第二十話

 その違和感の正体とは私のローファーの位置が微妙に動いていたこと。本来であれば、下駄箱の下の段にぴったり揃った美しい状態で収納されているはず。

 それが見たところ、つま先側が開いたハの字のような形で収納され、位置も若干ではあるけど手前に来ている。本日は外に出向く用事や行事はなかった。つまりローファーが動く道理はない。

 まさか何者かが私のローファーにイタズラしたのか。

 何故だ。私への邪な愛情ゆえか。

 多少は振る舞いや言動に気を遣っているとは言え、誰かしらを知らぬ間に魅了していたとは思えず、歪んだ感情を向けてくる人物に心当たりはない。

 そして申し訳ないことに、多少のことでは動じない寛容な私でも、下駄箱を漁る行為を趣味としている変態からの求愛はお呼びでない。

 もしくは通話アプリが隆盛するこの世の中で、告白する際に古めかしくラブレターを一筆したため、下駄箱をポストのように扱う稀有な御仁の仕業かもしれない。実際神長は奥ゆかしき人物からラブレターを貰っている。

 私の薄暗い人生にも輝かしきモテ期が来てしまったか……などと心を躍らせる物体が下駄箱に入っている様子はない。エチケットのつもりで用意した靴用の消臭剤が見えるだけである。人の目がある時には恥ずかしくて使えないから中身は多量に残っている。

 それとも私に対する率直な敵対心の表れか。

 進学や就職を切っ掛けとして身を置く環境が変われば、人が嫌がる行為を平然とやってのける悪しきものと巡り合うこともある。そんな巡り合わせは真っ平ご免。

 とは言え、この学校の治安の良さはトイレの綺麗さが証明している。

 この学校のトイレの綺麗さと言ったら、美化委員会の活動が不要と思えるほどであり、生徒たちの道徳を重んじる高潔な精神が窺える。人によっては進学先の選考基準としてトイレの綺麗さに重きを置く人もいるとか。

 それに悪童が凄惨な事件を引き起こした話は聞いていない。かの郷右近先輩の破廉恥な横暴程度で、誰かが下らないイタズラに及んだとは考えにくい。

 しかし、事件というものは得てして陰湿な恥ずかしがり屋で、決まって世間の目を逃れて本性を現す邪悪な存在。日常生活で溜まるストレスの捌け口として、内に秘めた悪意をひっそりとした手口で他人に浴びせなければ気が済まない下劣な人間がいてもおかしくない。

 なんにせよ私的な空間を荒らすのは勘弁してほしい。イタズラするにしてもデリカシーが欠けているとしか言いようがない。扉を歪に凹ませて開けられないようにされるよりはマシなのかもしれない。他の生徒は被害を受けていないだろうか。

 教職員に報告を考えた。

 私の訴え一つで鍵付きの下駄箱が導入されることもあり得る。後に入学してくる後輩たちの心の平穏を思えば、ここで私が人柱になるべきかもしれない。

 けれども教職員が余計な支出や新たな下駄箱の利用規則の構築を嫌い、私の訴えは虚しく空を切る予感がする。買い替えが必要になる目立つ破損は見当たらない。

 百井ならこんな時、どう対処するのだろうか。

 自分に害を及ぼすものは草の根を分けてでも追い詰めて血祭りに上げたりするのかな。百井の生活態度を見ていると過激な思考の持ち主には見えないけど。厄介事には無縁な人間であってほしい。

 というか何でもかんでも百井に結びつけるのはダメだ。最近の私にはあらゆる物事を百井と繋げて考える悪癖が根付いてしまった。

 テスト勉強で用いた卑劣な勉強法に始まり、気まぐれでファッション雑誌を読んだ時には、すらっとしたモデルが着ている服を見て、百井がこの服を着たら似合いそうだなと思う。家で一息つくときにはコーヒーではなく、頂き物の高そうな茶葉を使いロイヤルなミルクティーを淹れる。果てはドラッグストアに立ち寄った際に、百井が身に纏う香りを思い出しながら試供品などを駆使して該当する商品を探る始末。

