第二十一話

 翌日。二時限目の英語の授業が終わる。

 周りのクラスメイトは各々に立ち上がり談笑を始めたり、次の授業に備えて移動している。

 私は自分の席から動かず、次の授業の準備もしないで、教室の窓の外に広がる景色に癒しを求めていた。

 窓から見える空の色は白く、雲の色は薄墨色をしている。北上してきた秋雨前線の煽りだろうけど、あたかも私の心情を映し出しているかのように物悲しく見える。

 情けないことに仮想のイタズラを恐れるあまり、気疲れが溜まってしまった。おかげで昨日は眠れていない。

 加えて今日は私が日直なので、学級日誌を書いたり、授業ごとに黒板を掃除したりと、余計な雑務に気が滅入る。

 心ここにあらずということが自分でもわかってしまうほどボケーっとしている。単純に昨日過剰摂取した糖分の影響が未だにあり、頭がふわふわしているだけかもしれない。

 ぼんやりとしながら空を漂う雲を見ていると、何者かがシャーペンを握ったままの右腕をトントンと叩いた。

 何かしらと思い、人の気配がする方に顔を向けた。

「あ……百井」

 百井が側に立っていた。手に体操着を持っている。

「次、体育だけど……」

「体育。そうだった」

 どうせ球技大会に向けた遊びのような授業だろうし、尚更やる気にならない。

 百井は私の煮え切らない態度を見て心配してくれたのか、「具合でも悪いの?」と言った。ついでに教科書とノートが広がったままの私の机を見て、「字、綺麗……」と小声で感想を述べた。

 私が書いた英単語に対してお褒めの言葉を賜ったとは言え、ノートをジロジロと見られるのは何だか恥ずかしい。

「うーん……ちょっと横になりたいかも」と私は机を片付けながら言った。

 それにしても私が本調子ではないことを見抜くとは、やはり百井は洞察力に長けているようだ。それとも不調が顔に出ていたかな。

「夜更かし?」

「まあ、そんなところ。だから体育はサボる」

 私は邪悪な考えを口にした。

「サボりだなんて、真面目な白川さんにしては珍しいね」

「ははは……そうでしょう」百井からの評価には乾いた笑いが出た。「保健室にでも行こうかな」

 今から昼休みも巻き込んで休めば、多少はスッキリするだろう。

「なら私もついていこうか?」

 百井は言った。

「いや、そこまでじゃないよ。あと日誌書いてから行くつもりだから。それに付き合わせたら百井が着替える時間なくなっちゃうでしょ」

「でも……」

「百井ーっ! 着替えに行こ―!」

 廊下からクラスメイトの誰かが百井を呼ぶ声がした。

「ほら、百井のこと呼んでいるよ。私は一人で大丈夫」

「……うん、わかった」

 百井は目元を擦って私から離れた。

 私はその後もしばらくの間、変わることのない外の景色を眺めていた。そして、クラスメイトたちが移動したことで、教室が静かになった頃合いを見て、黒板の掃除に向かった。

 黒板の全てを余すことなく使われている。英文がびっしり。

 なるべく綺麗な黒板にしようと、チョークで書かれた英文の端の方から順に、上から下へと黒板消しを力一杯に押し付けて拭く。上の方は私の身長だと背伸びしないと届かない。ちくしょう。

 丁寧に拭いてもチョークは薄く残る。こういうのを見ると思い切って水拭きしたくなるけど、授業ごとに水拭きしていたら手が荒れる。ただでさえ乾燥気味な時期。美容への努力を犠牲にしてまですることではない。

 黒板の掃除が一通り終わり、ため息が出た。

 百井に一人で大丈夫と言うんじゃなかった。私は被害妄想で体調を崩す弱い人間なのに。弱っている時に他人から気に掛けてもらえることは貴重なこと。それをふいにしてしまった。ああ、ダメだ。

