第四十三話

 当然百井は通話アプリの熟達者であり、メールはネット通販の注文確認用としか使っていないらしい。

「これ……なんかの歌詞?」

 百井のメールアドレスは特徴的なフレーズで構成されていた。

「うん、結構前に流行ってた曲の」

「ふふっ、ダッサ」

「いや、白川さんの『whiteriver』だって大して変わんないじゃん!」

「言ってくれるねぇ」

 百井の言う通りで、私のメールアドレスは自分の名字をそのまま英単語にしただけなのでちょっと恥ずかしいと思っていた。

 当たり障りのないメールアドレスを作成するのも一つの手だけど、わざわざ使い分けるのは面倒だ。然るべき時が来るまではこのままで行こう。

 百井と連絡先の交換を終え、少し早めの昼食のために一階へ移動した。


 リビングでは我が家の猫が日当たりの良い窓の近くで丸くなっていた。そっとしておこう。

 調理に少々時間が掛かるので賑やかしのためにテレビを点け、リビングから繋がるキッチンの区画へ。

「マッサージチェア……」

 百井はリビングの壁際に設置されたマッサージチェアを見て言った。

「ああ、あれ? ああいうのって買っても意外と使わないんだよね。見ての通り今は荷物置き」

「そんなもんなんだ」

 百井をキッチン近くのテーブルに案内した。

 百井が座る席は、普段は私が座っている席。私は向かいの母親の席に座る予定。

「ジェノベーゼにしようと思うんだけど、バジルとかオリーブオイルは平気?」

 私はキッチンに移動し、手を洗いながらシンク越しに百井に聞いた。市販のパスタソースの方が洗い物が少なく済むけど、今日は手作りの気分。

「平気。ジェノベーゼ好きだよ」

「OK」

「楽しみだな……」

 作り甲斐が湧くことを言ってくれるではないか。早速調理に取り掛かる。

 具材は便利なサラダチキンと彩りに赤を加えるためのミニトマトを使う。本来なら冷凍のシーフードミックスでも使うところだけど解凍には時間が掛かる。

 サラダチキンを袋の上から適当にほぐした後、ミキサーでジェノベーゼの材料を良い感じに攪拌し、濃い緑色のペースト状へ。これまで何度か作っているので調味料は全て目分量。松の実は常備していないのでカシューナッツで代用した。

