第八十話

 程なくして廊下の掃除が終わり、門原先生はお褒めの言葉を残して近くの資料室に向かった。私は労いを受ける立場ではないので、この居心地の悪さを罰と思うことにする。

 思考が暗くなりつつある私と功労者の白川は後片付けのために近くの水道へ。私はモップを掃除用具入れに仕舞い、白川は雑巾を洗う。

 先ほどから私と白川の間には沈黙が流れている。この子が何を考えているのかわからないし、後手に回って動きを見ないことには話題が浮かばない。入学式から今に至るまでに接する機会が無かったクラスメイトとの会話なんて今更必要無いかもしれないが、少なくとも一年間同じクラスなわけだし、愛想良くしておくことに越したことはない。

 とりあえず、無言の間に乗じて後手に回り、白川を観察する。

 見よ、あの利口そうな横顔を。あんな作業をしている時でも、私では到底考えが及ばない地球規模グローバルで意識の高いことを考えていそうだ。

 それにしても白川は何をしても絵になる。本来なら触れることさえしなさそうな雑巾を絞る動作は、さながらドラマのワンシーンのように劇的。そう見える所以は、現実離れした髪色や、所作に一切の躊躇が無い思い切りの良さといった白川が持ち合わせる稀有な個性にある。私のような日陰者からすると、あまりの輝きで目が眩みそうになる。

 キモい分析も程々にして、空になっていたバケツを水道から取り上げると、白川は濡れた手を軽く振って口を開く。

「点数、稼げたかな」

「点数って……どうだろう……」

 白川の優等生にはそぐわない俗っぽい台詞に私は面を食らい、バケツを片手に立ち尽くす。

 美化委員会としての使命感に駆られて掃除していたのではなく、教員からの評価という見返りを期待して掃除していたと? 聡明な人は、「評価は行動の後からついてくる」ってカッコつけるものじゃないの?

 それとも、冗談? ここで冗談を言うタイプ? まさか、気を遣えない私に先んじて場を和ませるために?

 当人の白川は素知らぬ顔で私の横を通り過ぎ、ベランダのタオルハンガーへ向かう。その際に、動揺する様を見られた気がして、乱れた感情は恥じらいを帯びて振れ幅を大きくする。

 ベランダから戻ってきた白川は水道で手を洗う。そして、小綺麗なハンカチで手を拭き、右手首につけている腕時計を見た後、追い打ちをかけるようにこう言った。

「それじゃあね、百井」

「え、あ……はい」

 「白川さん」は私を一瞥し、廊下の奥の方へ向かった。

 立ち去る際、白川さんの瞳には違和感があった。

 私を見ているようで見ていない、どこか遠い眼差しで虚ろなものを感じたが、足取りは足音が全くしない軽やかさで堂々としていた。

 それでも、窓から差し込む夕暮れも相まって、綺麗な髪の毛を纏う小さな背中は少し寂しげだった。


 一人残された私は新聞委員会の仕事の途中だったことを思い出し、急いでバケツを片付ける。私の心は白川さんの耳心地の良い声で平穏を取り戻した。

 そして私は、あの子の呼び方を「白川」から「白川さん」と改めた。

 他人が汚した廊下を掃除する姿は、認識を変えるほど高潔に見えた。廊下を汚した犯人を見逃した自分が酷く下卑たものに思えるほど。呼び捨てにされたことも当然のこととして受け入れられる。裏に俗っぽい思惑があったとしても、むしろ人間味がある。

 自分だけしか知りえない誓いに気恥ずかしさを感じつつ、新聞委員会が活動している教室へ向かう。

 歩みを進めるうちに、落ち着いた思考がもう一つの考えを思いつく。

「……ハンカチ、買おうかな」

 華麗な所作を真似することが真っ当な人間になるための一歩だと思い、近々訪れるゴールデンウィークを利用してハンカチの新調を決める。

 後にそれは、白川さんに近づくための一歩にもなった。


(うっかり百井さんのことを呼び捨てにしちゃった。掃除も手伝わせて、失礼なやつだと思われただろうな。今度呼ぶときは気を付けないと。でも、一度使った呼び方を変えるのもなぁ)

 今後の身の振り方を考えながら図書室の扉を開く。貸し出しカウンターには樋渡がいて携帯電話を弄っていた。

「やっほ」

「うわっ……なんだ、どこぞのお嬢様かと思ったらお前かよ。慣れないなぁ、その髪色」

「真似してもいいよ」

「するか。私は慎重派だからな。そんなことよりもさぁ。お前、雨宮とケンカでもしてんの?」

「した覚えはない」

「そうなのか。なんか雨宮のやつ、お前が連絡しないから寂しいの~、って嘆いてるぞ」

「ああ、アプリ消しちゃったから」

「気楽で羨ましいね、ほんと。でも、私は仲介役をするほど暇じゃねーのよ」

「うーん……私に用があるなら電話して、って伝えてよ」

「それはいいけど、お前から伝えた方が丸く収まる気がするぞ。右腕的存在だったよね、あいつ」

「私が部長で五十鈴が副部長だっただけじゃん。それに」

「それに?」

「私は用無いもん」

 私が言うと、樋渡はやれやれと言いたげな顔で呆れた。

 他の学校に通う私から連絡したところで、却って困惑させるだけだろう。

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