 些細な問題から複雑な問題まで、ざっくばらんに相談できてこそ友達だという考えもあるかもしれない。

 それができなかったということは、私と百井は友達ではないのか。いや、友達だからと言って、何でもかんでも腹を割って話せばいいってものでは無いはず。

 百井は私から不明瞭なことを相談されて、尚も救いの手を差し伸べてくれただろうか。わからない。

 気圧の影響か、軽い片頭痛まで起きて思考が定まらなくなってきた。自分の鼓動が不快に感じるほど気分が悪い。早く横にならなければ。

 学級日誌の記入欄を適当に埋めて教卓の上に置き、早退も視野に入れて鞄を持ち教室を離れた。後のことは知らない。


 隠密の末に一階の廊下に到着。静かに廊下を歩き、職員室に差し掛かる。

 担任か学年主任に報告したほうがいいんだろうけど、面倒だったので素通りした。

 ほどなくして保健室にたどり着く。

 保健室のドアには「ノックをするように!!」と大きい注意書きが貼ってあり、その文言に従いドアを軽く叩いた。

 しかし、いるはずの女性の養護教諭から反応はない。

 席を外しているのか。確か職員室にも養護教諭の席はあるから、そっちにいるのかな。困った。

 職員室まで引き返すのは面倒だと思い、念のためドアノブを握ると、鍵が掛かっていないことに気付いた。

 ここまで来たのだから保健室のベッドの寝心地を味わっておきたい。

 そう思い、ドアを静かに開けて保健室に足を踏み入れた。

 まずは保健室に漂う消毒液の清潔感のある匂いが鼻についた。この匂いは好きでも嫌いでもないけど、今は片頭痛の影響で少し不快感がある。

 ドアを開けて真っ先に目に入る養護教諭の席には誰もいない。入り口から見える範囲では養護教諭の姿は見えない。

 けれども蛍光灯は点いていて、窓のカーテンが全て閉められている。

 部屋の大部分を占めて並ぶベッドは、窓際のベッドだけ仕切りのカーテンが閉まっている。誰か使用しているのだろうか。

 私には養護教諭が不在かもしれないこの状況で、ベッドを勝手に占領する度胸は無い。

 踵を返して大人しく家に帰ろうかと考えていると、窓際のベッドの辺りから物音がした。

 やはりベッドを使用している生徒がいて、その人を養護教諭が診ていたのかな? と、のんきに一番奥のベッドへ近づいた。

 すると、ベッドと窓の間で、窓のカーテンを背にした白衣を着ている養護教諭と黒いセーターを着ている女子生徒が仲睦まじく抱きしめ合う姿が目に入った。

 最初は幻覚か目の錯覚を疑ったけど、そうではない。教職員と生徒のスキンシップにしては些か過激ではないだろうか。

 お邪魔虫の来訪に気付いた二人は一瞬真顔になった後、状況を理解したのか「びゃあっ!!」と、二人して形容し難い悲鳴を上げた。そして、慌てた様子で反発する磁石のように勢いよく離れた。

 というよりかは養護教諭が女子生徒を突き飛ばした。憐れな女子生徒は壊すような勢いでベッドに倒れ込んだ。この人本当に養護教諭なのだろうか。

「あっ! ごめん! ええっと、そう! これは体温を測っていたのよ! ね?」

 養護教諭は女子生徒に謝罪しながらも同意を求め、私の目を誤魔化そうと意味不明なことを言った。

「うぐぅっ……」

 うめき声を上げてベッドから起き上がった女子生徒は気まずそうにしている。そして二人とも顔を耳まで真っ赤にしている。

 おぼこい私でも、この二人がただならぬ関係であることを感じ取れた。アワワ……。

 他人の情事を見てしまったことで少し動揺したけど、テンパる人を見たことで直ぐに冷静さを取り戻した。

 他に保健室を利用している人はいないようで、だからこそ情事にふけていたのかもしれない。とは言え、この場合どう対処したらいいのだろうか。

 以前この学校の風紀委員会の一人が、校内でいかがわしい行為に及んでいたと思われるカップルを廊下で正座させて、周りの生徒の見せしめに注意している場面に出くわしたことがあった。

