第七十五話

「……急にどうしちゃったの?」

 百井は信じられないものでも見るような眼差しを私に向け、手にしたスプーンを強く握る。

「一口だけなら貰いに行かなくてもよくない? まさか、私の一口が大きいと見なしてわざわざ小さいスプーンを……」

「そうじゃなくて……間接……」

 百井が「間接」という言葉を口にして言い淀む様子から、大事そうにスプーンを握る理由が何となくわかった。

「ああ、間接キスか、はいはいはい。苦手なタイプなのね」

 私も進んで他人の食器を使うタイプではないし、苦手とする気持ちはわかる。

 と思いきや、百井の言葉ですぐさま否定された。

「私は別に平気だもん。それより、白川さんが……」

「私が?」

「苦手なんだと思ってた……間接キス、みたいなの。今までもそんな感じだったし」

 間接キスなど気にした覚えは無いけど、苦手と思わせる立ち振る舞いをしていたかもしれない。静かながらも気迫のある百井の言葉にはそう思わせる説得力がある。

 けれども、そこまで過度な潔癖症では無いことも事実なので、その分析は間違っている。百井が拗ねた様子に見えるのも、間違いを理解したからだろう。

「見くびってもらっては困るなぁ。これでもスポドリの回し飲みが日常茶飯事の水泳部で部長をやってたんだよ」

 部員が何の気なしに回し飲みする光景を見ていた私が、間接キス如きに苦手意識を持つわけがなかろう。

「……運動部ってそういう風潮あるよね」

「そういうこと。さあ、スプーンを貸しなさい。私の一口がどの程度なのか教えてあげる」

 しかし、カレーの味に期待を膨らませる私に反して百井はスプーンを渡してくれず、そのままカレーのルーを掬った。

「はい、あーん……なんちゃって」

 百井はテーブルに身を乗り出して私に口を開けるように促した。どうやら餌付けごっこをしたいらしい。

 私は貰う側なので食べ方にとやかく言うつもりはない。でも、お昼時を過ぎて客が少ないとは言え、人の目が全く無いわけではない。口を必要以上に開けるには少々抵抗がある。

 尤も、多少の羞恥よりもカレーの味に対する興味が勝る。

「まあ、いいけど」

 お茶を飲んでから私もテーブルに少し身を乗り出し、横髪を手で押さえて慎ましく口を開けた。

 すると百井は眼鏡の奥の瞳を凝らし、戦地に赴く女騎士のような表情になった。

(えっ、いいの? いいのか……ヤバい、想定外。白川さんを困らせるためだけに「あーん」は攻めすぎちゃった。読みも外れて心の準備が……そうだ、忘れてた。白川さんはこういうところあるんだよ。ほんとズルい。いかにも「ふざけんじゃないわよ俗物が。あなたの下品な誘いに乗るわけないでしょう、汚らしい……。身の程を弁えて今すぐこの世から消え失せなさい」とかアニメのキャラみたいな台詞を平気で言いそうな顔をしておきながら、私のような木っ端のお願いを聞き入れて戯れてくれる。無理に押さなくても乗ってくれるんだった。中学の部活では回し飲みしまくりだったみたいだし、今更「間接キス」+「あーん」程度で恥ずかしがるはずがない……というか、なにこれ? 口を開けた白川さん、髪の毛を押さえる仕草も相まって背徳感が凄まじい、顔良すぎ……いや知ってたけど、なんなの、これ? は? 待って、ありえない。私が見ていい景色なの? 目の保養どころの騒ぎじゃない。ありがとう、イエス・キリストの生誕を祝う日の前日。このままずっと見ていたい、他の誰にも見せたくない。うう、秒で罪悪感が強まってきて胸が痛い。ただ「あーん」ってするだけなのに……今日は何度も迷惑をかけたからやめたほうがいいのかも……でも、言ってしまった手前、もう後には引けない!)

「じゃあ、あーん……」

 私の口に目掛けてスプーンを運ぶ百井の右手は小刻みに震えている。

 このままではカレーを零すか、勢い余ってスプーンを喉奥まで突っ込まれそうだったので、慌ててスプーンを口の中に迎え入れる。

「あむ」

「わっ」

「ふふっ」

 百井のあたふたした顔はなんだか面白かった。

「……危なかった……美味しい?」

 百井は安堵した様子で私の口からスプーンをゆっくりと引き抜いた。

 口の中に広がる濃厚でコクのある中辛のルー、ゴロッと大きく切られた具材、程よく鼻に抜ける香辛料の香り。感想としては模範的な日本独自のカレー。

「うん、美味しい」

「よかった。私にはちょっと辛いかな」

 道理で顔が赤いと思った。

「なんか食欲湧いてきたなぁ。何か追加で頼も」

「それでこそ白川さん」

 百井がそちら側に近い場所に置いてあったメニュー表を渡してくれた。

「……ねえ、百井」

「あ、別に大食いキャラ扱いしたわけじゃ……」

「違う。でも、以後気を付けて」

「はいっ」

「それよりも、来年こそは彼氏作ろうね」

 私はメニュー表を捲りながら言った。

「……あはは、そうだね。善処します」

「百井ならいけるよ」

「それは買い被りすぎ……それに白川さんの方が先に一抜けしそうだよ」

「え~? 全く気配を感じないけどね」

 自分で言ってて悲しくなってきたので、慰めに豚の角煮を頼んだ。


 百井ほどの優良物件なら、良い感じの彼氏を作って沢山の思い出を作れるはずだとつくづく思う。だからこそ、こんな独り身同士の傷の舐め合いは建設的ではない。

 界隈の男連中に見る目が無いと仮定しても、そもそも女である私が百井にしてあげられることは限られている。大切に思い過ぎるあまり気色悪さが勝ることは考え物なので、度を越えないように思慕の情を抑えて遊ぶ程度が限界。

 でも、百井がこの先ずっと独り身で寂しい思いをする世界があるかもしれない。そんな世界ならグシャグシャに壊したくなる。尤も、百井の生き方を蔑ろにしているし、出来るはずもない。

 むしろ、矛盾に行き当たる私の方が壊れてしまえばいいのに。

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