第二十三話

「……んぅ」

 いつの間にか眠っていた。使い慣れていないベッドとは言え、宇宙の神秘に迫るような思考にふけると直ぐに夢心地だ。仮眠によって片頭痛は和らぎ一安心。

 私が起きた原因は、仕切りのカーテンの外から聞こえる生徒たちの騒がしい声だった。至極ありがた迷惑だけど、養護教諭の厄介になるよりはましか。

「あ、起きた」

「えっ」

 私が腕時計を見ようとすると、仕切りのカーテンで隔絶された空間のはずなのに頭の上の方で何者かが囁き、意表を突かれた。

 寝ぼけ眼で人の気配がする右方に首を回すと、枕元の空いているスペースに何者かが腰を下ろしていて、見覚えのある美しい黒髪が視界に入る。

 そのまま視線が下がり、次はクリーム色の背中。更に視線は下がり、最終的に制服のスカートに包まれた尻と目が合った。なんだこの無礼な尻は。

「おはよう白川さん」

 その尻の持ち主は百井。腰を少し捻って私を見下ろしている。

「百井……おはよう……」

 他者の情事を間近で見ても動じることのない不動心が身に付いているとは言え、百井が枕元に腰を下ろしている珍事には少々混乱している。

 事態を探るために寝起きで気だるい身体を起こした。そのまま体温で温まった掛け布団を巻き込み体育座りして百井の方を向いた。

 それを見て百井は、ベッドに腰を下ろしたまま体を少し私の方に向け、左脚を上にして脚を組んだ。右手で携帯電話を持っている。

 それにしても足元がソックスだけで寒くないのだろうか。私が寒がりなだけか。

「今日二回目だね」

 百井は言った。百井の脚に見惚れて何が二回目なのかと思ったけど、「おはよう」が朝と合わせて通算二回目ということか。

 一先ず腕時計を見た。今は昼休みの時間帯。

「いつからそこにいたの?」

 私は言った。

「さっき来たばかり。白川さんの具合が気になってね」

「そうなんだ…………ありがと」

「いえいえ。さて、白川さん。おでこを出して」

 百井はそう言い、脚を組むことを止め、膝立ちでベッドに乗り上げた。

「おでこ? なんで」

「熱測らないと」

 百井の手に体温計らしきものは見当たらないので口振りから察するに、額に触れて検温するつもりのようだ。

「熱はないと思うからパスで」

 寝起きで頭がぼんやりとしている。しかし、微熱による倦怠感ではない。検温していないから自信はないけども。

「一応計ろうよっ、ね?」

 百井は私のお断りをものともせず、尚も食い下がる。そこまですることだろうか。

「なら体温計を……」

 百井が放つ有無を言わさぬ迫力には負けた。

 それでもこの歳でままごとじみたことをするのは抵抗がある。

 それだけでなく、額に触れて検温する民間療法の類は信用できない。万物の霊長なら文明の利器を使おう。

「あずちゃん、今他の子診てるから邪魔しちゃ悪いって」

 あずちゃん? あずちゃんって誰?

 どこか聞き覚えのある響きに頭を捻り、ようやく思い出した。それは養護教諭の名字。確かあずま先生だったな。

 仕切りのカーテンの外は依然として保健室らしからぬ賑やかな様子。東先生の忙しさがわかる。生徒たちがフレンドリーなのか、東先生が舐められているのか。

 どちらにせよ尊敬すべき教職員に対してなんたるアウトレイジ。その姿勢は私も見習わなければ。

「……じゃあ、いいよ」

 百井の提案を渋々承諾した。

 体温計くらい持ち出せる気もするけど、忙しい東先生の手を煩わせることはためらわれる。加えて東先生たちの情事を見てからそれなりの時間が経ったとは言え、少々気まずいものがあり、出来る限りの接触は避けたい。

