第五十八話

 あの場は人の多さに乗じて大胆かつ密やかに抜け出した。

 毛利さんなら言葉巧みに状況を誤魔化すだろうし、樋渡も援護射撃が必要なほど子どもではない。であれば私は、窓から見える夕焼け雲に思いを馳せて優雅に下校するのみ。

「待ちなさいっ……!」

 別棟二階の階段の踊り場で、小走りの桂木さんに再度呼び止められた。

「……やれやれ、十分待ったと思うけどね」

 私は、息を切らした様子の桂木さんに呆れを込めて言った。稀に見る執拗さである。

 桂木さんは私を風紀を乱す者として取り締まる大義名分があるけど、綺麗事ばかりでは世の中は回らない。周りには誰もいないので、ここは袖の下を握らせて黙ってもらおうか。先ほど買った未開栓のゆずの炭酸ジュースでいいかな。

「はぁ、はぁ……あなた、他人ひとのことを軽視しすぎじゃないかしら……」

 桂木さんは息を整えて塩梅の難しいことを言った。

「過干渉なのも如何なものかな。私を変態扱いしてまで手柄を立てたいの?」

「……さっきは気持ちが逸ってしまって……その……ごめんなさい。変なことをしているとは微塵も思っていないわ」

 桂木さんは先ほどまでの苛烈な様子から打って変わって柔和な姿勢になった。私を取り締まる意思が無いのであれば、他の同級生と同じく平等に接するのみ。

「私に何か用事があったんだね?」

「ええ。少し、聞きたいことがあって」

「なら、手短に頼むよ」

 とは言え、桂木さんは初対面の私に何を聞きたいのだろうか。自分のことを棚に上げる秘訣かな。

「……神長さんとは……どういう、間柄なの?」

 桂木さんの質問は予想外だった。

「えーっと、中二からの付き合いで、今や体操服の貸し借りが平気にできる程度の仲……ん、向こうが借りに来るだけで、私は借りたことないな」

「普通の友達って感じね……」

「うん、ほど良い感じの仲ってことで。それで、何のためにこんなことを聞いたの?」

「……最近、神長さんと……友達になったのよ」

「ふーん」

「樋渡さんも交えて遊んだり、文化祭では一緒に行動もしたのだけど、事あるごとにあなたの話をするのよ」

「私の話?」

「もちろん、褒めるような話。そのおかげで、神長さんにとってあなたがどういう存在なのか気になって……」

 桂木さんはもじもじしながら語った。

 以前樋渡が言っていた神長が仲良くしている風紀委員会とは桂木さんで間違いない。

 恐らく仲良くなる切っ掛けは……神長が受け取っていたラブレター。確か球技大会の日、神長は困惑している様子だった。送った人が桂木さんなら辻褄が合う。女虚無僧が目の前に。

 尤も、あのラブレターがどのような内容だったのかを私は知らない。

 神長への抑えきれない感情をしたためた物かもしれないけど、もっと純粋な友達になりたい気持ちを伝えた素敵な物かもしれない。

 それを受けて好意的に接している神長は、大方話題に困っているのだろう。お互いに高校生になるまで色々と経験してきたはずなので、距離感の見極めが慎重になるのも頷ける。

「何とも言えないけど、距離感を計ってるんじゃないかな」

「そうよね……まだこれからよね」

 桂木さんも答えは出ているようだ。

「神長は良いやつだよ、ほんとに。桂木さんは人を見る目があるね」

「そ、そうかしら」

「だって、人がいないところで、その本人を褒める話ができる人って、あまりいないでしょ」

「愚痴や文句の方が盛り上がるものね。認めたくないけど」

「そう。つまり、神長は稀有な存在」

 私がドヤ顔で言うと桂木さんは一拍置いた後、

「……それって自分のことも含めてない?」

 と言った。

「これは一本取られちゃったな。好きに解釈していいよ。話は終わり?」

「え、ええ」

「それにしても、随分と熱中してるんだね」

 桂木さんの頑なさが目立つ委員会活動は目を見張るものがある。

「当然よ、本気だもの……」

「私、応援してるから。それじゃあね」

 私はそう言い、階段を下りて昇降口へ向かった。背後からは「……頑張るわよ」と、桂木さんの頼もしい文言が聞こえた。

 桂木さんの率先した委員会活動をもってすれば、この学校の風紀は保たれる。自己主張の激しい生徒からは煙たがられる苦難の道だと思うけど、悪徳に対する抑止力として、時間を惜しまず身を粉にして頑張ってほしい。


 昇降口に着くと下駄箱には百井がいた。見ていると落ち着く小さな背中。ちょうど新聞委員会の打ち合わせも終わったようだ。

「あ、白川さん」

 靴を履き替えていた百井は少し驚いた顔をした。

「もう帰り?」

「うん。まだ学校にいたんだね」

「ちょっとオカルト部で遊んでた」

 私は下駄箱からローファーを取り出しながら言った。

「ええ……毛利のところじゃん」

 百井は微妙そうに言った。

「それが結構居心地が良くてさ」

「もしかして、オカルト部に入っちゃうの……?」

「ふふっ、百井も一緒に入る?」

「変人扱いされるのは……あ、でも、白川さんが入るなら私も……」

 百井は、私の冗談を真に受けてしまったようである。消極性を助長するのはよくなかった。

「なんてね。私は卒業するまで帰宅部だよ」

 私はそう言い、昇降口を出た。百井もそれに続いた。

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