第七十六話
腹八分のところでフードコートを後にした。
「ちょっとトイレに行ってくるね」
「うん。先行ってる」
百井はメイクを気にする素振りをしながらトイレに寄ったので、私は一足先にまだまだ真新しい通路を抜けて地場産品売り場へ。
一人になると否応なく頭が冷えて、途端に自分の歩幅といったどうでもいいことが気になってくる。のらりくらりとした歩き方の長所は足音が立たないくらい。私の歩みの遅さは、百井に気を遣わせていることだろう。
終いには、誰も見ていなさそうな壁の掲示板すらも目に入ってしまう。
手書きの行方不明ペットの捜索ポスターが貼られていて胸を痛めたけど、「見つかりました!」と赤文字で書いてあったので安心した。他のポスターによると、クリスマスフェアのイベントとしてアマチュアバンドが中央ホールで演奏会をやるらしい。
先ほどから店内では、年号が二つくらい前の時代を代表するクリスマスソングが流れていたりと、あちこちでクリスマスの要素は散見するけど、未だにクリスマスの時期である実感は湧いていない。
やはり毎年恒例の寿司を食べないことには私のもとにクリスマスは訪れない。それに今日か明日のニュースで仙台の光のページェントを楽しむカップルの様子を見たりしてそれっぽい気分に浸れば十分。私は子どもだけど、子どもではない。ある種の過渡期と言える。
そういえば、光のページェントってカップルにまつわるネガティブなジンクスがあった気がする。でも、今ごろ世の中のカップルはそんなこと気にせず、甘美で扇情的な体験を期待して色めき立っているに違いない。私はと言えば鶴を見つけられず一人で自己嫌悪に陥っている。実にアンフェアだ。
色恋沙汰で参考になりそうなものと言えば、大竹さんと船山くん。まあ、特に交流がないので進展があったのかはわからない。
他は東先生と夏目先輩かな。保健室の件以来、学校で二人が話しているところは見ていない。あとは神長と桂木さん。こっちはまだ保留中なんだっけ。
この二つは特殊なケース……いや、何をもって特殊とするのか。こういう深淵に触れてしまう思案は、事の正否を決定づけるためのデータや人生経験が無いうちに手を出すものではない。やるなら眠れない夜中にするべき。手に余ってすぐ眠れる。
とても申し訳ないことだけど、勝手に例として挙げたくせに、どれも参考になりそうにない。
色恋沙汰に関しては私の想像力が欠けているから、他人の経験や状況を自分に当てはめて考えられていない。死んでも変わることのない私の欠点であることは明確だ。
不貞腐れながら地場産品売り場に到着。
ここも外と同じくオーナメントが飾り付けられて華やかな雰囲気。生産者が穏やかな表情で写る写真がついた野菜を見た限り、地元農家と密着した品揃えで、どれも比較的リーズナブルな価格で売られている。クリスマス時期なこともあってオードブルも取り揃えられている。
内心気落ちしている中でも私が惹かれるものといえば、瓶詰めが陳列された棚。
そう、柚子胡椒である。とりわけ輝いて見える高級感漂う瓶詰めの柚子胡椒。先ほど食べた竜田揚げの味付けにも使用されているらしい。
少々値が張るけど、散財は財布が寒くなる代わりに心は温まる。お年玉も近いことだし。
「……あ、いたいた。白川さん、見て見て~」
柚子胡椒を買い物カゴに入れたところ、百井がトイレから帰ってきた。嬉々とした様子で見せてきた手には緑色の物体が敷き詰められたプラスチック容器。
「しそ巻きじゃん」
「さっき食べたの美味しかったから買おうかなって。ピリ辛だったけど」
柔らかい笑顔でそう語る百井は私が見るにはもったいないほど温かく、そのほのかな熱でガチガチに冷え固まった頭が解されるようだった。
しそ巻きは私の、延いては私の家族の好物。上には寿司か肉しかない。
自分が好きなものを好意的に思われたことで、かつてこんなに嬉しかったことがあっただろうか。思い当たることが無いことで大体の想像はつく。
今までも他人が善意を込めた親切心を向けてくれたことが何回もあったはずなのに、それを私は見落としていただけにすぎない。最低だ。
しかし、百井から与えられた自己肯定感に満ちた私なら、そんな惨めな過去すら糧にできる確信があった。
「百井、酒飲みの才能ありそう」
「言われてみると確かに……お酒のつまみっぽいね、これ」
「ふふっ。まだ残ってた?」
「うん」
「なら買い占めてやる」
「そんなに……未来の酒豪がここに」
未来のことなんて想像してもわからないから、なるべく都合の良い出来事が起きることを願うばかり。
辛うじて今わかることは、百井の案内についていく私の足取りが軽やかなものになることくらいだった。
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