第二十二話
眼精疲労の疑いもある瞳を閉じ、彼女らの情報を整理することで安眠に至るまでの暇つぶしとする。
養護教諭の方は二十代半ばくらいの女性で、茶髪のボブカットの結構な美人。背丈はそこまで高くはない。温和な性格と持ち前の美貌で生徒のみならず教職員からも慕われている。
あの若さで一端の養護教諭であることから、相応に優秀な人物であることが読める。私が通っていた小・中学校の養護教諭は双方共に、ベテランの風格を漂わせる凄腕のおばさまだった。
敬意の念を抱くには十分なかっこいい女性であることに間違いないけど、その割には危機感が足りていないというか。鍵の閉め忘れや先ほどの慌てぶりを見ると、着ている白衣は飾りなのではないかと思ってしまう。
保健室の支配者ともなると、生徒が起こした突発的な事故による怪我の応急処置に追われたり、思春期の生徒から吐き出される雑多な悩みの受け皿を担っていることが想像できる。
日夜多岐に渡る過酷な業務と向き合い、心労が溜まっていることは明白。今日はつい魔が差した、そんなところだろう。
女子生徒の方は居住まいから察するに、上級生だと睨んでいる。黒髪のロングヘアーで中肉中背。キリッとした面構えで学校指定のセーターを着ていた。
授業を受けずに保健室で情事にふけているところから、相応の不真面目さが見てとれる。私が言えた口ではないけど。
私は以前、あの女子生徒をどこかで見た覚えがあった。それでも直ぐに思い出せない。私と関わりが浅い人物であることは明らか。
もはや薄れつつある過去の記憶を掘り返して、ようやく思い出した。
六月のある日。私が部活に入らなければいけない、と今ではアホらしく思える強迫観念にとらわれていた頃のこと。
樋渡とその友達と弓道部の見学のために、学校の弓道場に訪れたことがあった。弓道場は正門前の道路を挟んで向こう側に立地している。
そこで行われた部活の見学の案内や、練習内容の説明を率先して行っていた人物がいた。
それが先の上級生、弓道部の部長。恐らく三年生で、弓道部は既に引退しているはずなので、弓道部元部長か。
その時の彼女は弓道着に身を包み、長い髪をポニーテールにまとめて、あたかもやまとなでしこ然とした出で立ちだった。
栄えある部長のポストに就いていたことから、弓道に関する技量の高さに加え、リーダーシップに長けている人物であることが窺える。尤も、先の慌てた様子の人物と同一人物だと認識することは難しい。
果たして彼女らは永久の愛を誓い合った相思相愛の間柄なのか。それとも刹那の出会いに価値を見出した赤の他人なのか。
抱きしめ合ってキスするくらいなので、お互いをかけがえのない存在だと認識しているはずだけど、真意は測りかねる。もしかしてキスってそこまで重要なものではないのか。いや、彼女らの反応を見るに前向きな関係だろう。
それにしてもキス、女性同士のキスか……。
休日に街を歩いていると、手を繋いだり、腕を組んで歩いている女性同士を見ることはあった。
それを見ても私は「とても仲が良いんだなー」としか思っていなかった。
今では女性同士のそれ以上の行為を見てしまい、深淵を覗いた気分。こんな経験、北海道で美味しいウニを食べた時以来の衝撃。
女性同士とは言え、お互いに何か芽生えた感情があり、当人同士が満足する結論を出して前に進んでいるはず。彼女らが織りなす愛情の前では他者から浴びせられる意見など意味を為さない。
彼女らの馴れ初めや行く末に興味はあるけど、詮索は無粋なので我関せずを貫き通す所存。まあ、最低限のTPOは弁えたほうがいいと思う。
物事は危険を伴うほどに面白みを増す。
とりわけ学校という聖なる教育の場で、人の目を盗み情事にふけることでしか味わうことのできないロマンやスリルは確実に存在する。それでもお互いの関係が周りにバレたら無事では済まないだろうに。
それ以外の意見はない。私は、自分のことで手一杯。
私に浮いた話はない。この学校に入学してから半年が経ったけど、恋人を作るための努力を一切していない結果に焦りも悲観もしていない。
しかし、私と違って日頃の努力が実を結び、恋愛が成就した眼がくらむほどの輝かしい幸せ者たちのいちゃつきを見る機会が増えて些か目の毒だ。
私のクラスの中にも付き合っている人がいる。大竹さんと船山くんである。羨ましい限りだ。仲が良いとは思っていたけど、どうやら古くからの幼なじみらしい。
旧知であることを知っている周りのクラスメイトからは「お前ら付き合っちまえよ!」と冗談で言われたら、「ぼ、僕と
会話好きな耳聡いクラスメイトの話によると、当初は船山くんには他に好きな女子生徒がいたらしい。
