第八話

 その物体は不快な羽音を立てながら私と百井の周りを一頻りひとしき飛行したのち、後方に回って百井の背中にくっ付いた。

「なんか飛んできたよ」

 私はそう言い、百井の背中を指差した。

「えっ、やだ! 何っ!? ちょっと白川さん、取って、取って!!」

 百井は慌てふためき、小さな背中を私に向けた。

「おお、ノコギリクワガタ。熟したバナナでも隠し持ってたの?」

 百井の背中には後翅こうしを畳み忘れているノコギリクワガタがくっ付いていた。

「そんなの持ってないから! お、お願いだから取って!」

「わかったから落ち着いてよ」

 私は食べかけのアイスを急いで胃に入れ、向けられた背中に注目した。

 さて、百井の背中でうごめくノコギリクワガタをどう成敗したものか。

 放っておけば勝手に離れそうだけど、虫にくっ付かれるのはあまりいい気持ちではない。百井の取り乱した様子を見た限り、どうやら虫が苦手のようだ。流れで処理を承ったものの、別に私も虫が得意なわけではない。

 手で払おうにも力加減によっては潰してしまい、漏れ出た体液で百井の浴衣が汚れてしまうかもしれない。そもそも素手で触りたくない。

 ちょうどよくコンビニのビニール袋がある、これを手袋の代わりに使って捕獲してみるか。

 それにしても百井のよそおいの拘り様から察するに、中学の同級生との夏祭りを楽しみにしていたのかもしれない。気にしていないという強がりがその証明にも思えた。中学の同級生って男の子だったりしたのかも。

 だとすれば微笑ましいことだけど、結局はすぐに帰ってきたらしい。その顛末てんまつは少し可哀想に思ってしまう。百井に恋人のたぐいはいないのかな? 夏祭りってカップルの一大イベントだろうし。

 尤も、百井から恋人の有無を聞き出す自信はない。そもそも他人の色恋沙汰などの込み入った問題には首を突っ込まない方がいいだろう。こっちまで不要な火傷を負ってしまう。

 今は百井をノコギリクワガタの恐怖から解放することの方が先決……正直、そんなことよりも百井の少し汗ばむつやっぽいうなじが私の目を釘付けにする。

 百井は体育の授業で髪をまとめている時があるけど、今回は凝った髪型と鮮やかな浴衣を着ているから、普段のそれとは違った色気がある。

 なんというか……百井の見てはいけないところを見てしまっている気がして手が震える。バチが当たってしまうのではないか。私に明日は来ないかもしれない。

 まあ、それはそれとして中々の絶景。このまま眺めておくのもいいかも。

「早くぅ……」

 ぷるぷる震えている百井は急かしを入れた。

「動かないでっ!」

「ううぅ……」

 私の手際の悪さに憤る気持ちは分かる。

 私がしているのは百井の背中から一向に離れる気配を見せないノコギリクワガタの捕獲に細心の注意を払っているからである。

 決して百井の弱みに付け込んで、この綺麗なうなじを眺める至福の時間を延長したかったわけではない。断じて違う。


「はい。取れたよ」

 ビニール袋に入った獲物を掲げて百井に見せる。何かをへだてれば虫の恐怖も幾分か和らぐ。足が千切れなくてよかった。

「ありがと……」

 百井は青い顔をしながら言った。

「礼には及ばない。時間掛かっちゃったし」

 悪いことをした自覚はある。

「ふう……。えっと、ノコギリクワガタ? どうすんのそれ」

「どうもしないけど。こんな雑魚ざこは逃がす」

「売れたりしないかな」

「売れるのってオオクワガタとかでしょ。さあ、おき」

 適当な針葉樹にノコギリクワガタを留まらせた。その時に針葉樹の向こうの道を歩く夏祭りから帰ってきたと思われる家族連れが見えた。

 私は携帯電話も腕時計も持ってこなかったので、園内に設置されている時計で時間を確認すると今の時刻は午後七時頃。夏とは言え、辺りは薄っすらと暗くなり始めている。

「暗くなってきたから、そろそろお開きにしようか」

 夏祭りから帰ってきた人たちにそこら辺で花火でもおっぱじめられたら堪ったものではない。潮時だろう。

「あっ……そうだね。帰ろうか」

「ありがとう百井。話し相手になってくれて」

「いえいえ、こちらこそ」

 百井とその場で別れて、それぞれ公園の別の入り口から家に帰った。私は受付小屋がある入り口から。百井は車の出入りが可能な西側の入り口から。


 物静かな公園から一転して夏祭りの帰りの人々が跋扈する街中に入り、私もその喧騒の一部となる。その居心地の落差と疲労からか片頭痛がしてきた。道路を走る車のヘッドライトがいつも以上に不快に感じる。