 まずい傾向にある。守るべき私のアイデンティティーが損なわれてしまう。自重しなければ。

 このまま下駄箱を睨んでいても然るべき対処に移れないので、私は恐る恐るローファーに手を伸ばした。私の下駄箱の位置は一番上の少し高い位置にあるので、まだローファーの内側を見ていない。

 画鋲でも入っているのかな? それとも、もっとヤバい物? と少し物怖じしながら下駄箱からローファーを引っ張り出した。とりあえず接着されてはいない。

 隈なく観察した結果、私は驚愕の事実に気付き、呆然と立ち尽くした。

 私のローファーにイタズラの痕跡はなかった。

 中に何も入れられていない、中敷きを盗られていない、意匠を壊されていない、重くなっていない、濡れていない、焦げていない、切り傷をつけられていない、靴底を削られていない、サイズは変わっていない、色は変わっていない。

 入学式から共に歩んできた私のローファーだ。ついでに下駄箱の中を確認する。何か仕掛けられている様子はない。

 見ただけでは知り得ないことをされた可能性がある。そこまで考えると切りがない。そもそも知りたくない。

 何より隠されたり廃棄されていない事実が心に安寧を齎す。ローファーに対するイタズラの中ではシンプルに被害が大きいだろうし、親に買ってもらったものだから大切に履きたい。デザインも気に入っている。

 落ち着いて思い返してみると、そこまで位置が動いていたわけではない気がしてきた。動いていたとしても恐らくポルターガイストの仕業だろう。この学校の七不思議の一つに数えられているオカルティズムな現象か。

 それか単に誰かが下駄箱の位置を間違えて私のローファーを手に取ってしまった可能性もある。これが答えの気がする。

 即ち私の気のせいだった。目を逸らしたい羞恥的な事実が私の頭を加熱してふらつかせる。少々厚着であることも相まって、首元にじんわりと汗が浮かんだのがわかった。

 この世は欺瞞に満ち溢れているとは言え、過ぎた疑い深さは考え物。この調子だと体調に悪影響が出てしまいそうだ。もっと人を信じなければ。

「しぃちゃんどうしたの? そんなにローファーを見つめて」

 神長が下駄箱の影から姿を見せる。

「うん? えーっと……踵が潰れていないローファーの美しさを再認識してた」

 私はそう言いながらローファーを履いた。変わらない履き心地には確かな安心感があった。

 これから神長はラブレターの送り主と向き合うのだろう。その計り知れない気苦労を考えると、私の抱えた不安を吐露しては水を差してしまう。


 神長とは通学路の途中にある彼女のバイト先のスーパーで別れ、私は自宅へ向かった。

 帰り道、途中の青色のコンビニで期間限定の秋っぽいお菓子を大量に購入した。

 過剰なカロリー摂取を敢行するのは、睡眠だけではストレスを解消できそうにもなかったから。嫌な記憶の上書きには美味しいものが不可欠。何も百井と遊べなくても気は晴れる。

 先の出来事は気のせいだと楽観視できる。

 私の被害妄想であれば無駄に苦悩しただけだから別に構わない。しかし、次から下駄箱の扉を開くのが少し怖くなった。

 イタズラを疑う認識を一度でも持ってしまったからには、目に見えない不条理を恐れる気持ちがまとわりつく。何事もない日々を過ごせば自ずと恐怖心は消えるかもしれない。そうはならないかもしれない。

 安心の担保になるような細工を下駄箱に施せるほど手先が器用ではないし、監視カメラの設置はもっと手に負えない。

 そもそもこんな馬鹿げた対処法を考えることに脳を使っている事実が嫌になる。

 今日はただでさえ心が荒んでいるのに、仮想のイタズラにいきり立つのは酷く道化だ。一旦忘れてリラックスしよう。

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