その女子生徒はいわゆる高嶺の花扱いを受ける謎の人物で、手を出そうものなら他の男子生徒から抜け駆けした報いとして袋叩きに合うらしい。
それでも船山くんは諦めず、うだつが上がらない状況を打開するために頼ったのが大竹さんである。幼なじみであることから気軽に相談できると踏んだようだ。
大竹さんは船山くんの切羽詰まった様子を見かねて、幼なじみのよしみとして恋愛相談に乗ることを決意した。
この時点から大竹さんは本当の意図を見せずに行動していたらしい。何を隠そう、大竹さんは船山くん一筋の人間だった。
巡ってきた千載一遇の好機を逃すまいと恋愛相談に乗りながらも、くどくならない程度に自分が持つ魅力のアピールを忘れなかったそうだ。
この二人の選択は功を奏し、恋愛相談を発端として、これまで以上の交流を重ね、二人は次第に距離を縮めていった。
幸運な船山くんは身近にいた大竹さんの魅力にようやく気付き、健気な大竹さんは船山くんを自分に振り向かせることに成功し、ついに付き合う運びとなった。
結果的には船山くんから好意を持たれていた高嶺の花が噛ませ犬になった形で少々可哀想に思う。そもそもそんな人物がこの学校にいることに心底驚いた。ご尊顔を拝むだけでも縁結びの効果が期待できそうだ。
私は高嶺の花とやらが一体誰のことなのか気になり、耳聡いクラスメイトを問いただすとその柔軟な口を真一文字に結んでしまった。ひた隠しにする程のものでもないだろうに。
高嶺の花と噂される人物であれば、周りの人間から憧れの眼差しを向けられる華やかさの権化であり、欠点が見当たらない人間の極致にいるような人物。私の学年にいるかな。それらしき人物が思い浮かばない。そうなると上級生か。
まあ、繋がりの薄い上級生のことを調べても不毛。この件は迷宮入りとする。
少なくとも自分の与り知らない場所で他者の幸福を作り出す手並みは尊敬に値する。そんな人物に私もなりたい。
それはさておき、恋人が出来ることは素敵なことだと思う。
大竹さんと船山くんが付き合う段階に至るまで何かしらの嬉し恥ずかしの積み重ねがあったはず。クラスメイトもそれを理解しているのか、今では変な弄り方はせず、生暖かい目で見守っている。
養護教諭と弓道部元部長の関係は、大竹さんと船山くんの関係に類似するものと扱っていいのか私にはわからない。一生かけても答えが出せそうにないお題目だと思ったら欠伸が出た。
私は今のところ他人の幸せを祝福できる心のゆとりがあるけど、それもいつしか独り身の焦りから失われ、他人の不幸こそ至福のものとする心無き悪鬼羅刹に成り下がってしまうのだろうか。
そのような外道に身を落とすくらいなら、孤独の道を笑って突き進む準備をした方がいい気がする。
私の運命の赤い糸は海底ケーブルの如く深い海の底に沈んでいるようで一向に姿を見せない。
自分の恋愛事情を考えて良い感じに眠くなってきた途端にドアが開く音がして、カーテンの外から微かなうめき声が聞こえた。
「はぁー……やっちゃった……やっちゃったなぁ……」
どうやら保健室を離れたのは弓道部元部長の方で、私が寝ていると思っているのか養護教諭は独り言ちている。
私に情事を見られたことに対する自責の念にかられているのか、それとも弓道部元部長との甘いひと時を噛み締めているのか。声色を聞いた感じ、前者の方だろう。他人の独り言を聞くのは得意ではないので、適当に聞き流した。
目を開けたついでに右腕を布団から出し、着けている腕時計を見た。保健室に来てからそこまで時間が経っていないことを確かめ、再び瞳を閉じた。
起きたら養護教諭に鎌をかけてみようか。
二人の八面玲瓏な馴れ初めを聞けるかもしれないし、今後の私の暇つぶしに役立つ……いや、どれほど慈愛に満ちた穏やかな人間であっても触れてはいけない逆鱗を持ち合わせている。何を切っ掛けに怒りのゲージのメーターがレッドゾーンに入るかわからない。その片鱗を見せたら最後、血を見ることもあり得る。特に大人は怒らせると怖いのでやめておこう。
ふと、「大人は壊れている」という現代社会を憂いた皮肉を聞いたことを思い出した。養護教諭のように抜けた人もいることが、この皮肉の信憑性を高める。
一体何が壊れているのか。肉体や精神か。
その曖昧なものが壊れたから大人になれるのか、壊れずに大人になれるのか、壊れたことに気付かずに大人になれるのか、それとも最初から壊れているのか。
私はどれに当てはまるのだろう。
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