第八十五話 卒業と継承

 一月中旬。自堕落に過ごしていた冬休みが明け、いつもの日常に引き戻されて数日経った日の放課後。ようやく学生の本分から解放されたので、意気揚々とロッカーから取り出した防寒着を着る。

 三学期は進級に向けた準備期間。なんと、四月くらいまでは面白そうな行事が存在しない。直近の行事は来月の定期考査。考えるだけで欠伸が出てしまう。

 つまらないことは一先ず置いておく。面倒な問題は先送りという横着に落ち着くあたり、私はまだまだ発展途上の人間。何と言っても、今年の私は現状の維持を信条に掲げた日和見主義者の極み。

 消極的な現状を打開するためには、何か新鮮な体験が必要な場合もある。直近の出来事だと、新学期恒例の席替えが該当する。

 私は後ろの方の席ばかりで、いよいよ今回は前の方の席になってしまうのではないかと危惧していたが、結果としてこれまでの席の一つ後ろの席になった。こればかりはくじ運が物を言う。おみくじも大吉だったし。別に後ろの席が良いというよりは、単純に机の移動が楽だったことが良い。

 漠然と教室の空気が変わった感じはある。しかし、クラスメイトの元の席は百井の席だけしか把握していない。つまり、大して変わった感じも無く、唯一変化を感じさせるのは百井の席。

 結局、去年と変わらず百井に特化していることが浮き彫りになっただけ。百井以外のものにも興味を持たないとなぁ。

 そんな百井の席は、列は変わらず一番後ろ。つまり一学期の頃の私の席。

 まだ席にいる百井の様子は……放課後なのに帰ることもなく、机の木目を目でなぞっている。茫然自失とはこのこと。上の空になってもおかしくないのが長期休暇明けというもの。暖房の効きも良いから仕方ない。

 気になる要素としては、冬休みが明けてからの百井は眼鏡を掛けていること。いつになく慎ましく、秘められたお淑やかな雰囲気を振りまいている姿は、学校生活で荒んだ私の心に作用する数少ない癒し。

 出来れば眼鏡を掛けて出歩きたくないと言っていた気もするけど、年も変わったことだし、何か心境の変化があったのかな。流石は百井。早速新年の変化の波に乗っている。私も負けていられない。


(終わりだ――)

 さよなら、楽しかった私の学校生活。

 そして白川さん、今までありがとう。私は中学までの陰気な人間に戻り、蛇に睨まれた蛙に相応しい末路として社会の暗黒面ダークサイドを歩みます。

 思い返すだけでも背筋が凍りそうになる五十鈴さん(美容師の雨宮さんの妹らしいので、区別のために便宜上名前で呼ぶ)との出会い。その一部始終は私の記憶にくっきりと刻み込まれた。


「ちょっとごめん。おーい、五十鈴~」

「……あ、明日香ちゃん……?」

 白川さんに声を掛けられた五十鈴さんは、天地を揺るがす美貌を持つ白川さんにも引けを取らないほど顔面偏差値が高い。白川さんと五十鈴さんが揃ったことで、付近の美人濃度はあっという間に濃くなったことは言うまでもない。

「いかにも」

 白川さんの冗談めいた態度に五十鈴さんは表情を緩ませる。

「うわあ、びっくり……明日香ちゃんとは気付かなかった」

「それ、樋渡にも言われた」

 白川さんが言うと、五十鈴さんは微笑を浮かべる。

 私からすれば、その笑みは苦笑に見え、裏には自分の不甲斐なさを隠しているように思えた。私もよくするから何となくわかる。

「髪、綺麗な色入れたのね。お姉ちゃんから聞いてたけど」

「そっちは短くしたんだ。似合ってるじゃない。というか、前の私の髪型真似してない?」

「え~、気のせいよぅ。うふふ」

 何この通じ合ってる感じ……私は完全に蚊帳の外。白川さんを名前で呼んでるこの人は一体何なの?

 少し不貞腐れていると、向こうの連れたちも状況を察する。

「雨宮ちゃんの知り合い?」

「うん。あ、みんな諏訪原高校の水泳部ね」

 諏訪原高校……文化部が盛んな富櫓高校と違い、運動部の活躍が目立つ高校。そこの水泳部なら学生スポーツ選手の精鋭であり、私とは住む世界が違う。

 一方、白川さんは全く物怖じしていない。

「そういえば、神長から聞いたんだけど、マネージャーやってるんだっけ? どんな心境の変化?」

「……明日香ちゃんには関係のないことよ」

 五十鈴さんは露骨に目を逸らして言った。明らかに白川さんが原因である。

 当の白川さんは「あ、そう」と軽く流した。

「にしてもすごいね、雨宮ちゃん。お嬢様の知り合いがいるんだ」

「みんなも知っているはずよ。あの白川明日香ちゃんよ」

 五十鈴さんが言った途端、諏訪原高校水泳部はざわついた。

「白川明日香って……まさか、南武矢みなみたけや中学の白川明日香!?」

「こんな感じだったっけ?」

「もっと王子様みたいだったような」

 諏訪原高校水泳部は口々に白川さんの印象を語った。

 私は写真で見ただけだが、中学の頃の白川さんは中性的な見た目の美人で、男の子からはもちろんのこと、女の子からも思慕の念を抱かれそうな印象だった。今はただ事じゃない髪色や髪型の影響で中性的な印象は鳴りを潜めているが、諏訪原高校水泳部が語る印象には概ね納得できる。

「参ったな。私って有名人?」

 白川さんはおどけた様子で言った。こういう不遜な態度を取る時は、大体自分をへりくだる時だ。

「有名も何も、『狼嵐ろうらんの渡し守』こと樋渡友紀と双璧をなした『戦慄の白騎士ホワイトナイト』白川明日香の名を近隣の水泳部で知らない人はいないっすよ」

 狼嵐と言えば狼嵐中学校のことで、樋渡さんが通っていた中学校。やはり二人はライバルで鎬を削っていたんだ。

 そして、「戦慄の白騎士」って……かっこよすぎでしょ!

「そんなダサい異名つけられてたの……樋渡はともかく私まで」

「私、ファンだったんすよ……握手してもらっていいすか?」

 傷心気味の白川さんは諏訪原高校水泳部と盛り上がり、再び私は蚊帳の外。

 そんな中、五十鈴さんが私に近寄ってきたのです。

「もしかして、あなたが百井さん?」

「あ、はい……」

「真琴ちゃんや友紀ちゃんから聞いたわ。明日香ちゃんと仲が良い子がいるって」

「仲が良いだなんてそんな……えへへ」

「……私、雨宮五十鈴って言います。明日香ちゃんの中学の同級生よ。よろしくね」

「こちらこそ。白川さんの友達に会えて嬉しいですっ」

 白川さんの友達なら絶対に良い人じゃん。仲良くしたいな。

「ふーん……」

 私の顔をジロジロと覗き込む五十鈴さん。美人特有の圧に、思わず気圧されてしまいそうになる。

「あの、何か……?」

 五十鈴さんは一頻り私の顔を見た後、まとわりつくように私の背後に回り込み、人当たりの良い様子から一転して冷たく囁いた。

「明日香ちゃんと仲が良いみたいだけど……あまり調子に乗らないことね」

「ひっ!?」

 寒風が比にならないほど冷ややかに言い放った五十鈴さんは、間髪入れず続けてこう言った。

「私、明日香ちゃんと同衾どうきんしたことあるんだから」

「ど、どうきん……!?」

 どうきんって……何?

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