 いざ他人に体を触らせるとなると理性の防波堤が働き、鞄から手鏡を取り出して額に寝汗をかいていないか確かめる。うん、サラッとしていた。

「よしっ……、やるよ……!」

 百井は過度な意気込みを見せ、膝歩きで私ににじり寄ってきた。上靴を履いたままだけど、このベッドは狭いから足はベッドの外に出ている。

 やがて膝立ちの百井の鳩尾みぞおち付近が私の目の前に。おお、何だか威圧感があるな。ついでに目下調査中の私の好みの香りが心に安らぎを運んできた。

 私は大人しく前髪を上げ、百井は自分の額に左手を当てつつ、私の額に右手を当てた。

 百井の右手はふにゃりと柔らかく、ぬるかった。

 今の私は発熱するタイプのインナーが効果を発揮している影響で体は温かい。そのこともあって、百井の右手の熱や感触でも心地よく感じられる。というか顔が、主に頬が熱い。

 それに脈が速くなっている。私は未だに百井と接する時に体が強張る。もはや必要経費として割り切っているから今更気にはしない。

 総合的に見て、私は熱があるのかもしれない。

「どうですか先生」

 私の額に右手を当てたまま「うーん?」と虚空を見つめて唸る百井に、あたかも病院を訪れた患者のように訊ねた。判定やいかに。

「熱は……ない、よね?」

 百井は自信なさそうに言った。

「ほんとに?」

「ううん、適当言った。よくわかんない」

 百井はそう言うと私の額から手を離し、自分の額からも手を離した。

「具合は悪かったけど、ちょっと寝て良くなったよ。心配かけてごめん」

 私は乱れた前髪を直しながら言った。検温するまでもなく、熱はないのだろう。

「いや、いいよ。大事無くて何より」百井はそう言いベッドから降り、今度はベッドの横にあった背もたれがない椅子に座った。「それにしても白川さんって寝相良いんだね」

「そう?」

「頭と足が逆さになってたわけじゃないんだから良い方でしょ」

「ふふっ、それもそうか」

 過去の修学旅行でそんな人がいたことを思い出し、つい笑った。

「イタズラしても微動だにしないの」

 百井はニヤリと口角を上げて言った。

「ちょっと待って。私が寝ている間に何かしたわけ? 事と次第によっては風紀委員会に突き出す必要がある」

 百井の言葉を受け、成る丈冷ややかに言った。

「えっ、それは勘弁を……」

 百井は顔を青くした。

「なら何したのか言って?」

「その……なんていうか……」

 百井は露骨に言い渋った。

「まさか言えないことしたの? ブラのホックでも外した?」

 百井がどんなイタズラをしたのか考えつかなかったので鎌をかけるために適当なことを言い、私は自分の胸元のボタンに手をかけた。

 おもむろにワイシャツの前を開けようとする私の様子を見て、百井は「いやいやいやっ! そんなことは滅相もございません!」と変な口調になるほどに慌てて、ついに白状した。「あの……写真を撮りました、白川さんの寝顔の」

「笑えませんなぁ」

 私もつられて変な口調になった。そんなことよりも、どぎついイタズラじゃなくてよかった。

 百井は「女同士だから」という体のいい言い訳に胡坐をかいて不埒な行為に及ぶ口ではないのだろう。いくら私でもセクハラ紛いのことをされたら、この世の全てに嫌気が差すほど悲しくなる。

「ごめんなさい……」

 先ほどまでの勢いはどこへやら、百井は縮こまってしまった。

「どんなのが撮れたのか見せてよ。話はそれから」

「あ、はい」

 百井はそう言い、携帯電話を私に手渡した。

「どれ……白目でも向いてたのかな」

 私は間抜けっ面を晒して眠っていたのだろうか。

 あられもない姿を写真に収められていたら私の自尊心は粉微塵と化してしまう。ものによっては跡形もなく消し去る必要がある。

 百歩譲って写真を撮ったことは大目に見よう。

 主な焦点は私の了承を得ず、勝手に写真を撮ったこと。万が一にも私を貶す悪意ある意図があれば、例え百井でも容赦なく非を責め立てる。時には心を鬼にして私が打たれ弱い人間であることを思い知らせなければ。