 街中を歩いていると遠くの方から頭に響く打ち上げ花火の破裂音が聞こえた。この街中は高い建造物が多く打ち上げ花火は見えない。だけど私は歩く速度を速めたりはしない。最初はなから打ち上げ花火を楽しみにはしていなかった。

 百井と遭遇したことで打ち上げ花火に対する僅かな興味は消えた。花火師の方には申し訳ないけど、百井との遭遇は私の物事の優先順位が上書きされるほどの予期せぬ事態だった。街中で百井の存在に気付けたということは思いの外、私は百井のことを見ていたのかもしれない。そうなると私は自己分析が出来ていなかったことになる。うーん、情けない。

 久し振りに会った百井との会話は少しの間とは言え楽しかった。私から誘った以上、可能な限り会話を盛り上げようと努力したけど、結果は散々だった。夏休みの過ごし方の参考になることを聞けなかったことが悔やまれる。数少ない収穫は百井の慌てふためく様子を見られたことかな。


 ふらふらと歩いて少し疲れてしまった。しょうがなく途中で再び青色のコンビニに寄った。

 水を買い、休憩するためにイートインの席に着いた。

 先ほどから続く耐え難い頭痛は熱中症によるものではないと思うから、あまり頼りたくないけど普段から持ち歩いている頭痛薬を飲んだ。薬を飲んだという気休めの安心感が欲しかった。

 椅子の硬い背もたれに全身を預けて一息入れ、窓ガラスの向こうを観察する。ぼんやりと色取り取りの浴衣を着ている人々が歩いている様子が見受けられる。

 百井もそうだけど、何かしらの思惑があって浴衣のような鮮やかな装いで出歩いていると思うと、ご苦労なことだと尊敬してしまう。友達付き合いとか、好きな人に褒めてほしいとか。自分の綺麗な姿を見せたい相手がいるということは、何ものにも代え難い幸せなことなのだろう。それぐらいは私にもわかる。


 休憩を終えてコンビニを出た。

 入り口から離れた場所で頭に酸素を送るために深呼吸。そのついでに空を見上げた。

 息が詰まりそうな暗澹あんたんとした青黒い空が私を見下ろす。

 場所によっては見た人の記憶に残る打ち上げ花火の煌めきで彩られた空だったのだろう。もう打ち上げ花火は終わったのか街中にはいつもの喧騒だけが残っている。

 百井はこの空を見てどう思うのだろうか。もう家に着いているか。公園の位置的に百井の家の方が私の家より近い。まっすぐ家に帰っているとは限らないけど。

 コンビニを離れて家に帰る道すがら、さっきまで一緒だったからか、つい百井のことばかりを考えてしまう。

 浴衣を着ている綺麗な百井。朗らかな顔。私に呆れてひそめた眉。気前の良さ。慌てふためく様子。ちょっとだけ感じた背中の感触。青ざめた顔。思い出すのは百井のことばかり。たこ焼きの味やアイスの棒の当たり外れは忘却の彼方。

 とりわけ、百井のうなじは私には刺激が強く、あの光景は私の網膜に焼き付いている。この事を百井に伝えたら確実に気持ち悪がられることが目に浮かぶ。秘密にしておこう。

 私は歩く速度を速めた。

 このまま朝になってしまうのではないかという恐怖を感じた。

 私にとって百井のことを考えている時間は、いわゆる「楽しい時間はあっという間に過ぎる」という感覚で、刹那と言ってもいい。

 今。その感覚が胸の奥にある。

 どういう感覚なのか理解しているのに、なぜか未知のものに思える。

 それがなんともこそばゆかった。

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