 ここで一度ジェノベーゼの味見。バジルの香ばしさと適度な加減の塩味が感じられて舌触りも良い。まあ平凡な味。

 別のスプーンと皿を用意し、百井に味見をしてもらう。

 思えば百井に他人の家の料理の味付けに良い思い出が無かった場合を考慮していなかった。味見した限りでは味に問題は無いと思うけど、人の味覚は千差万別。

 百井は退屈していると思いきや、いつの間にか起きていた我が家の猫が足元に来ていて相手をしていたらしい。

「百井、味見して」

「あ、うん」

「はい、あーん」

「えっ」

 百井は驚いた顔をした。

「何? 『えっ』て。これから茹での工程に入るからあまり時間を取らせないでほしいな」

「いや……その」

「ん、もしかしてスプーン? 安心して、私が味見に使ったスプーンとは別のだよ」

「それは、別に……」

「なら口開けて、あーん」

「あ、あ……」慎ましく開かれた百井の小さな口にスプーンを運ぶ。天下を分ける一瞬が今ここに。「ん」

「どう?」

「うん、ちょうどいいと思う……」

「じゃあ、あとはパスタ茹でるだけだからもう少し待ってて」

 再びキッチンに戻り、塩を入れて沸騰させた湯に約百七十グラムのパスタを広げ入れ、適度に鍋の中をかき混ぜつつアルデンテを目指す。

 程よく茹で上がったパスタの湯を切り、先ほど作ったジェノベーゼと共にボウルに入れて和える。

 和えたパスタを温めた白い皿に立体感が出るように盛り付け、ほぐしておいたサラダチキンとくし切りにしたミニトマトを乗せれば出来上がり。

 所要時間約十五分。まだまだ時間短縮の余地あり。

 良い時間になったので我が家の猫のご飯も準備。猫缶を開けると音に反応してすっ飛んできた。

「はいお待たせ、ジェネべーゼのパスタです」

 私はそう言い、百井の前に皿を置いた。

「めっちゃ本格的……」

「そう? 誰が作ってもこんな感じになると思うけど、松の実使ってないし」

「私が作ったらこうはならない……」

「あ……別にマウントを取ろうとしたわけじゃないから。料理が出来なくても生きていけるよ」

「だ、だよね……」

「多分ね。よいしょ」私も席に着き、早速フォークでパスタを巻き取り口に運ぶ。まあまあの出来。

「いただきます」

 百井も続き、フォークでパスタを丁寧に巻き取り口に運んだ。

「美味しい?」

 百井の咀嚼が終わったのを見計らって感想を求めた。

「うん……美味しい」

「よかった」

 お世辞ではないようだ。顔を見ればわかる。

「毎日でも食べたい」

「それは言い過ぎでしょ……」

「そうでもないよ」

 百井はそう言い、またパスタを口に運んだ。

 私を専属のシェフとして雇うつもりか。私は自分の食べたい料理しか作らないせせこましい女だぞ。

 二人してあっという間にパスタを食べ終わり、百井が買ってきた桃缶をデザートとして食べることになった。

「聞きそびれてたんだけど、百井の誕生日はいつ? もう過ぎてたり?」

 私はそう言い、皿に空けた白桃を食べた。

「来月。十一月三十日」

 百井はそう言い、白桃を食べた。

「まだなんだ。では祝いましょう」

「そんな……いいよ」

「遠慮しなさんな」

「だって私……白川さんの誕生日ちゃんと祝ってないし……」

 ちゃんと祝うとはどういうことだろう。

 祝いの言葉で十分だと思うし、連絡先も交換できた。それにこうして美味しい白桃を食べられている。

 とは言え、百井の誕生日をちゃんと祝う大義名分を得るためにもここは一つ乗っておこう。

「おいおい、私の誕生日は絶賛継続中。まだまだ祝われる気満々なんですけど」

「ほんと? なら何か欲しいものある?」

 百井は目を輝かせて言った。人の誕生日を祝う場合はプレゼントを贈ることが外せないと見た。出費が嵩みそう。

「今だとアイブロウかな。どうも減りが早くてね」

「後でブランド教えて……!」

「うん。じゃあ次は百井の番ね。常識の範囲内で頼むよ」

「私は、白川さんがくれるなら別になんでもいいけど……」

「あっそう。じゃあ百貨店の紙袋とかでもいいってことね。いつか使うかもと思って捨てずに取っておいたものがあるから楽しみにしてて」

「そ、そういうのは流石にいらないよ~! ちょっと待って考えるから……」

 百井はそう言い、頭を抱えた。

「まあ、いきなり聞いた私も悪かった」

「ああ、ダメだ全然思いつかない……」

「誕生日まで時間はあるからゆっくり考えて。それこそ連絡先を交換したことだし、今度一緒にどこかへ出掛けようよ。百井の誕生日プレゼント選びの参考になるかも」

「それってデート……ってコト!?」

 百井は突拍子も無いことを言った。

「言葉の使い方合ってるの、それ? なんなら毛利さんとかも一緒でいいんだけど」

 デートとはロックで洒落た言葉を用いる。私も真似してみようかしら。

 それはそれとして百井のこととなると色々と気に掛けてくれる毛利さんに助言を求めるのも一つの手だろう。

「あいつはいいよ……」

「ふーん」

「誕生日になると変なサプライズ仕込んでくるし」

「尚更参考にするべきでは?」

 私はもっともなことを言った。

「私は白川さんと……二人きりがいい」

「確かに二人ぐらいが気楽だよね。じゃあその方向で調整しますか」

 私はそう言い、皿に残っていた最後の白桃を口に運んだ。


「私、そろそろ帰るよ。用事あるみたいだし」

 リビングを出て直ぐに百井は言った。

「うん。お茶どころかお昼ご飯にまで付き合わせて悪かったね」

「全然……あの、最後にお願いがあるんだけど」

「何?」

「一緒に写真撮ろ?」

 百井の右手には携帯電話が握られている。

「はあ。あなたほんと写真撮るの好きね」

「嫌なら……あっ」

 私は右手で百井の左手を掴んだ。

「このまま撮ったら制服の百井とギャップがあって変。一度制服に着替えさせて」

「えっ、わざわざ着替えるの? そこまでしなくても」

「自分が写る写真なんだからこだわるに決まってるでしょ。ほら、部屋行くよ!」

「あっ、ちょっ、ちょっとぉ~!」

 私は百井の手を引き、急いで二階へ向かった。

 自室に戻り、百井の目の前で制服に着替え、駅前で撮った時と同じような構図で写真を撮った。


 百井が帰った後、予定通り夕方から家族と共に寿司屋へ行き、得も言われぬ満足感と共に自宅へ戻ってきた。

 換気も兼ねて自室の窓を開け、携帯電話を持ってバルコニーへ出た。ひんやりとした空気が心地よい。

 外は夜のとばりが下りて静かな闇が一面に広がっている。近隣の住宅から洩れる光もちらほら見えるけど、都会の煌々さに比べたら微々たるもの。

 夜空を見上げると星が見える。この地域の唯一の自慢と言っても過言ではない澄んだ夜空に映える星。高台の場所ならもっと綺麗に見えるだろう。

 畳んでいた外用の椅子に座り、百井から送ってもらった写真を今一度眺める。

 写真に写る私の表情は、駅前で撮った写真よりも今日撮った写真のほうが和らいでいる。

 並んで写る私と百井を見比べる。

 身長はもはや同じと言ってもよく、わざわざ着替えた制服もいつも通りに着崩していない。自分の顔つきを評価するのは馬鹿げているけど、百井と並んでもギリギリ許されるレベルの顔だろう……多分。

 写真をデータだけで楽しむのは味気ない。今度現像してこようと思ったところで、一際冷たい風が身体を撫でた。

 外に出たことを少し後悔しながら部屋へと戻った。今年も秋はあっという間に終わってしまう予感がする。

 私は冬が嫌いだ。本当に嫌いだ。雪かきが大変だし、なんだか切ない気持ちになる。体感の寒さは耐え難い。けれども着込めば何とかなる。

 しかし、寂しさから来る心の寒さは対処の仕方が難しい。精神的な寒さに晒されたままでは、やがて心は熱を失い凍てついて砕け散ってしまう。

 寂しさを紛らわすものはこの世に溢れている。一学期の頃の私はそれが見つけられず凍える寸前だった。

 そんな中で見つけた百井は私の心を暖める焚き火のような存在なのかもしれない。

 いや、焚き火は言い過ぎだな。炬燵的な存在だろう。現に百井の体は程よく温かい。

 百井なら、私が密かに抱いているを叶えてくれるかもしれない。

 こんな私にも野望がある。

 地位や名誉を得たい、玉の輿に乗りたい、といった、人が思い浮かべる全霊を持って叶えたい夢に類する野望。私の野望を百井が叶えてくれるなら話は早いのだけど、人を選ぶ野望の自覚はある。

 なので今は百井で暖を取ることを優先したい。今よりもっと仲良くなって私の野望を打ち明けられる時が来ると信じて。

 何より寒くて凍えるのは嫌だから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る