 しかし、写真を見た限り、他人に見られたくない顔はしていないし、悪夢にうなされている様子でもない。何の面白みのない私の寝顔だ。

「何で撮ったの?」

「白川さんの寝顔が可愛かった……から」

 百井は口ごもりながら嘘っぽいことを言った。

「可愛いからって……まあ、今回はお見舞いに来てくれたことに免じて許すけどさ」

 怒る気が失せる理由で拍子抜けした。

 仮初の言葉だとしても、それはそれとして気分は良い。「もう勝手に撮らないで」と釘を刺し、百井に携帯電話を返した。

「はい……気を付けます……」

「私が寛容な人間だから許すのです。あとネットにはアップしないように」

 念押しに百井は頷いた。勝手に写真を撮らなければそれでいい。甘いとも思えるけど、百井の功績を評価すれば、温情を持たざるを得ない。

 今の私に仮想のイタズラに対しての恐怖心は皆無。

 人は寝ている間に記憶を整理するらしく、時間が解決したとも思える。更に東先生たちが織りなす光景は、私の些細な悩みなど彼方へ吹き飛ばすほどの衝撃だった。それでも、私には少し刺激が強かった。

 恐怖心には百井の優しさの方が効いた。

 例えクラスメイトの一人が保健室に行っても、その人が溢れんばかりのカリスマ性を保有していなければ気にも留めない。私はそういった星の下に生まれた人間ではない。有象無象の一人。

 それなのに百井はわざわざ見舞いに来てくれた。それが嬉しかった。枕元に腰を下ろしていたのはビビりはしたものの、百井だったから別にいい。


 一悶着を終え、百井は昼食が済んでいないらしく、私のお腹の虫も鳴いていることもあり、学食に行くことになった。

「百井、上靴取ってくれない?」

 私はリボンを結びながら言った。

「あ、うん」

 百井が寄せてくれた上靴はぴったりと揃っていた。良い心掛けだ。

 私は百井に感謝を伝え、体温で温まった掛け布団を捲り、上靴を履くために脚を放り出した。

 すると百井は「おわぁ……」と、ちょっと間の抜けた声を出し、私の脚に食い入るような視線を向けた。

「どうかした?」

 私は百井を訝しんだ。タイツのつま先に穴でもあったかな。

「えっ、あ、あの、白川さんの脚って細くて綺麗だなって……」

「今日はやけに褒めてくれるね。生憎だけど太鼓持ちを雇う予定は無いよ」

 私はそう言い、上靴を履いて腕時計を見た。まだ昼休みは半分ほどの時間が残っている。

「……別にそんなんじゃないよ……そういえば白川さんって左利きだよね? 腕時計を右腕に着けてるし」

 百井は言った。

「いかにも」

 私はカーディガンを手に取って答えた。

「でもさっき右手でシャーペンを持ってたよね」

「そうだったかな? 実は両利きなんです。中学三年の時に特訓して右手も使えるようにしたんだ」

「へぇーすごいね、結構最近のことだし。ってことは、最初は左利きだったんだ。怪我でもしたの?」

「いや、部活引退して暇だったからかな。それにしても百井って人のことをよく見てるんだね」

 私はブレザーを着て身なりを整えながら言った。

「ふ、普通だよ、ふつー……」

 百井は目を泳がせた。謙遜ってやつだろう。

 私は他人の利き手など一々記憶しないから普通とは思えない。百井の鋭さが為せる業に違いない。

 参考のために少し前かがみになって椅子に座る百井の大きな瞳を覗き込んだ。見たところ百井の目元はちょっと赤い。乾燥する時期だから肌荒れしているのかな。

 吸い込まれそうな瞳をじーっと見つめていると、百井の顔が目元以外も赤く染まっていくのがわかった。

「あっ、ごめん」

 好奇心のあまり、つい調子に乗ってしまった。

「ううん、全然、いいの……ほら学食行こ……」

 百井はよろめきながら立ち上がった。私より百井の方が具合が悪いのではなかろうか。でも背筋は伸びているから大丈夫そうだ。

 百井が仕切りのカーテンをゆっくりと開き、私と百井の二人だけの空間は終わりを告げた。

 お疲れ気味の東先生に午後の授業は受けることを伝えて、百井と共に保健室を後にした。

 保健室を出る時に東先生から鋭いアイコンタクトが送られたので、適当にウインクを返しておいた。

「ねぇ、今度サボる時は私も誘ってよ」

 私の右隣りを歩く百井は邪悪なことを言った。

「しばらくはサボらない」

「なんで?」

「癖になっちゃうから。サボりたいなら勝手にサボって」

「えぇ……真面目だ」

 百井は気落ちした様子で言った。

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