 どの程度のいかがわしさだったのかは知らないけど、縮こまるカップルに反省を促す般若の如き形相の風紀委員会の姿には、横を通る私を含めた他の生徒など紙のように吹き飛ばす凄烈な勢いがあった。

 様子から察するに、私の口からは到底言えないような、くんずほぐれつの行為に及んでいたに違いない。その場合、風紀委員会の手には負えない問題の気もする。

 私もあの過激派風紀委員会の姿勢を見習い、校内の秩序を乱す異分子の排斥に努めて悦に浸るのも悪くはない。

 しかし、この二人が織りなした情事を生真面目に教職員へ報告して、事情聴取のために私まで拘束されるのは勘弁。

 先の情事について追及はせず、未だに冷や汗をかいている養護教諭に保健室を利用する正当なる理由を説明した。

 我関せずを選んだのは、彼女らのためではなく、私のためである。

 決して優しさといった生温いものではなく、私の人間らしいエゴを押し通したのである。少しばかりの休息で午後の授業に出られるものなら出たい。彼女らに気を遣い、この保健室から離れる義理はない。

 話しているうちに養護教諭は冷静になったようだ。もちろん検温は遠慮しておいた。本当に抱擁で体温を測られたら堪ったものではない。

 ようやくベッドの使用を確約し、養護教諭を不機嫌そうに睨む女子生徒に一礼してから廊下側のベッドに向かった。

 仕切りのカーテンを閉めて、念願の私的な空間が展開された。

 ブレザーとカーディガンを脱いでいると、仕切りのカーテンの外から養護教諭と女子生徒の会話がうっすらと聞こえた。まあ、聞き耳を立てるほどではない。

 それにしても窓のカーテンは閉めているくせに、なんでドアの鍵を掛け忘れているのか。二人して結構抜けているのかもしれない。

「白川ちゃん、ちょっといいかしら……?」

 仕切りのカーテン越しに養護教諭に声をかけられた。

「はい、なんですか?」

 私が返事をすると、仕切りのカーテンから養護教諭は顔を出した。とても青ざめた顔をしている。

「お願いがあります。さっき見たことは内密にしていただけると、すごく助かります……」

「誰にも言いませんよ。口の堅さには自信があります」

 私の自信満々の宣言に養護教諭は微妙な反応を示したけど、止む無く首を引っ込めた。

 もしかして私は、先ほど目撃した情事をネタにして金品を巻き上げようとしたり、服従を強いる外道な人間だと思われているのだろうか。それは少々心外である。撮影や録画していたわけではないし、恫喝しようにも報復が怖い。まあ、袖の下を用意していたのであれば、喜んで受け取るつもりだった。

 それに養護教諭が不安を抱く気持ちは分からなくもない。私のような小娘とする口約束に信頼性は無い。

 しかし、彼女らの危険な関係性が広まったら私が発信源だと即座に発覚するからこれでいいはず。さっきの慌てぶりを見るに、周りには秘密にしているのだろう。

 一つ言えることは彼女らは運が良い。私はこういったゴシップを軽々しく吹聴する悪趣味な人間ではない。下衆な話題がなくとも他人と会話できる。

 つまり私は淑女。そう思い、首元のリボンを外した。


 ベッドに横になったものの、まだ布団が冷たくて直ぐには眠れない。

 加えて彼女らのことが気にならないはずもない。あれはどう見ても軽いスキンシップで済むような密着具合ではなかった。

 私の探求心がムラムラと、否、メラメラと燃えている。

 彼女らからしてみれば、大したことのない行為かもしれない。だけど、私からしてみれば青天の霹靂で、初心な思考をかき乱す衝撃的な光景だった。

 だって、キスしていたから。

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