの場所に行くぞ」
「そんな引っ張んなよ。その前に服着ろよ。由美の服なら向こうに─────」
「なんだ。2年も前の女の服なんて遺してるのか。女々しい奴だ」
「うぐっ……」
ぐぅのねも出ねェよ。マルコシアスは服をペラリと捲ると、そこには何ともまぁパンツもブラも付けてねぇあられも無い姿の由美がいた。そして極めつけにそのアンニュイ顔で首を傾げる。思わず眉間に皺を寄せて、前かがみになってしまう。最悪だ、一色の一色が反応するだなんて……
「一色、相当な変態だったのか。好きな女の裸を見ただけでそうなるとは……ヤるか?」
「ヤらねぇわ! 皮だけ人間のふりしたって中身は狼だろうがっ! 獣姦なんて趣味はねェ!!」
相手が獣であることを思い出すと、ようやく一色の一色が落ち着きを取り戻す。クスクスと笑うそいつの顔面を殴り飛ばしてやりたかったが、由美の顔をされるとその気すら失ってしまった。
────────……
「おい、車なんて乗らなくても私の背に乗ればいいだろ」
「馬鹿か。こんなクソさみぃ夜に夜風なんか浴びたくねぇんだよ」
あれから何とかヤらずに終わった訳だが、代わりにあの女の魂を喰いたいと騒がられた結果が今に至る。女の名前は
「止まれ」
車を走らせていたというのに、マルコシアスは右腕を出して指示する。止まったのは変死体が見つかったと報道された曰く付きのホテルだった。見た目は綺麗だが、死体が発見されて以降は営業が停止していたな。ご丁寧に立ち入り禁止のテープまで貼ってやがる。
「あの女がいる家までまだ先だぜ? なんでここに」
「ここにいるかもしれない。ただの勘だがな」
「はぁ? 勘? 悪魔様は勘で動くのか? それとも狼としての本能的な何かなのか?」
「悪魔の勘だな。まぁ、いなければ違う場所に行けばいいこと。それに、悪魔の私がウロボロスが刻まれた死体があった場所に来るんだ。何か新しい発見があるかもしれないぞ?」
マルコシアスはふふん、とでも言いそうなほど得意げな顔で車から降りる。表情、仕草まで由美に似せてきやがる。なんで狼相手に恋心抱かなきゃならないんだ! 中身は獣、中身は獣、由美じゃねェ!
そしてこんな事を考えているのも筒抜けなのか、マルコシアスはニタニタとこちらを見て笑ってくる。クソッタレが。
ドスドスと無駄に大きな足音を立てながら立ち入り禁止のテープの中へと入る。自動ドアは閉まっていたが、マルコシアスは素手で扉を開ける。いや、開けるというか壊すというのが正しいか。
付いてこいとでも言いたげな顔でこちらを見ては寂れたフロントを歩く。バリバリと散らばったガラスを踏みながら中へ入ると、思っていたよりも散らかったフロントが出迎えてくれた。椅子や机の備品がただの木片になってるし、大理石の床もひび割れてくすんでやがる。
「立ち入り禁止になったのはつい最近の事だ。んなすぐに廃墟化する訳じゃないはずなのに……埃臭いし、生物が腐った臭いもする。どうなってんだ? おいマルコ。由美の顔でうろちょろすんな。怪我でもしたらどうすんだ」
「呆れた。そんなに私が好きなの? ねぇ、一色」
アンニュイ顔で薄く笑い、俺に抱きついてきては首の後ろに手を回す。可愛いのが腹立つ。なんで由美じゃねぇ奴に誘惑されなきゃなんねぇんだよ。殺す、いつか絶対殺してやる。というかマルコ呼びはいいのかよ。
「一色の呼びたいように呼べばいいさ。それと殺せるものなら殺してみるがいい。一色も同じようにあの世行きだ。あと、もしかしたらここには私と同じ悪魔と契約した者がいるかもしれない」
「その根拠は?」
「すぐに分かる。ほら、由美を救いたいのであれば銃を構えた方がいい」
ニタリと笑うマルコの後ろは暗闇であったが、何かが動いたように見えた。マルコの奴、ここから動く気ないな?
苛立ちを覚えながらも銃を取り出して、動いた方向に一発撃ち込む。だが、壁に当たったのか乾いた銃声以外聞こえなかった。まァ、そりゃそうなるよな。だいたい、こういう時は……
「後ろか」
由美を抱き寄せて後ろを振り返ると、夢野陸穂がナイフ片手に襲いかかろうとしていた。後ろを振り返ることなんて予想していなかったのか、目を大きく開けていた。ほぼゼロ距離で撃つんだ、そりゃ絶望もするか。
スローモーションに見える視界の中、焦ることなく無慈悲な銃弾を撃ち込む。夢野の額には穴が開き、血が俺の顔や床に散らばった。どくどくと溢れる血が割れた大理石に染み込んでいく。
妙だな。この距離で接近戦に持ち込むなんて。銃が無かった? いや、あの女のことだ非常用として持っているはずだ。
「ま、死んだからいいか。それにしても相変わらず安い顔だなァ。胸だけは立派だけどな」
「……そう言いながら由美と比較する辺りかなり気持ち悪いぞ」
マルコが虫けらでも見るような目で軽蔑してきやがる。死にてェ、切実に死にてェ。
恥ずかしさを通り越して自分の墓でも掘ろうかと思った。
「死んだ婚約者さんに想いを馳せるのは勝手だけど、重い男は嫌われるわよ?」
声が聞こえ、勢いよく後ろを振り向く。カウンターに座ったそれは紛れもなく夢野陸穂で、隣には黒紫色の体と同じ翼を持った女の悪魔がいた。足は鷲のように尖っており、時折動いていた。まさか、まさかだが、あれが俗に言うサキュバスか?
「夢魔、別に契約者の魂でも良かったのよね?」
「えぇ。契約者は人間という部類には入らないけど、元は人間だもの。魂は同じよ」
奴らの顔はおもちゃを見つけた子供のように無邪気で恐ろしいものであった。死体が確かにあった場所はまるで夢でも見ていたかのように綺麗に消え去っていた。
「魂を喰らう前に一つ……ウロボロスの一員になるつもりはない?」
豊満な夢野の胸には、あの憎きウロボロスが刻まれていた。
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