第五十四話
百井の食欲は本物で玉子粥は順調に減り、お椀が空になる頃にはほんの少しだけ元気を取り戻していた。
「解熱剤とかは?」
「大丈夫そう……」
私に凭れる百井は答えた。
「そうだ。チョコ買ってきたんだった」
「チョコ?」
私は腕を伸ばしてテーブルに置いていたビニール袋から高カカオチョコレートの箱を取り出した。
「ふふっ、いかにも体力回復に効果覿面って感じのカカオの数値」
実際効くのかどうかは諸説あり。
「こういうの食べたことない……」
「ビターチョコだけど、美味しさは保障されてるよ。試しに食べてみ?」
四角い箱を開け、小分けにされたチョコレートの包みを百井に渡す。
「……んんっ……苦い……けど美味しいね」
「でしょ」
前に百井がコーヒーを飲むのに苦心していたことを思い出しながら、私もチョコの小気味のいい歯ごたえと味を楽しむ。
「……今日は急に呼んでごめんね」
百井は水臭いことを言った。
「これぐらいお安い御用だよ。まあ、他の人に声を掛けた上で私にお鉢が回って来たんだろうけどさ」
百井の心細さは電話口でも伝わっていた。病は気から。私は身を以って知っている。
たとえ消去法で私が頼られたとしても、自分の存在が百井の心からそういった気持ちを一時でも取り除けるのであれば、愛しき休日を投げ捨てて多少の献身も許容できた。
「……白川さんがいの一番、だよ」
百井の言ったことは想定外だった。百井が頼る候補と思わしい毛利さんや他のクラスメイトなどの錚々たる顔触れを抑えて私が選ばれるとは名誉なことだけど。
「……操作ミスとかでしょ?」
「私、そこまで指太くないし……」
「そうだね……次は期待しないでよ? 今日みたいに来れるかわかんないから」
「次…………あの、白川さん」
「何?」
「今度、何か困ったことがあったら……体調崩した時でもいいの。その時は、私を頼ってよ……力になるから」
「うーん……機会があったらね」
「はぐらかしてる……」
何故かいじける百井に私の前向きな検討を蔑ろにされた気がした。
「……」
「ふぅっ!?」
より一層非難するために、凭れる百井の脇腹に指と手を沿わせた。ずっと触っていたいと思わせる質の良いパジャマである。
「……別にはぐらかしてないでしょ」
そのまま百井のお腹の前に手を回して自分の体を押し付けるように抱き寄せた。
「ちょ、ちょっと……白川さん……?」
「……私、そんなに孤高の存在に見える? 百井にそう思われると、なんか寂しいな……」
私が他者を信用しない人間だと百井に思われているとしたら、途端に孤独を感じて怖くなった。
「……ごめん」
「大丈夫、ちゃんと考えておくよ」
私が耳元で囁くと百井は頷いた。
弱っている時でも他者への献身を申し出るところに百井の見どころがある。忘れないようにしよう。
「あの白川さん……」
百井はもじもじと震えた。
「ん?」
「お、お腹っ……くすぐったいっ……」
百井はそう言い、見悶えた。
「ごめんごめん。食べたばかりで苦しいよね」
私は回していた手をほどいて百井を解放した。
すると枕元に置いてあった百井の携帯電話が鳴った。
「
百井は携帯電話を操作して言った。夜宵とは百井の妹のことだろう。顧問と相談して早めに帰宅するそうだ。姉想いの良く出来た妹。
「そう。なら私はお役御免……あっ、やばい……くしゃみ出そう」
まずい、鼻がむずむずする。さっき食べたチョコが原因か。
「えっ、くしゃみ?」
「……えひゅっ! えひゅうん!」
私は顔を手で押さえて、百井から顔を背けた。
「……ほんとにチョコ食べるとくしゃみ出るんだ」
「んっ、んん……失礼」
「可愛いくしゃみだったね」
百井の声音は明るかった。
以前、樋渡の前でくしゃみをしたとき、「お前のくしゃみ、めっちゃムカつくな……」と言われたことを思い出した。百井の言葉で帳尻は合ったかな。
その後、本棚にある巻数の多い少年漫画を百井と読んだりして時間を過ごした。
小一時間ほどして帰ってきた百井の妹に後を任せ、私は百井の家を後にした。
その日の夕方。自室のソファーに体を預ける。疲れたけど、運動不足の解消になっていると思いたい。
広いだけで質素な自室を見渡し、初めて入った百井の部屋と比べる。ああいう部屋が男受けの良い部屋というものだろう。遊び心を出すためにサーフボードでも飾ってみようかしら。
百井は写真をよく撮るので本棚にはアルバムが沢山並んでいるかと思いきや、種別問わず漫画ばかりだった。写真のデータは恐らく学習机の上にあったパソコンに保存されていることだろう。データだけでは味気ないと思う私が前時代的。
現像にお金は掛かるけど、手元に写真が増えることで蒐集癖が開拓されてしまった。それが原因で、最近撮り始めた我が家の猫の写真の厚みは、既に国語辞典の厚みを超えたほどである。
折角なら百井の中学の卒業アルバムを見たかったけど、また百井の家を訪れた時でも十分。そのための機会を設けるために日々を過ごす。そう考えると、不思議と楽しみが増えた気がして気持ちが高揚した。
ふと鼻の下を何かが伝った。私も花粉症になってしまったのか鼻水が……いや、違う。
このサラッと流れる感触は血液、鼻血だ! まずい、このままでは部屋着が汚れる。カーペットもだ。
ごっそり取り出したティッシュを急いで鼻に宛がい、下を向いて小鼻を押える。最後に鼻血を出したのは小学生の頃なので、適切な処置を忘れてしまった。
一先ず、用心して一階に降りた。
「おかーはん、はなぢでた……」
キッチンで夕飯を支度する母親に助言を求めた。
「鼻血? えーっと、冷やすといいのかしら。あっ、口の中に逆流してきた血は飲んじゃダメよ」
「うん……」
私は冷蔵庫から保冷剤を取り出した。
「にしても、丁度いい日に鼻血出したわね」
「どういうこと?」
鼻血を出すのに丁度いい日などあるはずないだろうと内心思った。
「今日の夕飯はレバニラよ」
母親はそう言い、おろし金と生姜を見せた。失った鉄分の補給に打って付けと言える。
十数分後、鼻血は収まった。少し手についた血は洗面所で洗い流した。何かと乾燥する季節、気を付けなければ。
そう思い、なんとなく髪に触れた。
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