第七十話

「どうしたの? 顔に何かついてる?」

 眼鏡の百井は何故か素っ惚けている。

 もしかして、私の反応待ち? いいだろう、知的好奇心を満たすために踏み込んでやる。

 眼鏡を掛けた百井は未確認動物UMAほどのレア物。眼鏡を掛けている理由を詳らかにして精神の滋養とする。

「顔に眼鏡がついてる」

「眼鏡? あっ、うっかりしてた……どうりで風の当たり方が違うと思ったら」

 百井は恥ずかしそうに眼鏡のつるを摘まんだ。

 どうやら眼鏡を掛けていることを忘れてここまで来たようだ。世のコンタクトレンズと眼鏡を併用している人たちにとってはよくあることなのだろうか。今日の百井が抜けているだけの気がしなくもない。

 と言っても、そう判断できる要素は特に見受けられない。メイクは良い塩梅だし、服に値札が付いたままでもないし、靴が左右で別のものになってたりもしない。ただ普段の百井が眼鏡を掛けているだけなのです。

「何か不都合ある?」

「無いっちゃあ無いけど、出来れば眼鏡掛けて出歩きたくないかなって……」

「ふぅん。今日の可愛い服に合ってる気がするけどなぁ」

「えっ、そう? 大丈夫な気がしてきた……!」

 百井の表情は一転して明るくなった。この眼鏡も添えての笑顔を見せられたら余人なら恋に落ちていることだろう。

 先ほどからの一連の表情の変化には師走の忙しなさを垣間見る。意図せず整っていたコーディネートが余程嬉しいらしい。

「怪我の功名ってやつだね。もしかして寝不足?」

「それもあるかも。昨日、寝るの遅かったし」

「冬休みだから夜行性にもなるか」

 私は十分に睡眠をとっている。時間にして、およそ九時間半。

「……今日、楽しみだったから」

 百井はマフラーからはみ出た髪の毛を弄りながら言った。

「寝不足になるほど楽しみだったんだ」

「そこそこにだよ、ほんと……。やだ、なんか修学旅行前日の小学生みたいで恥ずかしい」

「嬉しいな。なら、そこそこに頑張って見つけるしかないね、鶴」

「あ、うん、そうだね……」

 百井が見せた熱い探究心に私も決意を新たにしているとバスが来た。

 バスの中は着飾った人が見受けられ、とても込み合っていた。

 私と百井は席に座れたので然程問題は無く、大体の人たちは仙台方面へ行くために途中の駅で降りるだろう。


 バスに揺られて約二十分。長閑のどかな田園風景にも飽きた午前十一時頃、目的地の未代木沼の利用者用駐車場に到着。

 敷地の構造は四千平方メートルほどの沼を囲むように遊歩道が設置され、その外側には常に雑木林が生い茂る。遊歩道の途中には休憩用の広場が点在し、無人の神社もある。

 神社に関しては、林の茂り方次第で目印となる鳥居と道を隠してしまい、土地勘の無い人では見つけることが困難と聞く。

 予想通り、降りる人は他にはいなかった。

 蓮が咲いていないのなら、沼はただの大きな水たまり。長期休暇を利用して道楽のために赴くなら付近の道の駅で飼われている山羊と戯れる方が有意義だろう。

 しかし、そういった無意識が隙を生み、静かな穴場を作り出す。

「ここに来たの小学生以来だけど、あんま変わらないね」

 普段の暮らしでは味わえない自然の匂いが、蓮のスケッチのために訪れた夏の課外授業の記憶を思い起こした。それから私の画力はそれほど向上していない。

 変わったところは鳥用の餌を売っていた土産屋が取り壊され、市の商工課が設置した注意書きの看板の破損が著しいくらいか。

「日中だっていうのに、なんとおどろおどろしい雰囲気……くわばらくわばら」

 百井は縁起直しの文句を唱えながら上着のポケットを漁り、工字繋ぎ文様の小さい巾着袋を取り出した。

「持ち塩だなんて洒落たもの持ってきてるじゃない」

 私の母親も全く同じものを持っているので知っていた。地元の神社で手に入る何の変哲もない代物。

「如何に未代木沼の噂が馬鹿馬鹿しく非現実なものでも、できる限りの用心は必要だと思う」

 百井はドヤ顔で言った。半面、血の気が引いているようにも見える。

「良いと思う」

「白川さんの平常心は、この異様な光景を前にしても発揮されるんだね……」

 百井には何が見えているのやら。

「私、霊感無いしなー。それに、空想や思い込みよりも現実の方が怖いってわけよ」

「身も蓋もない理屈……心を強く持たないとなぁ」

「そんなに怖いなら手でも繋いであげようか?」

 私は冗談のつもりで右手を差し出した。

「えっ」

 百井の両目が眼鏡のレンズ越しでも点になっているのがわかった。これはまずい。

 ちょっと小馬鹿にしすぎたと思い、すぐに右手を引っ込めた。

「な、なーんちゃって」

「そういうの良くないよ、もう……」

 やっぱりな。

「子ども扱いしてごめんね。さあ、気を取り直して楽しい楽しい鶴狩りに行きましょう。後に続け、百井ッ」

「テンションおかしくない……あ、ちょっと待ってよぉ」

 そんなこんなで私と百井は、簡易的な地図看板が置かれた入口から落ち葉が多い遊歩道へと歩みを進めた。

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