第十話
他のクラスの樋渡と神長とは私の教室の前で別れた。
廊下にいたクラスメイトたちの談笑を盗み聞く限り、今日席替えがあるそうだ。この調子だと学期毎に席替えをするのだろうか。もしかしたら一番後ろの席ともお別れになるかもしれない。さよなら
夏休み明け早々賑やかな教室に入る。
すると一足先に教室に入っていた百井が自分の席でクラスメイトと談笑している様子が目に入った。夏休み前によく見た光景に安心感を抱く。学校に来たって感じが強まってきた。
それはそれとしてここは本当に私のクラスの教室か?
クラスメイトの印象が薄い私でも気付くレベルで、身に纏う雰囲気が変わった人が見受けられる。教室を間違えているのではないかと錯覚してきた。高校生ともなると夏休みを境に雰囲気が変わる人がいると年上の親戚から聞いていたけど本当のようだ。
「おはよっ、白川さん」
一番後ろの私の席に着き、机の位置の調整をしていると、付近の席でどこぞの男の子と談笑していた女の子から声をかけられた。
誰だこやつは。
顔をよく見るとクラスメイトの
「おはよう」
私は朝らしい適当な挨拶をした。
「お、おはようっ、白川さん」
続けて大竹さんと談笑していた男の子から声をかけられた。
誰だこやつは。
顔をよく見るとクラスメイトの
「おはよう」
私は再び朝らしい適当な挨拶をした。
その後、大竹さんと船山くんは談笑を再開した。この二人の名前を思い出すために脳をフル回転させたから大幅にカロリーを消費したことだろう。
クラスメイトたちの収まることのない談笑で盛り上がる教室の中、私は一人自分の席から百井の席の方を目の端でチラリと見る。
未だに百井は他のクラスメイトと会話に花を咲かせている。見たところ百井に変わった点は見受けられない。いつも通りの髪型、顔立ち、制服。普通の百井。
私が百井に悶々と意識を向けているのには理由がある。私とて夏休みの間ただ家の中でゴロゴロしていたわけではない。私が抱える問題の解決法を導き出すために思考に熱を入れた。
そして今の私を取り巻く環境、物事に対する興味、現状の体力など諸々の要素を加味して、とある目標を立てた。
それは百井との親睦を深めるというもの。端的に言えば百井と友達になるというもの。苦悩した末に導き出した答えの割には随分と子どもじみた目標。
これが私の日常を動かす歯車足り得るか
早速その徴候としてクラスメイトの雰囲気が変化していることにそれなりに気付けている。今の私には魂の
何より私は百井に興味がある。それがこの目標の主な決め手。どんな音楽を聴くのか。進路はどうなっているのか。などなど。
この目標を推し進めるにあたって最も留意すべき点は、百井の迷惑にならないようにすること。肝要の極みと言ってもいい。
もし百井に気持ち悪がられたら、私は悲しみに耐えられず滝のように涙を流して体中の水分を出し切り、炎天下のコンクリートの上に出てしまった憐れなミミズのように干からびてしまうだろう。
そうならないためにも真摯な気持ちで百井に向き合い相応の努力が求められる……はず。
自信が無いのは、友達という関係はいつの間にか自然に構築されるものであって目標を立てて意気込むものではない。尤も、私が何か行動をしなければならないのは揺るぎない事実。このままでは腐ってしまう。
目標を立てたところまではいいのだけど、この目標はどのような成果を上げれば達成となるのだろうか。私の匙加減次第とは言え、何か落としどころは設けたい。つかず離れずの距離感を維持するとかかな。
目標達成の初めの一歩として百井と挨拶を交わしたい。何がともあれ挨拶は大事。
ならば即刻席を立ち、百井の席へと向かい爽やかに挨拶すればいい。簡単なことだ。頭ではわかっている。あとは体を動かすだけ。しかし、百井の周りに広がるあの楽しげな空気を
私があの会話の輪に入って円滑に事が進む光景が思い浮かばない。
これまで交友関係の新規開拓を疎かにしていたツケが回ってきた。今日は取り巻きの三人ではなく他のクラスメイトたちだけど悪い人間ではないのだろう。遠目から見ても百井と
私はさっきまで樋渡と神長と気楽に会話していたというのに、さほど雰囲気が変わらないあの会話の輪に入れないとは格好悪すぎる。
昔の私は今よりも更に能天気で名も知らぬ同年代の子たちと早々に打ち解けていた。そんな度胸を私はどこに置いてきてしまったのか。自分への憤りから右手で自分の髪の毛先を弄る癖が止まらない。
出来ることなら気軽に百井と会話したい。そのために百井の周りにいる人とも懇意になれればいいのだろうけど、並行して複数の人との関係の構築に努めていては精神が磨り減ってしまう。
今更ながら嫌な考えが思い浮かぶ。
もしかしたら私は百井と友達になるためのスタートラインにすら立っていないのかもしれない。これは少々卑屈がすぎるか。いや、百井も他のクラスメイトと同じではないか。交友を持つための基礎が盤石とは言い切れない。そもそも気合を入れたところで百井は……。
「おはよう、白川さん」
「えっ、あ」
私の頭が卑屈な思考で埋め尽くされる寸前で百井が現れて私は泡を食い、右手を髪の毛先から離した。
「久し振り……どうしたの?」
怪訝な様子の百井が私の顔を覗き込む。
「いや、なんでも。おはよう百井。えと……元気?」
私は散らばった平常心をかき集めて百井に応対した。
「夏休み明けで元気なわけないじゃん」
百井はそう言い、手をひらひらさせる。
流石は百井。正道を行く女子高生。長期休暇に名残惜しさを感じてこそ正しき学生と言える。
「それもそうだね」
「ふふっ、じゃあね」
百井は一笑いして自分の席へと戻った。
何が面白かったのだろうか。何がともあれ百井が来てくれなければ髪の毛が指に食い込んで血が出ていたかもしれない。
それにしても百井から良い香りがした。制汗スプレーやきつい香水によるものではない、ほんのりとした良い香り。
シャンプーか? ボディクリームの
担任が教室に入ってきて、ざわつく教室は鎮まり朝のホームルームが始まる。担任は出欠の確認をさらっと済ませて始業式についての説明を始めた。
それを聞き流してしまうほど私の心は百井に支配されていた。
私は百井に自信を持って話し掛けられなければならない。そうでなければ友達になるための均衡のようなものが保たれない。
挨拶くらいで会話の阻害にはならない。相応の図々しさをクラスメイトたちに見せれば今後も継続した日課として昇華できる。
だから明日。明日こそは私から声を掛けよう。
百井を知るためにも、あの香りの正体を知るためにもやはりそこからだ。
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